六章 十九丁 死命を制す
素早しこく逃げる鬼の背中は皮膚が一際硬い、ならばと回り込み、頸、心のみを卜部は狙う。
瞬きする間もなく攻め掛かられ、迅速の剣技を躱し切れぬ疫鬼は、どうにか急所を庇い、至る所に掠り傷を増やしていた。
「何だお前ぇ!! やめろッ!! やめろってばッ!!!」
右往左往と逃げ迷う鬼へ、卜部は問答無用で剣戟を浴びせる。
剣先が首の皮膚を削ぎ、いやが上にも生命の危機を感じた疫病は、腰壺の一つを掴み取り、卜部目掛けて中身をぶち撒けた。
「だからやめろよぉぉーッ!!」
液体は尾を引くように四散し、不可避と断じた卜部は、瞬時に脱ぎ捨てた羽織で毒液をはたき落とす。
翻した羽織が盾となって、毒の雫を受け止め、その衣の影から、あらん限りの力を込めて疫鬼を斬る。
だが、両断したのは衣のみで、すでに鬼は、手出しの及ばぬ間合いまで退いていた。
毒液は羽織が舞い落ちるまでに、布を溶かしながら瞬く間に気化し、周囲には、へどろが混ざり合ったような臭気が充満する。
その悪臭が風に乗って流れ込み、慌てて口元を覆った老人達は、合羽を黒桜丸へ被せて毒を凌ぐ。
液体が染み込んだ地面は音を立てて泡立ち、辺りに毒を撒き散らかされては近寄れず、卜部は歯痒くも後退した。
「いきなり何しやがるぅ!! 何だお前はよぉッ!!」
首の切り傷を押さえてわなわなと激高し、疫鬼は立ちはだかる男を睨む。
「化け物がッ…!!! この日を幾許待ち侘びた事か…ッ!!」
卜部は毒気を斬り払うように刃を振るい、鬼に歩み寄る。
「はぁぁ !? お前なんて知らねぇよぉお !! それよりッあのジジイは流石にくたばっただろう !!? 二十余年だぁ!! 二十年ッ!! 生きてる筈がないよなぁぁあ!!」
怖々といった様子で周囲を見渡し、斬瞑天月へ目を留めた鬼は、したりと分厚い唇を歪める。
「長かったぁあ…こんなに痩せちまってぇえ…ッ!! いいから小鬼を寄越せよぉおーーッ!!!」
あばら骨の浮かぶ萎れた腹を、摘まみ上げて喚く下劣な仕草に、激情を駆られた卜部は地を蹴った。
鬼は壺の一つをたたき割り、毒気を帯びて迎え撃つが、鋭い銃声と同時に痛みが走り、ぎゃあと短く悲鳴を上げた。
二の腕から、潰れた弾丸が転がり落ち、皮膚に薄らと残る痣を、鬼はさも大怪我のように撫でる。
「先生に近付くなッ!! 化け物ッ!!!」
銃を構えながら樋造は叫び、再度、引き金を引く。弾は疫鬼の肩に当たり、やはり鬼は痛みに悶えた。
火縄銃は一発放てば弾薬を詰め直さねばならず、錨の手を借りて、火薬と弾丸を補充し、最も扱いが優れた樋造が狙い撃つ。
「樋造 !! これも使えーッ!!」
吉平は瓦礫から火縄銃を掘り起こし、樋造へ投げ渡す。それを受け取った樋造は、すぐさま銃弾を放った。
口惜しくも、弾はひとつも鬼の皮膚を貫かない――。それでも、財産を投げ打ち、手にしたこの武器が、恨みを返す唯一の手段であり、力無き老人達のできる足掻きだった。
「樋造殿…っ」
村人達の存在を肌で感じ取り、卜部の激怒は潮が引くように静まってゆく。
「いででッ!! 鬱陶しいなぁ!! お前らぁああッ!!!」
疫鬼はついに青筋を立て、もごもごと口を動かしながら、獣の様に身を伏せて大地を駆けた。
ネイと卜部は、その行方を阻もうと斬り付けるが、疫鬼は腕力でそれらを薙ぎ払い、突っ切ってゆく。
地響きを起こしながら猛烈な勢いで迫り来る鬼を、誰も居ない方角に樋造は誘導する。錨と山治もその後に続き、銃口を構える樋造を挟み込んで武器を握り締めた。
あくまで迎え撃とうとする老人達の猛り立つ形相は、死に、一片の恐れも抱いていない。
「だめだッ!! 逃げろッ!!!」
膂力 が増した鬼の速さには到底追いつけず、ネイは声を枯らし叫ぶことしかできない。
されど、卜部は鬼の真後ろまで追い迫り、頬を 膨張 させる疫鬼が、何かを仕掛ける前に、早まって背後から斬り掛かった。
©️2025 嵬動新九
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