六章 十丁 在りし日の面影
「ただ一つ、剣術だけは頑なにお教えくださいませんでしたが…、卜部様ほどの方が勿体ないと……断りなく道場を建て……。 指南を仰ぎたい村の若者は皆……卜部様の元へ集いました……」
小屋を建て直し、道場へ造り替えたのは、成人を過ぎた卜部が本当の意味で村の一員になり、新たな門出を祝ってのものだった。
しかし、樋造は幸福とはいえぬ表情でこの先を語った。
「喜んでいただけると思うていたのですが……、時々見掛ける卜部様の寂しそうな……あのお顔を忘れられません……。 今となれば……、それが過ちだったのでしょうな……」
そう言い、樋造はすっかり首を俯けた。
悲嘆に沈むその姿があまりに気の毒で、ネイは言葉を掛けられず、老人が心を立て直すまで待つしかなかった。
だが、壁に凭れて聞き耳を立てていた黒桜丸は、揺るがぬ心で先を促す。
「何があった?」
答えを求められた樋造は、炉火に当てられる皺面を深めて、やがて重い口を開ける。
「鬼が…現れたのです」
想定していた言葉が現実となり、二人の眉間に力が入る。
「彼奴は儂等の――…っ……卜部様の教え子を毒で殺し……! あの方の両目を奪い去った……っ!」
樋造は、当時の惨劇を思い出して歯を食い縛る。
「儂はその光景を見ずに済んで……良かったやもしれません……。 でも卜部様は…っ、一人死に残り…癒えぬ傷を与えられた……っ」
床を血塗れのまま置いておくのは、戒めであったからだと、卜部の深き深き 怨讐 をネイは脳裏に視た。
「あの日以来ご自分を責め……。 二十二年もの間、奴が出で来るのを…洞の前で待ち続けておられます……」
耳を疑う事実を告げられ、ネイは思わず顔を上げる。
「二十二…っそんな…! あれ程の大毒を浴びて…!」
声を乱して動ずるネイに、老人は痛々しい表情で頷き返す。
「…はい。 信じられぬやも知れませぬが……」
並みの人間ならば疾に命絶えているものを、猛毒すら耐え凌ぐ強靱な気魄にネイは恐れすら感じた。
「…あの身体でこれ以上は………」
しかし、精神は不屈であっても、肉体は着実に死に瀕している。
それを樋造も察してか、固く握っていた膝辺りを、さらにきつく握り締めた。
「如何な説得も無駄でした……。 それどころか……、儂等は事の責めを……すべてあの方に負わせた……」
今にも泣き出しそうな面持ちで樋造は言い、ぐっと瞼を閉じる。
「我々に出来るのは……、せめて…お側で見守る事だけ………」
消え入るように樋造の声が途切れると、室内には囲炉裏火の爆ぜる音のみが虚しく鳴り続けた。
誰もが言葉を失い、心が沈み込むまま炉火の音に耳を傾けていれば、戸口ががたりと開いた。
村を訪れた際、家から出てきたあの老人が表口に立ち、遠慮がちに中の様子を窺って呼び掛ける。
「……今日はいいのか? 樋造」
己より年若いその男へ、樋造は親しげに微笑む。
「いや、儂も行くぞ」
そう答え、床に手を付いて立ち上がった。
「…どちらに?」
外はすっかり夕闇に落ちており、こんな時分から何が出来るのか、ネイは去り行く背に尋ねる。
すると樋造は、草履を履きながら振り返り、掻い摘まんで行き先を告げた。
「様子を見に。 ――ですがまぁ…殆ど……、倅に…会いに行くようなものです。 ……話半ばに申し訳ない、こればかりは儂も……欠かした事はありませんので……。 すぐに戻るので……」
早々と一同へ頭を下げて戸を潜る樋造を、ネイは呼び止める。
「共に、…行ってもよいですか?」
ネイの提案に、樋造は躊躇ってどうすべきか考え込んだ。
しかし、その返事を待たずに黒桜丸はさっさと表へ出て行った。
「……お勧めはしませんが……、少しなら……」
黒桜丸の有無を言わせぬ態度に、少々目を丸くした老人達は、此方に配慮して同行を受け入れてくれた。
行く場所に心当たりがあるため、御鈴姫へはここに残るよう伝えると、おかずと握り飯を食べ終えた狛和丸が、膝で鼾を掻いているので素直に従った。
犬神をそっと撫でる御鈴姫の顔は笠に隠れて見えないが、心苦しい話の後ですっかり気落ちしていた。
そんな様子を目にして置いてゆくのは気が引ける。
けれど、どうしても確かめなければならない事があり、ネイは老人達と共に、暖まった家を去って冷々しい宵へ出掛けていった。
©️2025 嵬動新九
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