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緋の砂  作者: みーねこ
32/36

未来に咲く薔薇②

     2

 日が昇り、日が沈む。明るくなれば朝だと思うし、暗くなれば夜だと思う。


 それ以外のことは考える気になれなくて、ロゼは毛布にくるまったままベッドから一度も出ようとしなかった。


 侍女のスミレが定期的に運んでくれる食事やいれたての紅茶も、ほんの少し手をつけただけで後は横のテーブルに残していた。


「せめて食事はきちんと取ってください。ご病気になってからでは遅いのですよ」


 部屋に入ってくるなり、ほとんど口をつけていない食事を見て、リリィは苦言を呈した。


 あれから数日、リリィは頻繁に部屋を訪れて見舞ってくれている。忙しい中わざわざ足を運んでくれるのは嬉しいのだが、無理をしているのが目に見えてわかった。日に日に濃くなっていく目の下のクマが、彼女に心労が絶えないことを物語っていた。


 天井を眺めるロゼの目尻に、また涙が溜まり始めた。

 リリィに無理をさせているのは、自分のせいだ。わかっているが、どうしていいかわからない。心にぽっかりと大きな穴が開いてしまってから、何も手につかないし、何もする気にもなれない。ただこうして突然来る虚しさに、涙するしかないのだ。


 そういえば、ずっと前にもこんなことがあった。


 初めて女王として『薔薇の決闘』を観覧した時、あまりの衝撃にその場で失神してしまったことがある。ようやく意識を取り戻してすぐに、アイリスから怒涛の折檻を浴びせられた。

 自分から望んでなったわけでもないのに、女王という地位が重くのしかかる。逃げ出したくても逃げ出せない城という名の檻の中で、頼れる者もなく一人泣き続けた日々。そんな時、唯一手を差し伸べてくれた人がいた。


 辛い時は思い切り泣けばいい。そして、ひとしきり泣いたら、次に進むことを考えなさいと、優しく頭をなでてくれた。


 もう一人で泣かなくてもよくなった。泣きたい時には、必ず傍にいてくれる人がいたから。泣きやむまでずっと傍にいてくれて、その後には必ず次に進む勇気をくれた人がいたから、今まで女王としてやってこられたのだ。


 その人は、もういない。


「陛下……」


 ため息交じりに漏らしたリリィの声が辛くて、ロゼは背を向けた。溜まっていた涙がこぼれ落ちて、シーツがわずかに滲む。


「陛下、辛いお気持ちはわかります。ですが、いつまでも……」


と、言いかけてリリィは言葉を止めた。止めざるを得なかったのだ。突然、扉が騒々しく開いたために。


 扉を開けて入ってきたのはアイリスとネルケだった。ノックもなしに無作法で入ってくるのは、女王を女王と思って接していない証拠である。


「アイリスさん、何ですか、突然?」

「陛下のサインをいただきたく、参上したまでですわ」


 遠慮も何もないままずかずかと入ってくると、アイリスは一枚の書状をベッドに横たわる女王に向かって提示した。


「陛下、こちらにサインを」


「ちょっと待ってください! 陛下は今、そのような状態では……」

「仕事もせずに、毎日泣いてるだけなんだから、サインくらいできるでしょ」


 女王の容体を気遣って止めようとするリリィを、ネルケが横から一蹴した。そう言われてしまっては、フォローのしようがない。


「いったい何のサインをさせるつもりですか?」


 リリィにとって、ようやく出てきた言葉がこれだった。

 アイリスは微笑を浮かべながら答える。


「もちろん、『薔薇の決闘』を承諾していただくためのサインですわ」

「『薔薇の決闘』ですって?」

「ええ、そうですわ。三日後、ルカ・クレアローズを『薔薇の決闘』にて公開処刑いたします。リリィ、あなたの部屋にも詳細な書類を届けてありますわ。必ず目を通していただけますこと?」

「ちょっと待ってください! 『薔薇の決闘』ということは、ルカさんと闘う剣士が必要です。いったい誰が?」

「もちろん決まっていますわ。私自らが、相手をします」


 衝撃的なアイリスの言葉に、リリィは目を見張った。と同時に、全身の血の気が引いていくのを覚えた。

 アイリスが闘技場に立つということはどういうことか、想像しなくてもすぐに察しがつく。血を見るだけでは済まないということだ。


「陛下、サインを」


 横たわるロゼの背中を突き刺すように、アイリスの声が響く。


 恐怖に身を震わせるロゼは、ベッドから起き上がれそうになかった。アイリスの鋭い視線。そして何よりも、自分のサイン一つでルカの運命が決まってしまうことへの恐怖が、ロゼの身体を硬直させる。


「待ってください!」


 見かねたリリィが、アイリスを制した。


「ルカさんの処刑の件は、通常のヴォルフに刑を執行するものとは違います。刑罰に関してあなたに権限があるとはいえ、勝手な判断は困ります!」

「リリィ、あなた、看守に命じて家具を牢へ運ばせましたわね? ヴォルフに手を貸す行為は、処罰の対象だということを、まさか法を司るあなたが知らないとは言わせませんわよ?」

「それは……」

「勝手な判断をなさっているのはあなたのほうではなくて、リリィ?」


 痛いところを突かれて、リリィは口ごもるしかなかった。

 苛立つように嘆息を吐くと、アイリスはさら語気を強めてロゼに詰め寄る。


「無駄な時間は費やしたくありませんのよ。私も忙しいのです、陛下。ものの数秒起き上がってサインをすればいいだけのことでしょう。なぜそれができませんの?」

「……」

「いつまでそうしているおつもりですか? いい加減になさい!」


 堪忍袋の緒が切れたアイリスは、声を荒げて勢いよくテーブルを叩いた。天井を突き抜けるほど激しく鳴り響いた衝撃音とともに、乗っていた食器が無残にも床に飛び散って割れた音も轟いた。

 その荒々しい音に、ビクっと身体を痙攣させたロゼは、恐怖に顔を歪めながら恐る恐る起き上がった。


 図らずも物が落ちてさっぱりしたテーブルに書状を置くと、アイリスはロゼにペンを握らせた。

 握ったペンを小刻みに震わせながら、ロゼは指示通りにサインをする。サインをし終えるや否や、その紙は手元から奪い取られた。まるで、サインが涙で滲んでは困るとばかりに。


 用事が済むと、アイリスはネルケとともに呆気なく部屋を出ていった。


「フン、小娘が」


 部屋を出る間際に吐き捨てたアイリスの一言が、壊れかけたロゼの心にとどめを刺す。


 そのままロゼは泣き崩れた。

 もう止めることはできない。もう二度と戻ることはできないのだ、あの心癒された日々に。


 三日後。あの人は、死ぬ……。



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