過去との決別⑥
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蒼く澄み渡った大空を一羽の鳩が翔る。純白の毛色をもった鳩は、整然と密集する屋根を真下に望みながら、風に乗って旋回した。
天を突き刺すがごとくそびえ立つ尖塔の城。その先端には、風にはためく旗がある。そこに描かれた大輪の薔薇は、今にも散りそうなのは、気のせいだろうか。
鳩は、空中でその城に尾を向けた。それから羽を羽ばたかせて、ゆっくりと降下していく。
ある家の小窓に降り立つと、鳩はあいさつでもするかのように鳴いた。
すると、一人の少女が窓に近寄ってきた。髪を二つに結んだ色白の少女だった。少女は、鳩の細い足に結びつけられた小さな紙を見つけると、そっとほどいてその場で広げた。
「クロスからだわ・・・・・・」
小さく呟いた少女の頬が、少し赤らんだ。
窓に留まったままの鳩は、一喜一憂する少女の姿を、小首を傾げながら眺めていた。
シレネ
この手紙を読んだら、すぐに燃やして処分してくれ。おまえだけに、重要なことを知らせる。
今、極秘に新たな組織が立ち上がろうとしている。もちろん、リボルバーヘルトの改革のためだ。まだ集まりは小さいが、これを募ったのは、国王の側近である男だ。これから大きな力を持つことは、まず間違いない。
俺もその組織に参加し、水面下で着実に動いている。時期はまだ模索中だが、準備が整い次第、クーデターを起こす。国王を失脚させ、追放する。そして、リボルバーヘルトを新たに立て直すのだ。
おまえと暮らせる日が来るのも、きっとそう遠くない。
クロス
簡単に走り書きされた短い文だったが、クロスの想いが伝わってくるようだった。
国を変えようと意気込む彼の姿が、目に浮かぶ。これほど重要な内容の手紙をよこしてくれた理由は、きっと最後の一文にあると、シレネは胸をときめかせた。
シレネは、すぐさま机に向かった。返事を書くためだ。紙を小さく切って、ペンを走らせる。
窓には、返事の手紙が結びつけられることを待っているかのように、鳩がずっと留まり続けていた。
「クロスへ・・・・・・」
そう書きかけて、シレネはふともう一つの手紙のことを思い出した。
ルカから預かった手紙だ。
まだミルテには渡せていない。あれから、ミルテの行きそうな場所をいくつか当たったけれど、彼女に会うことはできなかった。今、どこで何をしているのだろうか。まさか絶望の末に……と悪い方に考えそうになっては、かぶりを振って思い直した。
シレネは返事を書くと、鳩の足に結びつけた。手紙の重さをしっかりと確認した鳩は、大空へと飛び立っていく。
ずっと高く舞い上がっていく様子を、シレネは最後まで見送った。
純白の羽が一枚、ひらひらと舞落ちてきた。その羽を見つめながら、シレネの視線が下がっていく。羽は地面に音もなく着地したが、シレネの視線は地面まで行かなかった。行けなかった。彼女の前に、一人の少女が立っていたからだ。
「ミルテ……」
驚きとともに、安堵の涙がシレネの頬を伝った。
シレネは、すぐさま家を飛び出すと、立ち尽くしているミルテに駆け寄った。
「どこ行ってたの?心配したんだよ!」
ミルテを抱きしめて、涙声で声をかける。
「ごめん……」
と、ミルテは、小さく言った。
この数日で、ミルテはずいぶん痩せた。もともと細い方だったが、以前はほどよく筋肉が引き締まっていて、抱きしめるとちょうどいい柔らかさが感触としてあったものだ。だが、今は骨ばった硬い感触が伝わってくる。
シレネは、無言のまま抱きしめていた。かける言葉が浮かばなかったというのもあるが、ミルテの言葉を待っていたのもあった。
「アタシ、もうどうしていいかわからない……」
シレネの肩に顔を埋めて、ミルテは口を開いた。
今までさんざん泣きつくした。だから、重く沈んだ瞳から涙はもう一滴も出そうになかった。涙が枯れるまで自問自答して、それでも答えが出なかった。
心から敬愛していた人が、ヴォルフだった。裏切られたと思った。
自分に地獄の日々を与えたヴォルフ。そんなヴォルフの支配から脱して、ようやく生き生きと暮らしていけると思ったのに。
ヴォルフを助けるための任務を言い渡されたとき、何もかも腑に落ちなかった。なぜ、自分たちに苦痛を与えてきた悪の権化を助けなければならないのか。同じ苦痛を味わせてやるのが道理ではないのか。
敬愛するその人は、しきりにヴォルフをヴォルフとしてではなく、一人の人間として見ることを説いた。
理解できなかった。その言葉の意味ではない、なぜそんなことを言うのかが、だ。
ようやく理解できたとき、それは知りたくもない事実を目の当たりにしたときだった。
ヴォルフはヴォルフを助けたかっただけだ。だから同情したのだ。なんの抵抗もできずに死んでいく同胞に。
その手伝いをさせられていたかと思うと、悔しい。狂おしいほどに、憎らしい。
それなのに、どうしてだろう。まだどこかで、あの人を敬愛している自分がいる。あの人を貶めたことを悔いている自分がいる。なぜ……?
ミルテは、言葉を続けなかった。想いは頭をぐるぐるとかけ巡るが、言葉としてうまく発することができない。自分の気持ちも考えも、何もかもわからなくて整理がつかない。だから、どうしていいのかわからない。シレネなら、答えをくれるだろうか。
沈黙は、いつの間にか二人の心を通じさせていた。おもむろにミルテの身体を放すと、シレネはポケットから手紙を取り出した。
黄みがかった紙を一巻きにした簡素な手紙だ。
「ルカ様から。きっとミルテがほしかった答えが、ここにあるんじゃないかな」
差し出された手紙を、ミルテはしばらく見つめたまま手に取ろうとはしなかった。
ミルテの手が動くまで、シレネはずっと待った。
どれくらい時間が経過しただろう。ミルテは、観念したように手紙を手に取った。それでもまだ、開けられずにいる。
眉間にしわを寄せて、手に持つ一枚の紙を睨みつけるミルテを、シレネはもどかしそうに見つめた。
でも、これはミルテが自ら開けなければ意味がない。そう思うと、シレネは見守るしかないのだ。
ミルテの手がゆっくりと動いた。緊張しているのか、まだためらっているのか、少し指先が震えているような気がした。
ゆっくりと確実に開かれていく。ミルテの視線が、自然と手紙の文字に向かった。
手紙に目を通すミルテの顔を、シレネは見守った。表情が小さな変化を見せる。最初、驚いているように見えたと思ったら、下唇をかんで次第に泣きそうな顔になっていく。
シレネの中で、不安が渦巻いた。手紙の内容は知らない。だけど、ミルテの目から涙がこぼれ落ちて、それからしゃがみこんだとき、少しだけ後悔の念がよぎったのは確かだ。ミルテの求める答えは、その中にはなかったのか――。
「ミルテ……」
「これが、答え……?」
涙に滲んだミルテの声が、手紙に向かって投げかけられる。
「あの人が、アタシにくれた答えなの?」
手紙を見つめたまま、ミルテは涙を流し続けた。枯れたはずの涙は、またも彼女の目から溢れて、黄ばんだ紙を濡らしていく。
その涙は、どちらの涙なのか。落胆に嘆く涙か、それとも……。
どちらともとれなくて、シレネは手紙をのぞき込んだ。何が書かれていたのかわかれば、この涙の意味がわかるはず。
数行読んで、シレネは目を見張った。
(この手紙……)
綴られた文章は、ルカが書いたものではなかった。ルカに宛てられたもの。いや、正確には、ルカを介してミルテに宛てられたものと言うべきか。
洗練された綺麗な筆跡だった。
最初に、ルカに対する非礼を詫びた文があった。それから、手紙の主の自国に対する率直な想いが綴られていた。
変わらなければならない。否、変えなければならない。
それは、まるでつい先ほどクロスから届いた手紙を読んでいるようだった。
この主もまた、愛する者とともに暮らせる国を創りたいと望んでいる。男と女が手を取り合える世界を。
そして、最後にミルテに対する懺悔の言葉が綴られる。
はっきりと彼女の名前を出しているわけではなかったが、その内容から彼女のことだとわかる。少なくとも、ミルテは確証したはずだ。当事者にしかわからない言い回しで語られていたのだから。
末端に書かれたサインは、半分ミルテの涙で滲んでしまい、かろうじて「ルーダ」という文字が読みとれただけだった。
手紙の内容を把握し終えて、シレネはミルテの涙の意味を悟った。でも、それは誤解だと、すぐに思った。ミルテは、誤解している。
ミルテはきっと、ルカからの言葉を期待していたに違いない。それに反して、ルーダという男からの手紙だった。しかもその男は、ミルテとは少なからず因縁のある人物だったのだ。なぜ、そんな男からの手紙をミルテに読ませたのか。今のシレネなら、なんとなくわかる気がした。
「ミルテ、ルカ様がこの手紙を私に託したとき、ミルテに伝えてほしいって頼まれたことがあるの」
落胆に頬を濡らすミルテの肩を、シレネはそっと抱いた。
「『ありがとう。あなたは、良き部下であり、妹のような存在でした』って」
ミルテの身体が、小さく反応する。
シレネは続けた。
「ルカ様、自分が牢屋に閉じこめられて、明日をもしれない状況なのに、ミルテのことすごく心配してた。ミルテのこと、一言も責めなかったよ。ミルテが泣いて苦しんでるんじゃないかって、そればっかり心配してたんだよ」
思い出して、シレネの目にも涙が浮かぶ。
「それって、ミルテがルカ様を大切に思ってたように、ルカ様もミルテのことを本当に大切に思っているからじゃないかな」
ミルテの肩の震えが止まった。
「その手紙も、きっとミルテのためを思って、私に託したんだと思うの。ミルテが、誰かの言葉じゃなくて、自分で感じて考えて答えが出せるように。ちゃんと過去と向き合えるように」
ミルテは、おもむろに顔を上げた。泣きはらした目に、まぶしい光が飛び込んでくる。単なる日の光かもしない。それでも、ミルテには希望の光に見えた。
やっと暗がりから抜け出せたと、ミルテはその光を肌に感じ続けた。