過去との決別①
お待たせいたしました。投稿に毎回時間がかかることをお許しください。
第六章:過去との決別
1
「ヴォルフ……」
ルカの上半身が露わになったとき、闘技場にいた誰もが息を呑んだ。
観客も、そして四天王も女王も。
思わずその場に立ち上がった女王ロゼは、血の気の引いた顔を左右に震わせた。
目尻から一筋の涙が垂れる。その涙が頬を伝い床に落ちた。それが何かの合図だったかのように、女王はその場で卒倒したのであった。
「陛下!」
そばにいた四天王たちが、すぐさま彼女を抱き上げた。しかし、何度となく揺すっても、名前を呼んでも、彼女が意識を取り戻すことはなかった。
「陛下……陛下……!」
優しく澄んだ声が、どこからか聞こえてくる。
ロゼは、おもむろに手を伸ばした。苦しいとき、不安なとき、必ずつかんでくれる温かい手を期待して。
「ルカ……」
目を覚ますと、そこは見慣れたベッドの上だった。ベッドの両端にそれぞれ結びつけられた淡い色のカーテンが、シャンデリアの明かりを招き入れる。
ふと窓の方に目を向けると、月が昇っていた。
(夢……)
そう、夢を見ていたんだと、ロゼは思った。それは、あまりにも衝撃的な夢だったけれど、現実でないのならどうだっていい。
確か、今日はあの人が来てくれる日。あの扉をノックする音が聞こえたら、あの人がいつもと変わらない笑顔でこの部屋に入ってくる・・・・・・。
トントン
ノックの音が聞こえた。ロゼの胸が高鳴った。
ゆっくりと扉が開いて、誰かが入ってきた。
ロゼは、もう少しでその名を呼ぶところだった。喉のあたりまで出かかって、言葉を詰まらせた。入ってきたのは、ロゼの思う人ではなかったのだ。
「陛下、お加減はいかがですか?」
穏やかでいて優しい口調ではあったが、どこか事務的な物の言い方だ。
ライトグリーンの短い髪をサラリとなびかせて、小柄な女性がベッドに近づいてきた。眼鏡の奥の瞳は、疲れきってくすんでいる。何か重大な事件が起こって、その処理に追われていたといわんばかりに。
「リリィ……。どうしてここに……?」
「どうして?闘技場で倒れられたこと、覚えていらっしゃらないんですか、陛下?」
「倒れた……?」
ロゼの脳裏に、昼間のことが鮮明によみがえる。
一つ一つ思い出すたびに、彼女の顔が悲しみに歪んでいった。大粒の涙が、また溢れ出してくる。
「泣きたいのはこっちですよ」
と、リリィは思わず毒づいた。
「ルカさんがヴォルフだったなんて、どうして今まで気づかなかったんでしょう。十数年もともに暮らしてきて、なぜ気づかなかったんでしょう。思い返せば、怪しいところなんていくらでもあったはずなのに……」
「やめて……」
「私は、あの人のことをどれだけ尊敬していたか……。常に民を気遣う姿勢には、どれほど感銘を受けたことか……。なのに、この仕打ちはなんですか……!」
「もうやめて!」
ロゼは、泣き叫んだ。
枕に顔を埋めて、周りもはばからず大声で泣き出した。
どれだけ泣いても涙が枯れない。あの人のことを想えば想うほど、涙は次から次へと溢れ出た。
「ちょっと、ダメよ!何を考えてるの!」
「放してくれ、スミレさん!俺は女王に一言言いたいんだよ!」
「ちょっと、ショウ!」
部屋の外で、何やらもめ事が起きているようだ。扉の外で言い争う二人の声が聞こえてきた。
そして、勢いよく扉が開いた。
ロゼは、枕に埋めていた顔を上げた。扉に視線をやると、見たことのある顔が飛び込んできた。あの瞳は忘れもしない。大きくて強くて真っ直ぐな瞳……。
「あなたは、ルカさんの侍女の……。何の用ですか?ここは、恐れ多くも女王陛下の御部屋ですよ」
リリィが、ショウを止めるべく立ちはだかった。しかし、ショウは彼女を押し退けて、ベッドでうつむく女王のそばに立った。
ロゼは、潤んだ瞳をショウに向けた。今にも泣き出しそうな顔をして、ベッドのそばに立つショウを見上げる。しばらく目が合った。しかし、すぐに視界から消えた。
驚いたことに、ショウは床に両膝をついて頭を下げていたのだった。
「頼む、ルカを助けてくれ!」
ショウの意外な行動に、ロゼの涙が一瞬ひいた。なおも頭を下げるショウに、ロゼはただ呆然と見つめることしかできなかった。
「ルカを助けられるのは、あんたしかいない」
「私が……ルカを助ける……?」
「何を言い出すんですか、あなたは!」
ショウの言動に戸惑っているロゼの横から、リリィが声を荒げた。
「助けられるわけがないでしょう!あの人は、とんでもない罪を犯したんですよ!」
「罪ってなんだよ?」
ショウは、静かに問い返した。床についた手を握りしめて、歯を噛みしめる。
「あいつが犯した罪ってなんだよ?あいつは何もしてねぇだろ!ただ男として生まれてきただけだろうが!」
ショウの剣幕に、リリィは思わず後ずさった。
「あいつが男だからってなんだよ?それのどこが悪いんだよ!そんなことで、あいつの全てを否定できるのかよ!」
「ここは、ローゼンシュトルツですよ!」
一歩前に踏みなおして、リリィは声を張った。その声は、ショウではなく床に向かって投げられる。自分の意志とは関係なく、四天王としての誇りが叫ばせるように。
「野蛮なヴォルフが踏み入れていい地ではないのです!ましてや私たちとともに暮らしてきたなどと、汚らわしい……!」
「おまえ、本気でそう思ってるのか?」
半ば呆れたように、ショウは青ざめた表情のリリィを見つめた。だが、彼女と視線が合うことはなかった。彼女はずっと床を見つめている。
「ルカが今までに、あんたたちのことを少しでも傷つけたことがあったか?俺は、リボルバーヘルトで心底ムカつくやつらに出会ったけど、ルカが一度でも同じことをあんたたちにしようとしたか?」
「それでも、ヴォルフはヴォルフです……」
「だったら、俺の目を見て言えよ!」
ショウの鋭い言葉に、リリィはハッとして顔を上げた。
「ルカは、出ようと思えば出られたんだ、こんな国から。なのに、自分を偽ってまでここにいたのは、この国が好きだから、この国の人たちが好きだから、四天王のやつらが好きだから、女王が好きだから……自分の手で護りたいって思ったからだろ!」
リリィの脳裏に、ルカとの会話がよみがえる。この国を愛していると、彼は何度も口にしていた。その言葉は、彼にとってどれほど深く重いものだっただろうか。
それでも……。
リリィは、唇を噛みしめた。
「この国を護りたいのは、私も同じ……」
そう呟くと、リリィは強引にショウの腕を掴んだ。そして、力任せに扉の方へと引っ張っていく。決して力の強い方ではなかったが、ショウの小さな身体と同等の力はある。
「何すんだよ!まだ話は終わって……」
「出ていきなさい!たとえどんな理由があろうとも、この国でヴォルフを容認することはできません。それがこの国のルールです!法を司る者として、あなたの言葉を受け入れるわけにはいかない!」
そう言い放つと、リリィはショウを部屋から無理やり追い出した。扉の外に身体が出たところを見計らって、素早く扉を閉める。あまりにも勢いづいて扉を閉めたので、壁が地震のごとく揺れたほどだ。
追い出されたショウによって、激しく扉が叩かれる。頑強な扉は、わずかな振動をリリィの背中に与えた。
なんとか鍵を閉めて、リリィはふぅとひとつ息を吐く。だが、大変なのはこれからだ。これからは自分が女王を、この国を護らなくては。
この国のシンボルである女王は、まだベッド上で頼りなくうなだれたままだ。
「リリィ……」
「陛下」
リリィは、そっと女王のそばに寄り添った。それほど歳も変わらない少女の髪を、慰めるように撫でてやる。あの人がいつもしていたように。
「私、何を信じたらいいの……?」
涙で声を枯らして、ロゼはリリィの胸に伏した。リリィは、その小さく頼りない身体を強く抱きしめる。
あの人ならなんて答えるだろう……と、そう思いながら。