心の蕾⑨
ミルテは、剣を構えた。
闘技用の剣は、兵士が持つそれと同じ分厚く頑丈なものだった。これほど立派な剣を握ったことがなかったせいか、重みで少し足がふらついた。無様に転んでしまわないように、ぐっと腰を据えて剣を握りなおす。
時折、風に巻かれて土煙が立った。
緊張感とともに、場内は最高潮の盛り上がりを見せていた。
ミルテの前には、弱り切った“ヴォルフ”が立っている。
何日も食事を与えられなかったのだろう。中年を思わせる男の頬は痩せこけ、ボロボロの衣服から覗く胴体は、肋骨がもう見えている。その上、男には両手両足に重い鉄の枷がつけられていた。
男に与えられた武器は、木製のこん棒ただ一つ。しかし、この男はそれすらもうまく握られないようだった。なぜなら、男の片手の指数本が通常とは逆の方向に折れ曲がっていたからだ。
剣術が不慣れなミルテでも、簡単に仕留められる状況だった。
ミルテは、そのみすぼらしい男を睨み据えると、重い剣を振りかざした。
男は、上ずった頼りない声を上げて、身をかがめた。
目の前にいるのは、自分よりもずっと年下の少女のはずなのに、剣を振りかざすその姿は、恐ろしい怪物のように見えたのだ。
客席からは、男を嘲る野次が飛んだ。それに後押しされるように、ミルテは気合を入れて剣を振り下ろす。
「やめなさい!」
澄んだ美声が響き渡り、場内は静まり返った。
どよめきさえおこらなかった。皆、驚愕のあまり声も出せなかったのだ。振り下ろしたはずの剣を食い止める、その人物の姿に。
「ルカ……様……」
ミルテは、恐る恐る振り返った。
ルカは、ミルテの背後から彼女の腕を掴んで、剣が振り下ろされるのを食い止めていた。そして、そのままぐっと自分のほうへ引き寄せる。そのせいで、ミルテは背中をルカの身体に預けるような格好になってしまった。
「……間に合った……」
ルカは、小さくそう漏らした。
ホッと胸をなでおろし、ミルテの腕を掴んでいた手を緩めた。
その隙に、ミルテが強引にルカの手を振りほどく。彼女の意外な行動に、ルカは目を見張った。
「どうして……どうして止めるんですか!」
ミルテは、声を震わせてルカを睨みつけた。
「ミルテ……?」
「邪魔をしないでください!こいつは、女王陛下に手をかけようとしたリボルバーヘルトの刺客。殺されて当然のヴォルフなんです!」
ミルテの言葉に、観客たちは同調した。
静寂に包まれていた闘技場に、活気が戻り始める。しまいには、「殺せ」と連呼する観客の声が一つになり、拍子を刻み始めたほどだ。
それほどまでに、この闘いは民衆の期待を担っていた。女王暗殺の犯人を公開処刑にするという意味で。
ルカは、そのリズムを打ち消すがごとく叫んだ。
「いいえ!どんな理由があろうとも、闘えない者に剣を向けてはなりません!」
「ルカ様……」
場内は、再び静寂に包まれた。
「あなたがしようとしていることは、ヴォルフがヴィーネにしてきたことと同じことなのですよ!」
「わかってる!」
ミルテはそう叫ぶと、あろうことかルカに剣を向けた。
「そんなことはわかっています!でも、自分の気持ちにけりをつけるには、こうするしかなかった」
「ミルテ……」
「あなたの存在は、アタシの唯一の救いだった……。あなたに憧れたから、あなたのように強く優しくありたいと思ったから、アタシはヴォルフに手を貸してきた……。ヴォルフは信じられなかったけど、あなたことは誰よりも信じていました」
ミルテの目から涙がこぼれ落ちた。
「それなのに……どうして……」
「ミルテ、何を……?」
「服を脱いで……」
ミルテは、さらに剣を突き付けた。その手は、微かに震えている。
「さぁ、早く!」
ミルテの声が、闘技場内にこだました。
さすがに、客席もどよめき始めた。この少女は、いったい何をする気なのかと。こともあろうか四天王の一人であるルカに剣を突き付け、服を脱げと命令するとは。
ルカは、呆然とその場に立ち尽くしていた。この場にいる全員の中で、ミルテの言わんとすることを理解できていたのは、ルカだけだろう。彼女は、全てを知ってしまったのだ。
そっと目を閉じて、ルカは覚悟を決める。もう、隠し通すことはできない。
ルカは、マントを脱ぎ捨てた。次いで上着に手をかけ、おもむろにホックをはずしていく。
闘技場にいる誰もが、固唾を呑んで事の成り行きを見守っていた。ルカの衣服が一枚一枚はがれていくことで、いったい何が起こるというのだろうか。予想だにしなかった事態に、観客も女王も他の四天王も釘づけになっていた。
ルカは、ブラウスの最後のボタンをはずした。これを脱げば、全てをさらけ出すことになる。そして、多くを失うだろう。
手の動きが、そこから止まった。
目の前では、剣を向けたミルテが、全てが明らかになることを待っている。身を震わせて涙を浮かべながら。彼女が真実を悟った時、どれほど打ちひしがれたことだろう。そうさせたのは、自分に他ならない。
ルカは、ブラウスの前に手をかけた。自然と力が入って、しわになる。
その時だ。
「ルカ――ッ!」
自分の名を大声で呼ばれて、ルカは咄嗟に振りかえった。見れば、客席に肩で息をしたショウが立っている。この忌々しき事態を知って、急いで駆け付けてきたのだろう。隣には、シレネの姿も見えた。
ルカは、ショウを見つめて微笑んだ。
彼の姿を見て、心を決めたのだ。
(私は、もう逃げない……)
ルカは、最後の一枚であるブラウスを脱ぎ捨てた。白く透き通るような肌が露わになった。
闘技場にいた全員が目を奪われた。美しく佇むその姿に。そして同時に、誰もが息を呑んだ。その裸体が示す事実に。
「ヴォルフ……」
ミルテは声を震わせた。
剣が、ミルテの手を離れて地面に落ちる。硬い地面とぶつかって、甲高い金属音が響き渡った。
「信じてたのに……」
ミルテの顔が、悲しみに歪む。そして、抑えていた感情が涙とともに溢れだした。
「あなたを信じてついてきたのに!」
「ミルテ……」
「ヴォルフの言いなりになっていただけだった……!」
ミルテは唇を噛みしめて泣き崩れた。
「アタシは、何のために今まで……」
地に伏して泣き崩れるミルテを前に、ルカは何もできなかった。
やがて数人の兵士たちが土俵に駆けつけた。ルカに剣を向けて、手に縄を縛りつける。四天王という肩書は、とっくに消えていた。そこに佇むのは、ただの罪人だ。
「裏切り者!!」
ミルテの悲しみに満ちた叫び声が、去りゆくルカの後ろ姿に突き刺さった。
ルカの頬に、初めて一筋の涙が伝った。
第五章は、ここまで。ルカの正体が公になり、物語はクライマックスへ向かいます。
ルカの想いは、ミルテに、ローゼンシュトルツという国に、届くのでしょうか…。




