心の蕾⑧
5
「ルカさん、大変です!」
勢いよくドアを開けて、リリィがルカの部屋に入ってきた。よっぽど必死に走ってきたのだろう。入ってくるなりフラフラと倒れこみ、苦しそうに肩で息をした。艶やかなライトグリーンの髪は乱れ、横髪は多量にかいた汗で顔に張り付いている。
何事かと、まとめていた書類を放り投げて、ルカはリリィに駆け寄った。
「どうしたのです、リリィ!」
「た、大変です……薔薇の……“薔薇の決闘”が……!」
「“薔薇の決闘”?」
“薔薇の決闘”とは、円形闘技場で行われるヴィーネとヴォルフの決闘である。決闘といえば聞こえはいいが、実際は足枷などのハンデを負わせて不利な状態にしたヴォルフを、一方的にヴィーネが攻撃して虐待死させる残酷かつ非人道的な競技である。
リリィは、乱れる息をなんとか整えながら続ける。
「アイリスさんが……“薔薇の決闘”を開催しているんです!」
ルカは、リリィの言葉に耳を疑った。
“薔薇の決闘”は、開催の申し出を四天王軍事担当のアイリスが女王陛下に行い、承認されれば決行となる。
しかし、それはあくまで形式的なもので、実際はアイリスから四天王へ日取りなど詳細な事項の通達があり、四人が承認した上で開催が決まる。
事前に何の通達もなく決行されることは、異例のことであった。
「陛下は?」
「闘技場に。知らされていなかったのは、私たちだけです」
リリィの言葉に、ルカは険しい表情を浮かべた。そして、颯爽と部屋を後にした。
ルカとリリィが闘技場に到着した時、ちょうど女王の開会宣言が終わったところだった。会場はいつものごとく熱気に包まれ、観客たちは選手入場を今か今かと待っている。
「アイリス、これはいったいどういうことですか!」
女王の隣の席に座るアイリスに向かって、ルカは声を荒げた。
アイリスは、表情一つ変えずにルカを一瞥すると、鼻であしらった。
「何か問題でも?ルカ・クレアローズ。陛下の承認はいただいておりますのよ。法律上、何の問題もありませんわ。そうでしょう、リリィ?」
「確かに、法律上は問題ありません。しかし、四天王に通達もなく行うというのは、あまりにも……」
「私が職権乱用をしているとでもおっしゃりたいの?」
「そう、とれかねません……」
と、リリィはためらいがちに言った。
アイリスの鋭い視線は、同格であるはずのリリィでも、語尾が尻すぼみになってしまうほどの威圧感があった。彼女に対して真正面から意見を言えるのは、ルカぐらいなものだろう。
「私は、ちゃんと事前に聞いていたわよ」
そう横から口を挟んできたのは、ネルケだ。アイリスの隣で、頭の高い位置で結んだ髪の毛先を指先で遊ばせながら、意地悪い笑みを浮かべる。
「アイリスはちゃんと私に相談してるんだから、職権乱用じゃないでしょ」
「相談って……。決闘の費用は国の財政から出ています。ネルケさんに声をかけるのは当たり前じゃないですか」
「それもそうね」
と、ネルケは白々しくペロリと舌を出した。それを見て、リリィは眉をひそめる。
四天王の足並みが乱れる中、“薔薇の決闘”は恙無く進行されていた。
客席から歓声が沸き起こり、ついに左右の門から選手が入場する。
「あなたにお知らせしなかったのは、私なりの配慮でもありますのよ、ルカ」
アイリスは、妖艶な笑みを浮かべながら口を開いた。その視線の先には、今まさに入場してくる女戦士の姿があった。
ルカもまた、その視線を闘技場へと向けた。
威風堂々と一人の女戦士が登場する。今までの戦士に比べて、ずいぶん幼かった。十六、七歳くらいの少女だ。短いパンツにシャツすがたの軽装だが、胸のところに簡易の鎧を身につけている。そして、背丈の半分はあろう剣をおぼつかなげに構える。
風が、彼女の短い深紅の髪をかき乱した。
ルカは、目を疑った。そこに立っているのは、自分のよく知る少女だったのだ。
「ミルテ……」
女戦士として闘技場を沸かせたのは、ミルテだったのである。
「彼女がどうしても“薔薇の決闘”を開催してほしいと、私に直に申し出てきたのですわ」
「ミルテが……まさかそんな……」
ルカは、すぐさまその場を飛び出した。
「ルカさん!」
リリィが呼び止める声も耳に入らず、一目散に駆けていく。行く場所は決まっていた。ミルテのところだ。
(なぜミルテがこんなことを……?)
石畳の床を蹴る慌ただしい靴音が、通路にこだました。
両側に均等に建つ石柱の間から、闘技場の様子が遠目に垣間見られる。剣を構えるミルテの様子を横目で気にしながら、ルカは走った。
マントを翻し、悠然と歩くルカの姿はそこにない。そこにあるのは、髪を振り乱して走るルカの姿だ。
(止めなければ!あの娘に、これ以上深い傷を負わせるわけにはいかない……!)