見限られ得意先を剥がされたので鑿を担いで町を出ました。お宅の粉、粗くなります
「今年は間に合っているから」
蕎麦屋の主は、多鶴を裏口の外へ置いたまま言った。多鶴の右手は返事より先に土間へ伸び、据えられた石臼の欠け際をひと撫でした。
上臼の右だけが浅く減っている。挽き棒を右手で引く者が、終い際に力を残す臼だった。去年と同じ減り方。だが目の縁には、見覚えのない鑿跡が並んでいた。
「もう立てたのですか」
「ああ。先に来てくれた人がいてな」
主は暖簾を気にして振り返った。昼前の座敷では、客が箸を割る音がしている。
「前より早かったろう。だから、今年はいいんだ」
「そうですか」
多鶴は臼から指を離した。十二年、夏の終わりになると、この裏口から入り、土間へ膝をついてきた。主は粉を挽き、多鶴は石を見た。それだけで日が暮れた年もある。
「茶くらい飲んでいくか」
「いえ。商い中でしょうから」
立ち上がると、腰の布包みで鑿が鳴った。主の目がそこへ落ち、多鶴の目は沓脱ぎ石へ落ちた。
細かな砂を噛んだ、やわらかい石だった。雨のたび角が痩せる。多鶴は屈み、欠けたところを親指で押した。
「そこは臼じゃないぞ」
「ええ」
それでも一度撫でてから手を引いた。親指に細かな砂が残った。
「目の端が先に浅くなります。寒くなる前に、一度、粉を見てください」
「間に合っていると言ったろう」
「承知しました」
多鶴は頭を下げた。主は戸を閉めきらず、手一枚ぶんの隙間から彼女の背を見送った。
通りへ出ると、蕎麦を茹でる湯気が屋根の上へ流れていた。布包みの端から鑿の柄が覗いている。多鶴はそれを押し込み、十二年目の道を、仕事をせずに歩いた。
* * *
「今年は間に合っているから」
豆腐屋の主も同じことを言った。水を張った桶の向こうで、白い豆腐が一丁ずつ布へ包まれている。
多鶴は戸口に置かれた臼へ手を置いた。新しい目は、中心から縁まで同じ深さで、丸く揃っていた。豆を噛むところも、粉を逃がすところも、同じ幅だった。
「甚之助さんが立ててくれたよ。身内なら、仕事も似るんだろう」
多鶴は指の腹で二つの目を渡った。どちらにも同じ角度で鑿が入っている。
「挽いた豆は、重くありませんでしたか」
「新しい目だから、そんなものだそうだ。じき馴染むと」
「そうですか」
「お前さんも、弟に任せて少し休めばいい。十二年もやったんだ」
桶の水面が、主の声に細く揺れた。多鶴は腰から鑿を外し、刃先を内へ向けて布に置いた。一本、二本、細いものを挟み、太いものを外へ。いつもの順で巻いた。
主は代金を払うときの箱を出しかけ、すぐ棚へ戻した。多鶴は見ないまま結び目を締めた。
「この目は丸くなっています。豆を替える前に、粉をひとつまみ、水へ落としてみてください」
「甚之助さんにも聞いておくよ」
「ええ」
店を出たところで昼の鐘が鳴った。多鶴は川沿いの石垣へ腰を下ろし、朝に握った飯を布から出した。海苔は湿り、米は芯まで冷えていた。
一口ぶんを長く噛んだ。膝の上には、使わなかった鑿。布越しに柄を揃え、残りの飯を食べた。
帰ると、砥石へ水を垂らした。刃を寝かせて引き、起こして戻す。白い筋が整っても手を替えず、砥石を洗って、もう一度水を垂らした。
日が落ちてから刃を灯りへかざした。細い鑿は、春より一節ぶん短くなっていた。多鶴は布へ戻しかけ、三度目の水を汲んだ。
翌朝、右の人差し指を左手で挟んだ。石と柄に当たり続けた腹は、爪より硬い。そこを押してから、鑿を腰へ結んだ。
蕎麦屋へ曲がる辻も、豆腐屋へ下りる坂も通らない。粉屋までの道だけが残っていた。請ける仕事のない道へ、多鶴はいつもの刻限に出た。
* * *
粉屋の臼は、川原石を混ぜた硬いものだった。刃を弾く癖があり、分の刻みを少しずつ変えなければ、外へ出る粉だけが荒れる。
多鶴が店へ着いたとき、その臼の前には甚之助がいた。客へ向けた背は丸く、両手は膝へ揃えてある。隣で千枝が、徳兵衛へ茶碗をすすめていた。
「姉さんには長くお任せでしたが、近ごろは鑿も短くなりまして。力が落ちれば、目も揃いません」
甚之助は声を低くし、臼より少し離れて座っていた。自分の膝には石粉ひとつつけていない。
「あの目立ては荒い」
千枝が茶碗の縁を拭いた。徳兵衛が受け取らずにいると、笑みだけを深くした。
「皆さん同じことを仰いますもの」
「おれなら同じ分で揃えます。次の立て替えも、どうかお任せください」
甚之助は畳へ額がつくほど頭を下げた。臼の目など鑿で刻めば同じだ。
多鶴の下駄が戸口で鳴った。甚之助は顔を上げると、膝から手を外した。
「姉さん。もう来なくていいと言っただろう」
徳兵衛へ向けていた声より太かった。千枝は茶碗を盆へ戻し、甚之助の後ろへ半歩寄った。
「わたしは聞いておりません」
「聞かなくても分かるだろう。身内で同じ客を取り合ってどうする。姉さんが仕事を譲れば、家の請けは減らないんだ」
「こちらの臼を、あなたが請けたのですか」
「そうだ。蕎麦屋も豆腐屋もな。姉さんは余計なことを言わず、道具を置いてくれればいい」
徳兵衛が指先で卓を二度叩いた。甚之助はそちらへ向くと、また背を丸めた。
「では、次の月に参ります。粉の具合を見ながら、丁寧に」
「その前に挽いてみる」
「もちろんでございます」
徳兵衛は返事をせず、臼の外縁を爪で掻いた。爪の先へ白い石粉が残った。
甚之助と千枝が帰ったあと、多鶴は土間へ上がった。硬い石へ手を置く。目の底に、鑿が一度滑った白い痕があった。
「姐さん」
徳兵衛は戸の外を見たまま呼んだ。軒下では、甚之助が通りの向こうの米屋へ頭を下げている。
「弟さんが、先に回っておいでだ。春から、店を一軒ずつ」
「そうですか」
「おれが聞いたのは三日前だ。ここの次も、もう決めたように話していた」
多鶴は腰の布包みを解かなかった。店先で紙を三枚借り、細く折った。
一枚目には、蕎麦屋の臼は右の外目を霜の前に見ること。二枚目には、豆腐屋の臼は新豆を挽く前に水へ落とすこと。三枚目には、粉屋の硬い石は次の月までに外縁を替えること。墨が乾くと、三枚の角を爪で丸くした。
「これを、お渡しください」
「姐さんが持っていかなくていいのか」
「今日は、請けに来ましたので」
徳兵衛は三枚を重ねた。角の揃わないところを、太い指で撫でた。
「ここの次は」
「甚之助が決めたのでしょう」
「次は、誰にも頼まねえ。粉を見てからだ」
多鶴は硬い臼へもう一度触れた。刃を入れるなら、最初のひと打ちは左へ寄せる。指はその場所で止まりかけ、布包みへ戻った。
「粉をご覧になって、お決めください」
徳兵衛は三枚の言伝を、綴りの下へ挟んだ。多鶴は土間へ上がらず、使わなかった鑿を腰に結び直した。
* * *
その日の夕方、多鶴は一番よい紺の外出着へ着替えた。襟を合わせ、髪を結び直し、砥石の脇に並べていた鑿から六本だけを選んだ。
細い刃には油紙を巻いた。太い刃は布の外側へ置き、柄がぶつからぬよう縄を一本通した。銭も着替えも別の風呂敷へ入れず、布包みひとつを肩へ掛けた。
甚之助は仕事場で、新しい鑿の柄を削っていた。多鶴の外出着を見ると、削り屑を膝から払いもしなかった。
「どこへ行く」
「三軒の言伝を、徳兵衛さんへ預けました」
「そんなことは聞いていない。余計な口を出せば、客が迷うだろう」
「迷うのは、粉をご覧になったあとです」
甚之助の小刀が止まった。戸の奥から千枝が覗いたが、敷居は越えなかった。
「姉さんは家の名で仕事をもらってきたんだ。勝手に引くな。表では、おれが話をつける」
多鶴は肩の布包みを持ち上げた。鑿の柄が布の中で六つ、まっすぐに揃った。
「では、この町では請けません」
「脅したって、客は戻らないぞ」
「承知しました」
「川向こうに臼がいくつあると思ってる。向こうで困れば、黙って帰ってくればいい」
多鶴は返事をせず、仕事場の柱へ掛けていた前掛けを外した。畳んで作業台の端へ置くと、その下から細かな石粉が一本の線になって現れた。
甚之助はまた小刀を動かした。削り屑は柄の根元へ厚く残り、刃を差す穴を塞いだ。
翌朝、多鶴は町が動き出す前に家を出た。店の戸は閉じ、蕎麦屋の煙もまだ上がっていない。布包みの重さだけが、歩くたび肩の同じところへ当たった。
橋の板は夜露を吸っていた。欄干の土台には大きな石が据えられ、上流から運ばれた砂が継ぎ目へ溜まっている。
多鶴の手が、いつものように石へ伸びた。指先と石のあいだが一寸になったところで、肩の布包みを持ち替える手も、欄干へ伸びた手も、橋の中ほどで初めて止まった。
川面を渡った風が、外出着の袖を裏返した。多鶴は川下へ顔を向けたまま、声を一段落とした。
「わたしはこの町の臼を、十二年、わたしの臼だと思うて立てておりました」
声は橋の下へ落ちた。多鶴は石へ触れず、腕を下ろした。
向こう岸には、朝の荷車が一台待っていた。馭者が橋を渡りきるまで多鶴は端へ寄り、それからまた歩いた。
一度もほどかなかった布包みが、背で小さく鳴った。町の屋根は川霧に沈み、鑿の柄だけが朝日を受けた。
* * *
ひと月後、蕎麦屋の主は茹でた蕎麦を一筋つまみ上げた。箸のあいだで切れ、鉢の縁へ落ちた。
水を替えても、茹でる刻を縮めても、口へ入る前にぼそつく。主は裏口の臼を開け、目の端へ指を入れた。右の外側だけが、平らになっていた。
作業台には、多鶴の言伝が置かれていた。丸くされた角へ粉が入り、白く縁取られている。霜の前に見る、と書かれた墨を、主は親指で隠した。
豆腐屋では、桶の中で豆乳がゆるく揺れていた。にがりを打っても寄らず、布ですくえば白い水が指のあいだから落ちた。
主は丸い目へ豆を足し、挽き棒を強く引いた。上臼は重く回り、潰れきらない粒を外へ押し出した。桶の脇には、新豆を挽く前に水へ落とす、と書かれた紙が濡れずに残っていた。
徳兵衛は挽きたての粉を掌へ受けた。息を吹けば細かな粉だけが飛び、硬い粒が三つ、皺のあいだへ残った。
「石が悪いんです」
甚之助は臼の前で膝をついたまま言った。客へ向けた声は低く、両手はまた膝へ揃えていた。
「この石は硬すぎます。季節で変わることもある。もう一度、目を深くすれば」
徳兵衛は掌を傾けた。三つの粒が板の上へ落ち、離れて止まった。
「次の月も任せてください。姉さんが途中で放り出したぶんまで、おれが直します」
「おれたちはあの家に頼んでたんじゃない。姐さんの目に頼んでたんだ」
多鶴のいない土間で、徳兵衛はそう言った。甚之助は膝から手を浮かせた。
「だから、その姉の身内がおれです。家の仕事なら同じでしょう」
「あいにく、この粉では蕎麦になりませんので」
「ここは粉屋だ。蕎麦は蕎麦屋の加減でしょう」
「豆腐屋でも寄らなかったそうだ」
「水が違えば——」
徳兵衛は返事を待たず、次に挽く麦の袋を閉じた。口紐を二重に結び、甚之助の前から粉枡を下げた。
蕎麦屋の主が粉屋へ来たのは、その日の暮れだった。豆腐屋の主も、濡らしていない言伝を持ってきた。二人とも徳兵衛の手元を見てから、戸口を見た。
「多鶴は、どこへ行った」
徳兵衛は川のほうへ顎を向けた。蕎麦屋の主は丸い紙角を指で擦り、豆腐屋の主は自分の紙を重ねた。
次の月、甚之助の綴りから、先の請けが一軒消えた。翌日にはもう一軒、月の終わりには粉屋の名も線で消えた。甚之助は消された字の上へ墨を引いたが、紙が破れただけだった。
* * *
川向こうの粉屋には、長く使われていない臼が一台あった。徳兵衛が連れてきた多鶴へ、挽き手の女は挨拶より先に、臼の癖を見せた。
「終いになると、こちらへ粉が溜まるんです。多鶴さん、見てもらえますか」
「先に一度、挽いてください」
女は袖をまくり、挽き棒を握った。押すときはゆるく、引くときに肩を入れる。二回に一回、棒を握り直すため、上臼がわずかに右へ戻った。
多鶴は落ちてきた粉を手の甲へ受けた。指で潰し、次に石へ触れた。やわらかな石肌の下に、古い目が細く残っている。
「この臼は、引くところで噛みます。目を深くするのは、こちらだけにします」
「左右で変えるんですか」
「挽く手が左右で違いますから」
徳兵衛は戸口に座り、口を挟まなかった。女衆は臼の周りを掃き、石を起こす縄を運んだ。多鶴が布包みを開くと、研ぎ減った鑿が朝の光を返した。
最初のひと打ちは、外縁から分ひとつ内側。次は刃を寝かせ、石のやわらかい筋を避ける。音を聞くたび、多鶴は鑿を替えた。
女衆も音に合わせて石粉を払った。誰も家の名を尋ねず、甚之助の名も出さない。
「多鶴さん、ここでいいですか」
「もう少し左へ」
「多鶴さん、石を支えますよ」
「お願いします」
昼を越えても、鑿の音は急がなかった。目の底に残る白い筋が同じところへ繋がると、多鶴は刃を布へ戻した。
翌朝、挽き手の女が新しい蕎麦の実を落とした。臼は引く手に合わせて軽く鳴り、外へ出た粉は薄い輪を重ねた。
女が掌へ受け、親指で押した。粉は皺へ入り、息を吹いても粒を残さなかった。
「次の臼も、多鶴さんに頼みたい」
隣の女が粉袋を抱え直した。作業台の端に置かれた綴りへ、多鶴、と二字を書いた。
「その前に、昼ですよ。多鶴さんの場所も空けてありますから」
「まだ鑿を洗っていません」
「洗ったら来てください。冷めます」
多鶴は鑿についた粉を水で流した。短くなった刃を布で拭き、一本ずつ包みへ戻した。
同じころ、町では久六が甚之助の粉を指で潰していた。潰れない粒を板へ落とし、三軒目の詫び先へ向けていた足を仕事場へ戻した。
「任せたのは、おれだ。ここまでにする」
久六は壁に掛けられた講の木札から、甚之助の札を外した。甚之助が伸ばした手より先に、札を道具箱へ入れた。
「姉さんを呼べば戻ります。身内の話です」
「外れたのは、お前だ」
久六はそれだけ言い、道具箱の蓋を閉めた。
川向こうの粉屋では、細かな粉が袋の底へ積もっていた。多鶴は石へ手を置き、次に立てる目の位置を指で辿った。
* * *
甚之助が川向こうへ来たのは、二台目の臼を立て終えた日だった。橋のたもとで待ち、多鶴の姿を見ると、道の真ん中へ出た。
以前より細い綴りを脇へ挟んでいた。墨で引き直した箇所が重なり、端が反っている。
「姉さん、話がある」
多鶴は足を止めた。腰には洗ったばかりの鑿があり、布から石の匂いがした。
「蕎麦屋も豆腐屋も、勝手なことを言い出した。徳兵衛さんまで、川を渡って頼みに来る始末だ」
「ええ」
「久六さんも、少し粉が粗いくらいで講を外した。姉さんが何も言わず出たから、全部おれのせいにされている」
甚之助は綴りを抱え直した。橋を渡る荷車が近づくと道の端へ退き、通り過ぎるまで口を閉じた。
「町の臼を知っているのは姉さんだ。そこは認める。だから一度帰って、目を直してくれればいい。客には、おれからうまく言う」
「誰の名で請けるのですか」
「家の名に決まっているだろう。身内なんだから、分ける必要はない」
多鶴の指が、布包みの結び目へ触れた。ほどけてはいない。手はそのまま下りた。
「姉さん、戻ってくれ」
甚之助は頭を下げた。客へ見せていたのと同じ深さまで額を落とし、綴りを胸へ押しつけた。
多鶴は橋の向こうの町を見た。屋根のあいだに、蕎麦屋の煙が細く上がっている。
「あの目立ては荒い」
甚之助の額が上がった。口が開いたが、多鶴はもう背を向けていた。
鑿を担ぎ直し、川向こうの道へ戻った。呼び止める声は橋板を追ってきたが、足は変わらなかった。
粉屋の戸を開けると、女衆が臼を片づけていた。土間の奥には低い膳が置かれ、椀が人数ぶん並んでいる。
「多鶴さん、こっちです」
一人が膝をずらした。車座に、人ひとりぶんの場所が空いた。
「今日は、多鶴さんの粉ですよ。よく練れました」
匙ですくわれた蕎麦がきは、椀の中でゆっくり形を戻した。湯気が指をほどいた。
多鶴は蕎麦がきの椀を両手で包み、隣から回ってきた匙を受け取った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




