第6話 夜会とトマト
第6話 夜会とトマト
その日の午後。
離宮は大騒ぎだった。
「嫌です」
「駄目だ」
「絶対に嫌です」
「駄目だ」
「畑の草取りがあります!」
「夜会がある」
「トマトの支柱も立てないと」
「夜会がある」
「鶏小屋の掃除も」
「夜会がある」
アルベルトは額を押さえた。
王宮主催の大夜会。
国内の有力貴族が集まる重要な社交の場だった。
婚約者であるエルザを正式に紹介する絶好の機会でもある。
しかし。
「行きたくありません」
エルザは本気で嫌そうだった。
今日は珍しく土だらけではない。
侍女たちに捕獲され、朝から風呂へ入れられ、髪を整えられた結果である。
それでも不満そうだった。
「夜会より畑の方が大事です」
「普通の令嬢は逆だ」
「普通じゃありません」
「知っている」
知りすぎるほど知っている。
夕方。
ついに準備が整った。
エルザが姿を現した瞬間。
部屋が静まり返った。
深い緑色のドレス。
森を思わせる落ち着いた色合いだった。
胸元には小さな真珠。
栗色の髪は丁寧に結い上げられている。
白い首筋が覗いていた。
普段の作業着姿とは別人のようだった。
レオンが感心したように呟く。
「綺麗ですね」
「そうだな」
アルベルトは思わず答えていた。
エルザがこちらを見る。
「変じゃないですか?」
「いや」
「土は付いてません?」
「付いていない」
「良かった」
安心した顔をする。
そこなのか。
アルベルトは少し笑った。
夜。
王宮の大広間は光に満ちていた。
巨大なシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
楽団の奏でる優雅な音楽。
香水と花の香りが混ざり合う。
色鮮やかなドレスを纏った貴婦人たち。
正装の貴族たち。
まるで別世界だった。
エルザは少し緊張しているようだった。
「人が多いですね」
「夜会だからな」
「市場の収穫祭より多いです」
「比較対象がおかしい」
アルベルトはエルザを伴いながら会場を進む。
すると。
周囲の視線が集まり始めた。
ひそひそ声が聞こえる。
「グランツ伯爵家の娘だ」
「没落した家の」
「ハゲタカの婚約者か」
「可哀想に」
同情。
好奇心。
悪意。
様々な感情が混ざっていた。
やがて一人の中年貴族が近づいてくる。
太った体。
高価な服。
鼻につく笑顔。
ブラント侯爵だった。
「これはこれは」
「ブラント侯爵」
「宰相閣下も物好きですな」
嫌味な声だった。
「没落令嬢を拾うとは」
周囲が静かになる。
エルザはきょとんとしていた。
「しかも聞けば」
侯爵は笑う。
「毎日畑仕事をしているとか」
「そうですが?」
エルザは素直に答えた。
「令嬢らしくありませんな」
「そうでしょうか」
「社交界では笑い者ですよ」
空気が冷える。
アルベルトの瞳が細くなった。
「侯爵」
「何でしょう」
「その辺でやめておけ」
低い声だった。
周囲の貴族たちが息を飲む。
ハゲタカが怒った。
誰もがそう思った。
「私は事実を――」
「やめろと言った」
さらに冷たい声。
侯爵の顔が青くなる。
アルベルトの圧力は凄まじかった。
王国中の貴族が恐れる理由がそこにあった。
しかし。
「あの!」
エルザが手を挙げた。
「何だ」
「侯爵様の領地って西部ですよね?」
全員が固まる。
「……そうだが」
「土は赤土ですか?」
「は?」
「水はけ良さそうですよね」
「何の話だ」
「トマト栽培に向いてそうなんです!」
沈黙。
会場全体が沈黙した。
「え?」
「え?」
「西部は日照時間も長いですし」
「……」
「大玉トマトより中玉トマトの方がいいかも」
「……」
「一度見学したいです!」
ブラント侯爵は完全に混乱していた。
嫌味を言ったはずなのに。
なぜトマトの話になったのか。
「閣下」
レオンが小声で囁く。
「何だ」
「あなたの婚約者、強すぎませんか」
「俺もそう思う」
アルベルトは生まれて初めて頭痛を覚えた。
夜会の途中。
食事が始まる。
ローストビーフ。
魚の香草焼き。
野菜のテリーヌ。
色鮮やかな料理が並ぶ。
エルザは目を輝かせていた。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「でも」
「でも?」
「このトマト、もう少し甘くできそうです」
アルベルトはワインを吹きそうになった。
「分かるのか」
「分かります!」
「なぜ」
「見れば」
見ても分からない。
普通は。
だがエルザは本気だった。
その後も。
「このレタスは土が良いですね」
「そうか」
「この玉ねぎも優秀です」
「そうか」
「料理長に会いたいです!」
「やめろ」
王宮料理人を農業談義に巻き込む気だった。
夜会が終わる頃。
貴族たちの空気は変わっていた。
最初は笑っていた者たちも。
今は不思議そうにエルザを見ている。
悪意を向けられても怒らない。
見下されても気にしない。
頭の中が畑と野菜でいっぱいだから。
ある意味、誰よりも強かった。
帰りの馬車。
窓の外では月が輝いている。
「楽しかったです」
エルザが言った。
「そうか」
「侯爵様の領地に行きたいですね」
「まだ言うか」
「絶対いいトマトができます」
アルベルトは深くため息をついた。
今日、自分は婚約者を守った。
そのはずだった。
しかし本当に守られていたのは。
常識の方だったのかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
続く。




