第2話 最初のおねだり
第2話 最初のおねだり
アルベルト・フォン・ローゼンベルクは困っていた。
王国宰相としてではない。
政敵を失脚させる冷徹なハゲタカとしてでもない。
一人の婚約者としてである。
いや、正確には婚約者候補としてだった。
執務室の窓から差し込む朝日が、山のような書類を照らしている。
磨き上げられた黒檀の机。
壁一面の本棚。
重厚な革張りの椅子。
誰もが憧れる宰相執務室だった。
しかし今、その空間には異様な沈黙が流れていた。
「閣下」
「何だ」
「本当に発注するのですか」
側近のレオンが恐る恐る尋ねた。
アルベルトはこめかみを押さえた。
「約束した」
「しかし馬糞ですよ」
「知っている」
「令嬢が欲しがる物ではありません」
「俺もそう思う」
「でしたら断れば」
「断ったら泣くかもしれん」
「泣くでしょうか」
「堆肥不足で」
レオンは天井を見上げた。
何か遠い場所へ行きたそうな顔だった。
数日前。
エルザとの昼食の最後。
「婚約者になるんですよね?」
「ああ」
「でしたらお願いがあります!」
アルベルトは宝石を想像した。
あるいはドレス。
没落した令嬢なら当然だ。
ところが返ってきたのは。
「完熟馬糞をお願いします!」
だった。
しかも。
「十袋ほど!」
満面の笑み付きである。
アルベルトは深いため息をついた。
「北方牧場に連絡しろ」
「はい」
「最高品質のものを」
「はい」
「無臭処理済みだ」
「……はい」
レオンは負けたような顔で書類を書き始めた。
その三日後。
事件は起きた。
朝。
宰相邸の門前が騒がしかった。
「止まれ!」
「中を確認しろ!」
「慎重に運べ!」
衛兵たちの怒号が響いている。
アルベルトは朝食の席で眉をひそめた。
銀のナイフでベーコンを切る。
焼きたてのパンから湯気が立ち上る。
濃い香りの珈琲。
半熟卵。
普段なら静かな朝だった。
「何の騒ぎだ」
「確認してまいります」
レオンが立ち上がる。
しかし数分後。
戻ってきた彼の顔色はおかしかった。
「閣下」
「何だ」
「荷物が届きました」
「そうか」
「大量です」
「そうか」
「皆が毒物テロを疑っています」
アルベルトはパンを持ったまま固まった。
「……は?」
慌てて門前へ向かう。
すると。
巨大な荷馬車が四台。
麻袋が山積みになっていた。
衛兵たちは剣を構えている。
「近付くな!」
「毒ガスの可能性もある!」
「医師を呼べ!」
完全に非常事態だった。
アルベルトは額を押さえた。
「中身は」
「不明です!」
「差出人は」
「北方牧場です!」
その瞬間。
すべてを理解した。
「開けろ」
「危険です!」
「開けろ」
「閣下!」
「命令だ」
衛兵が恐る恐る袋を開く。
中から現れたのは。
黒く。
ふかふかで。
土のような物体だった。
しばし沈黙。
「……」
「……」
「……」
「馬糞です」
レオンが言った。
「馬糞だな」
「馬糞ですね」
「完熟しています」
「見れば分かる」
衛兵たちが一斉に脱力した。
「なんだよ!」
「毒じゃないのか!」
「ただの肥料か!」
「ただのではない」
アルベルトは真顔で訂正した。
「最高品質らしい」
「そうですか」
衛兵たちは心底どうでもよさそうだった。
その日の午後。
アルベルトは自ら馬車に乗った。
目的地はエルザの屋敷。
馬糞十袋を積んで。
王都の街並みを進む。
人々は不思議そうに見ていた。
まさかハゲタカ宰相が堆肥を運んでいるとは思うまい。
屋敷へ到着すると。
エルザが飛び出してきた。
栗色の髪を揺らしながら。
今日も作業着姿だった。
「閣下!」
「ああ」
「届いたんですか!?」
「届いた」
「本当に!?」
「本当だ」
エルザは馬車を見る。
そして。
「きゃあああ!」
悲鳴を上げた。
嬉しさの。
「最高です!」
「そうか」
「見てもいいですか!?」
「好きにしろ」
袋へ飛びつく。
開封する。
中身を見る。
両手で掴む。
匂いを嗅ぐ。
「素晴らしい……」
感動で震えていた。
「完熟しています」
「らしいな」
「発酵温度も完璧です」
「そうか」
「水分量も理想的!」
「そうか」
アルベルトは再び語彙を失った。
なぜ女性が馬糞でここまで幸せそうになれるのか。
まったく理解できない。
だが。
エルザの笑顔だけは理解できた。
春の陽射しの中。
頬に土を付けながら。
心から嬉しそうに笑っている。
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。
「こんな立派な堆肥、生まれて初めて見ました!」
「そうか」
「一生大事に使います!」
「使うものだろう」
「はい!」
満面の笑み。
その顔を見た瞬間。
不思議と悪い気はしなかった。
王都の貴族令嬢たちは宝石を欲しがる。
王女たちは最新のドレスを欲しがる。
だがこの娘は。
馬糞で喜ぶ。
しかも本気で。
「閣下」
「何だ」
「次は腐葉土でもいいですか?」
アルベルトは空を見上げた。
青空だった。
とても良い天気だった。
そして彼は初めて思う。
この婚約生活。
想像以上に長くなりそうだ、と。
続く。




