121.聖女と魔術師は語る
「あれが加護の力を使ったクリス様ですかー。物凄いのですー」
エミリアは瞬きさえ忘れていた。
その緑色の眼はクリストフを追っている。
注意しないと見失う。
朝陽が彼の銀髪を輝かせる。
その反射光が消える前に、ベヒモスの視界から外れる。
それほどの高速で動いていた。
「うむ、その通りじゃ。クリストフの加護は、聖狼ヘスケリオンからのもの。故に、狼の如き獰猛さと鋭さを得ておる。端的に言えば、身体能力の底上げじゃな」
「ふおお、聞くだけで凄そうですねえー。私の強化呪文との二重がけですねっ」
「そういうことになるのう。ただまあ、ベヒモス相手じゃ。そこまでやっても、力比べでは分が悪いがの」
ローロルンの言う通りであった。
クリストフの斬撃は、この上なく鋭い。
強引なまでの力強さも加わっている。
だが、それでも押し切れていない。
ベヒモスに角や前足の爪で受け止められていた。
激突、一瞬の力の均衡、そして間合いを離す。
この繰り返しだ。
「私には拮抗状態に見えますがー?」
「クリストフが上手くいなしておるからの。押されかけても、体重移動で力点をずらしておる。その分だけ神経は使っておろうな」
「えっ、あの一瞬でそんなことを!」
エミリアが驚くのも無理はない。
剣がぶつかる瞬間など、極めて短い時間である。
クリストフはその刹那を見極めて、ベヒモスの圧力を反らしているのか。
もはや人間が可能な技では無い。
「凄い」
それ以外に言葉が出てこなかった。
確かに身体能力は、大幅に底上げされているだろう。
だが、それだけでは説明不可能だ。
改めて思う。
やはりクリストフ=ウィルフォードはずば抜けている、と。
"やはりあの人は"
知らぬ内に、右手を握りしめていた。
その手を自分の胸に当てる。
"唯一にして最強の勇者なのです"
魔王を倒しただけでも、偉業である。
しかも、それだけではない。
その功に溺れず、己の力を維持し続ける。
自分を見失わず、正しくあろうとする。
その姿勢もまた、尊いことではなかろうか。
「立派なのです、クリス様はー」
「何がじゃ?」
「いやあ、何ていうかー。私がもしクリス様ならー、今頃もっと駄目な子だったろうなーと。周囲からほめられまくって、堕落していたと思うのですー」
「それは分からんがのう。じゃがクリストフの話に限れば、確かにあやつは立派じゃよ。何だかんだ言うて、道を踏み外さぬ」
話しながら、ローロルンは昔を思い出していた。
彼女の視線の先では、クリストフが大剣を振るっている。
「っしゃあ!」という声が響く。
ベヒモスの装甲が裂け、鮮血が舞った。
小さな傷だが、ダメージは与えている。
そうだ。
魔王討伐のパーティーを組んでいた時もだ。
ああやって、自分より巨大な敵に真っ向から挑んでいた。
言葉よりも背中で、パーティーを引っ張っていたではないか。
「聖女様は、ライアルの一件は知っておるかの?」
「え、はいー。クリス様からお聞きしましたー」
「うむ。あの一件がきっかけで、ライアルは妾らから離れた。もちろん本人もショックじゃったろう。だが、妾らも動揺したのじゃよ。何故こうなったのか。何故、ライアルを止められなかったのかとな」
「あー、うん。そ、それはそうなりますよねえ」
エミリアは気まずさから視線を逸らした。
このあたりは彼女の若さである。
それを察し、ローロルンは微笑した。
「戦力的に痛手というのも無論あった。じゃが、精神的な動揺の方が深かった。下手すれば、パーティー解散の危険さえあったじゃろう。だが、そうはならなかった」
「もしかして、クリス様ですかー」
「じゃな。あやつがライアルの穴を埋めた。戦力的にも精神的にもな。勇者の座なんぞ、あやつは別に要らんかったと思う。ただ、これ以上仲間を失いたくない。その一念で頑張ったんじゃろ」
良くも悪くも、ライアルはパーティーの中心だった。
その穴を埋めるというのは、簡単なことでは無かった。
いや、ほぼ不可能だったはずだ。
加えて、クリストフは器用な方ではない。
ローロルンが見る限り、不器用である。
「一度、酒に酔った時にこぼしておったわ。俺は呪文も使えない。剣の才能も技のストックも無い。だから、身体能力引き上げて、真っ向からぶつかるしかない。けど、それでも」
ローロルンは下を向く。
視界に映った地面は、何も語りかけてはくれない。
こみ上げるものを飲み込み、正面を向いた。
「俺がライアルの穴を埋めるんだ。俺しか出来ないんだ。だから、信じてついてきてくれ。そう言って、突っ伏しおったわ」
「……頑張り過ぎです」
「じゃな。だから聖女様。妾から一つ頼みがある。あやつの心の荷物を、背負ってやってくれとは言わぬ。ただ、そうじゃな。あやつを理解してやってくれぬかの。そういう人があやつには必要じゃ」
「は、はいっ!」
頷き、エミリアもまっすぐ前を向いた。
視界の中央では、クリストフが戦っている。
時折痛撃を喰らいつつも、懸命に剣を振るっている。
その姿から目が離せなかった。
離せないまま、エミリアは呟いた。
「クリス様は、私の婚約者なんです」
偽装という単語が、エミリアの頭から抜けた。
いや、もしかしたら――ずっと前から抜け落ちていたのかもしれない。
「だから、だから、理解したいです。それだけじゃない、助けたいです。この戦いでも、この戦いの後でも」
「うむ、良い心がけじゃ。ではまず、この戦いからどうにかしようぞ」
エミリアに答えながら、ローロルンは翼に力を込めた。
黄金色の翼が広がり、エルフの体をふわりと浮かせる。
ヒュウ、と一陣の風が舞った。
「クリストフばかりに労をかける訳にはいかぬ。このままではバテるので、妾が出る。あやつが退いたら、回復してくれるかの」
「それはもちろんですー。でもローロルンさん、前に出て大丈夫ですかー?」
「心配無用じゃ。そのための加護であり、翼じゃよ」
ローロルンは軽やかに笑った。
それが合図となり、一気に飛翔する。
高度を稼ぐ。
ベヒモスよりも渓谷よりも、さらに高く。
足元へと視線を移すと、クリストフが見えた。
ほとんど点である。
「よーし、ここから必殺の――」
取り出したるは愛用の杖。
唱えたるは、得意の火炎系攻撃呪文。
この高さから撃てば、ベヒモスを直撃出来る。
クリストフを巻き込むことは無い。
多分。
「炎弾乱舞じゃ! いっくぞおおおー!」
かけ声と共に、ローロルンは呪文を唱え終わった。
空中に火炎が集い、球形になった。
サイズは人間大であり、熱量も半端ではない。
それが十数個も浮かんでいるのだ。
空が火事になったようなものである。
当然、クリストフもこれには気がついた。
ベヒモスから猛スピードで離れる。
「よぉし、発射あああ!」
「やめろ、ボケえええ! フレンドリィファイアする気かああ!」
「え? ちゃんと狙ってるんじゃないんですかー?」
三者三様の声は、渓谷からの風に散らされた。
同時に火炎の球が熱群となり、ベヒモスへと投下される。
ギョッとしたように、ベヒモスが巨体をすくませる。
お構いなしに、火炎がそこに殺到していく。
爆発、轟音、そして熱量の加速度的な増加。
紅蓮の炎がまとわりつき、ベヒモスの装甲を灼いていった。
だが、その被害を被った者はもう一人いたのである。
「あっち、あちちち! ちゃんと敵だけ狙ってくれよな!?」