120.決戦の火蓋は切られた
大きな岩が転がる渓谷が、眼前に広がっている。
最奥部ならともかく、出口付近ならそれほど深さもない。
岩肌に刻まれた風紋が年月を感じさせる。
その岩陰から、のそりと大きなものが顔を覗かせた。
ゴ、と風がこちらに吹き付けてきた。
巨大な足が地を踏むと、メキリと嫌な音が響く。
太い尻尾を引きずりながら、こちらへ動いてくる。
来た、ベヒモスだ。
流石に圧迫感が違う。
「大型弩弓、用意っ! 合図があるまで撃つなよ!」
叫びながら、敵の姿を確認する。
かなりでかい。
全長が普通の家屋程度ってところか。
四足歩行だから、高さはそこまでじゃない。
それでも、俺の背丈の倍近くはある。
直接攻撃が通じるギリギリのサイズだ。
「あれがベヒモスですかぁー。大きいのですねー」
「何を呑気に」
エミリアに注意しかけて、そこで言葉が途切れた。
顔がひきつっている。
無理もない。
ただの魔物が相手じゃない。
陸の王者と称される、あのベヒモスだ。
彼女の視線の先に映っているのは、何だ。
獅子に似た獰猛そうな頭部か。
そこから前に伸びる二本の角か。
巨体を支える太い四本の脚か。
別の生き物のようにのたうつ太い尻尾か。
それとも、ベヒモスという災厄そのものか。
恐怖を感じて当たり前。
だが、俺はわざと笑い飛ばす。
「はっ、あんなの何てことねえよ。俺にとっちゃただの食材。そうだろ、エミリアさん? というわけで、やってやろうぜ!」
「で、ですよねー! よーし、いきます。とっておきの強化呪文、女神の聖なる加護ー!」
これは正確には呪文ではない。
聖女であるエミリアは、女神アステロッサの力を借りることが出来る。
祈りさえすればいいので、詠唱は必要ない。
効果も即座に発揮される。
「うお、これは」
「体の奥から、力がみなぎってくるのう!」
「おま、俺の台詞取るなよ!?」
ローロルンに文句をつけたが、ともかく成功だ。
輝くような白光が降り注ぎ、俺達三人を包みあげていた。
体が軽い。
戦意が高揚するのが分かる。
「腕力、耐久力、敏捷性などの身体能力を倍! 自動回復能力の恩恵、それに不撓不屈の魂を付与されますー! いってらっしゃいー!」
「丁寧な説明どうも、って何でまだびびってんだよ!?」
「加護の力が無かったら、今頃失神してますよおっ!? 見た目からして怖いじゃないですか、あのベヒモスってー! 一発踏まれたらぺしゃんこですー!」
「ええい、やかましいわ! このローロルン=ミスティッカがいる限り、この場は通さぬ!」
「おまっ、だからそういうの俺の台詞っ!」
俺の抗議を無視して、ローロルンは収納空間を開いた。
中から愛用の杖を取り出す。
その時ベヒモスがこちらを向いた。
奴からすれば、俺達など羽虫も同然だろうな。
それでも無視は出来ないと判断したらしい。
いいぜ、来いよ。
その距離、百歩余り。
先制攻撃の権利はこちらが握っている!
「加護の力、全開」
厳かに、高らかに、エルフの魔術師は告げる。
風が鳴った。
ローロルンの足元から、突風が吹き荒れる。
たまらず、俺とエミリアは後退した。
その間に、ローロルンの様子が変わっていく。
いつのまにか、その背中からは一対の黄金の翼が生えていた。
明らかに鳥の羽根とは違う。
軽く羽ばたくと、光の粒子がこぼれ落ちる。
魔力で構成された擬似的な翼なのだ。
ド、と魔力の奔流がその場に溢れた。
「我が加護、魔鳥ツアーグの力を借り、解き放つ。見せてやろうぞ、このローロルン=ミスティッカの最大火力――」
ローロルンが握るのは、一本の杖だ。
先端の白い宝石が光り始め、逆に周りは暗くなる。
その場の光を吸収しているのか。
ローロルンの唇から詠唱が紡がれ始めた。
ベヒモスは近づいてくるが、いかんせん遅すぎる。
油断しすぎだ。
あっと言う間に魔術馬鹿の呪文は完成した。
「貫き穿て、燃焼せし光槌一閃!」
破壊の光が解き放たれた。
力の余波に吹っ飛ばされそうになる。
だが、確認せずにはおれない。
あのローロルンが加護の力をフルに使ったのだ。
おまけに、この辺りには事前に魔法陣を仕込んでいる。
特定の術者の魔力を引き出すギミックだ。
迎撃戦だからこそ出来る芸当だった。
"吹き飛べっ"
超高熱の熱光が一直線に突き進む。
かわすも何も、認識すら無理だ。
そう思った時には、大爆発が生じていた。
爆風が巻き上がり、黒煙が四散する。
光が連鎖的に白く砕け散る。
気がつけば、ベヒモスの巨体は爆炎に飲み込まれていた。
「やりましたーっ!」とエミリアが歓声を上げたのも無理は無い。
兵士達も「おおおー!」と驚愕していた。
「まずは成功か。じゃが、これで倒せていたなら苦労はせんがの」
「そんなに上手くいかねーのが、世の常だろ」
「え? 倒せていないんですかー?」
ローロルンの代わりに、俺は前に出た。
エミリアは目を見開いている。
恐る恐るという感じで、煙の奥を見つめていた。
そして、口元を手で覆う。
「う、うわあ。まだ全然生きてますよお」
「ダメージが通っただけ、めっけもんだ。撃ち方、準備いいか? 大型弩弓、放て!」
エミリアの言う通り、ベヒモスはまだまだ元気だ。
全身を堅固な装甲で覆っており、生命力も並外れている。
厄介極まりない。
だからこそ、先制攻撃の機会は逃せない。
俺の号令通り、兵士達は大型弩弓を放つ。
大型弩弓は、人よりも巨大な据え付け式の弓だ。
二人がかりで矢をセットし、一人が引き金を引いて使う。
それが四台。
結構期待してるんだぜ。
「効いてますねっ!」
エミリアが叫ぶ。
その言葉通り、ぶっとい矢が二本、ベヒモスの装甲を抜いていた。
残り二本は外れたが、まずまずの成果か。
右肩と左脇腹から血を流し、ベヒモスが一瞬怯む。
大したダメージじゃない。
だが、その牙の隙間から咆哮が響き渡る。
「楽な相手じゃないってようやく分かったか。けどな、本命はここからだ」
前に出る。
喉が鳴る。
ベヒモスとの間合い、凡そ五十歩余り。
ドゥンドゥンと地響きを上げながら、ベヒモスが前進してくる。
それに合わせるように、俺も間合いを詰めた。
力だ。
力が欲しい。
この願いは俺のものか。
それとも、俺に加護を与えてくれるお前のものか。
久しぶりだな、この名を呼ぶのは。
「聖狼ヘスケリオンの名において、我に加護の力を!」
ルオン、と耳鳴りがしたように思う。
狼の遠吠えが俺の血潮を駆け抜けた。
手足に力がみなぎった。
灼けるような欲求が、腹の底から溢れ出す。
いいぞ、もう我慢しなくていいんだ。
目の前の敵をシンプルに叩き潰してやればいいんだ。
「おおおおおおおおぉ!」
全速力で駆け抜けた。
ベヒモスの左前足の一撃をかいくぐる。
薙ぎ払うような剛撃、だが当たらなければ意味が無い。
この時には、既に大剣を抜き放っている。
後方に跳びながら、思い切り振り下ろす。
剣の間合いからは外れている。
だが、剣圧ならば!
「いった!」
ベヒモスの右前足に命中した。
巨大な魔物は弾かれたように退く。
さして深くはないが、痛撃ではあったようだな。
「さあ、とことんまで殺りあおうか」
殺気をまといながら、俺は再び大剣を振りかざす。
バチ、バチチッと紫電が刃へと伝わる。
出し惜しみは厳禁だよなあ!