110.この聖女様をどうしようか
エミリアを連れて行く?
そんなこと、全く考えたことはない。
彼女、戦闘経験は一度も無いはずだ。
呪文は相当高度なものが使える。
でも、それだけだ。
日常の中でしか、それは活かせない。
血なまぐさい戦場で使えるものじゃない。
"この子が戦闘に参加するとか、悪い冗談だろ"
そっと横目で見る。
エミリアは俺の隣で皿を洗っていた。
駄目だ、想像がつかない。
しかもただの相手じゃない。
ベヒモスだぞ、ベヒモス。
俺もかばってやる余裕は無いな。
「クリス様ー、お皿洗い終わりましたー」
「ああ、悪いな。ありがとう」
「いえいえー」
にこりと笑い、彼女は台所から居間に移動した。
お気に入りのソファに座り、伸びをする。
うん、平和そのものだ。
眠そうに目をこすり、こちらを見た。
「話してもいいですかー」
「ん、いいけど?」
背中越しに答えた。
今は台所から離れられないんだ。
昨日ヤオロズから地球の野菜をもらった。
それを見ながら、どんな料理にしようか考えていた。
「最近、神殿に来る人が多いんですよねー。それも怪我じゃなくて、心を病んで来る人がー」
「心?」
カボチャと茄子を手にしながら、返事をした。
心か。
この野菜は心に効くだろうか。
ふとそんなことを考える。
「ええ、心ですー。ベヒモス出現の報せから、明らかに増えてますねー。夜眠れないとか、不安なことしか考えられないとか。やつれてしまう人もいますねー」
「恐怖心に取り憑かれたなら、ありえるな。そうか、もうそんな事態になっているのか」
「ええ、じわじわですけど影響出てますよー。話を聞くだけで治る人もいますけどねー」
「そうじゃない人にはどうしているんだい?」
「精神安定の呪文かけて、その場で治療してますよー。一時的にですけど、無いよりはましですからー」
そう言って、エミリアはソファに寝転がった。
お行儀が悪いが、わざわざとがめる程でもない。
気持ちは分かる。
「何だか、日常が脅かされてきてますよねー。街も雰囲気暗いですしー」
「そうだな」
大きなカボチャを両手で掴む。
土の匂いの中に、一筋甘い匂いがあった。
心を病めば、こういうものも楽しめないのだろうか。
美味しいものを美味しいと感じなくなるのだろうか。
だとしたら、相当酷だ。
「何か、何か私に出来ることはないかなあ。聖女なのに、どうすることも出来ないんですよぅ。来る人を治すだけじゃ、その場しのぎですー」
エミリアの声に、悔しそうな響きが混じる。
足をジタバタしながら、髪をかきむしっていた。
珍しく荒れている。
「そんなに暴れても仕方ないだろ。待つしかないんだ、今は」
「うー、分かってます。分かってはいるんですよ。でも、やっぱりイライラしちゃうのですー」
気持ちは分かる。
なので、ちょっとご機嫌を取ることにした。
「エミリアさんさ、これ食べるならどうやって食べたい?」
「はいー? これってー?」
「野菜だよ、野菜。俺が見ているカボチャと茄子。どう料理しようか考え中」
「お野菜ですかっ」
声に張りが戻った。
ソファから起きて、エミリアがこちらに来る。
緑色の目はきらきらとしていた。
「カボチャですよねー。煮付け、好きなんですよー。ちょっと甘辛く味付けされていてー、でも中身がホクッとしてるのです。茄子は……迷いますねえ。焼き茄子も好きですが、チーズかけて焼くのも美味しいですねっ」
「ふむふむ。候補に入れておくよ」
「そういうクリス様はー?」
「カボチャはスープにしてもいいかな。細かく刻んで、玉ねぎとバターと一緒に炒めるんだ。コンソメと水を入れて煮込めば、出来上がり。栄養あるんだぞ、これ」
「シンプルだけど美味しそうですねっ!?」
「茄子はどうしようかな。ひき肉と一緒に味噌で炒めるか? 油と馴染みがいいから、炒めると美味しいんだよね」
「それはご飯が欲しくなるやつですね、絶対ー」
ゴクリと喉を鳴らし、エミリアが近寄ってきた。
ちょっと怖い。
「うう、想像したらお腹が空いてきたのです。クリス様の意地悪ー」
「いいじゃないか、別に。腹が減るのは健康な証拠だ」
「そ、そうですけどおー。くう、これは絶対に作ってもらうのですー。でないと割に合わないのですよぉー!」
「はいはい、分かりました」
思わず笑ってしまった。
いや、この子面白いよな。
聖女にしておくのが勿体ないくらいだ。
色々抜けてるけど、いい子なんだよ。
だからこそ、やっぱり。
「連れていけないんだよなあ」
「ん? 何か言いましたか、クリス様ー」
「いや、何にも」
つい本音を呟いてしまった。
うん、でもさ。
この子には安全な場所にいてほしいんだよな。
俺がベヒモス討伐に行くとしてもね。
† † †
グランと話した後、俺はじりじりとしていた。
まだか、まだかと待つしか出来ない。
仕方ないとは思うが、気持ちは逸る。
渇望と言ってもいい。
落ち着けと自分自身をなだめる。
「あの、クリス様。最近ちょっとイライラしてませんか。見ていて心配です」
「え、そうかな」
ついにモニカにとがめられてしまった。
とぼけてみるが、自分が一番よく分かっている。
「待つしかないと言ったのは、クリス様ですよ。浮ついては駄目ではないでしょうか?」
「悪い」
全くその通りだ。
反論の余地もない。
だが、気の逸り方があの時とは違う。
恐らく俺が出ると分かっているからだ。
リーリア夫人のことだ、手抜かりは無いだろう。
それが分かっているからこそ、もうその気になっている。
「ベヒモスですかー。きっと大きいんでしょうねえー」
「エミリア様、そんなのんきなことを」
「いやあ、つい想像しちゃいましてー。どれくらいの大きさなんでしょうねえー」
エミリアにかかると、ベヒモスも形なしだな。
ただの大きい動物のようだ。
俺もつい「おまけに肉も美味いらしいね」と相槌を打ってしまう。
軽口くらい叩かないと、気も滅入るし。
「ううん、リヴァイアサンとどっちが美味しいんでしょうかー。興味ありますねえー」
「料理人としてはそそられるね、正直」
「お、お気楽ですね、お二人とも」
モニカはちょっと引いている。
その時だった。
玄関がコツコツと叩かれた。
間髪入れず、男の声が響く。
「火急の命につき失礼します! 勇者クリストフ=ウィルフォード様、陛下の勅命により王宮へ直ちにいらしてください! 馬車をまわしていますので、お早く!」
「来たか」
さっきまでの焦りは消えた。
代わりにすっと一本、静かで強い感情の芯が通る。
グランの話から十日。
よく晴れた休日の午後は、急転直下の刻へと変わったようだ。