107.俺一人では決められなくて
「コーラントにってことは、俺らも無関係とは言えないですね」
気が重い。
時刻は既に夕方だ。
窓に目をやると、日はすでに傾いている。
斜めに射し込む赤光が、俺ともう一人の影を伸ばす。
「そうなりますな。だが、ここで焦って救援を派遣していいものか。下手をすれば、無駄死にということになりかねない」
そのもう一人こと、ゼリックさんが口を開いた。
片眼鏡を外し、瞼を軽く抑えている。
さすがに疲れた様子だ。
昼間の急報が届いてから、ずっと会議してたからな。
しかも案件が重過ぎる。
彼は沈み込むように椅子に座り、俺の方を見た。
「しかし、いくらベヒモスとはいえ強過ぎませんか。コーラントの使者によると、二百人以上の兵士が犠牲になっている。強力な魔物であることは知っていますが――だが」
「確かに想像以上だね。ベヒモスがまだいたってだけでも驚きだけどさ」
俺は肩をすくめる。
窓に目をやりながら、頭の中に地図を描いた。
エシェルバネス王国とコーラント王国は、大きな一つの島の中にある。
他の大陸には、海を越えないと渡れない。
こうした事情から、両国の関係はシンプルだ。
ライバルであり、同盟国。
切磋琢磨し、協力しあい、共存共栄していこうってわけ。
対魔王戦の時もそうだったな。
コーラント王国も相当の犠牲を払って、あの戦いに参加していた。
そのお隣さんが被害を受けているんだ。
右手で膝を掴む。
こうでもしないと、震えが走りそうだった。
「九年前にあのクラスの魔物は、全滅したと思っていましたがね。生き残りがまだいたわけですか」
「コーラントの南の方は、未開の地らしいからね。ベヒモス一体くらいなら、ひっそり生存できたってことかな。実際こうして出現しているんだしさ」
「む、確かにそうですな。だが、二百人……しかも寄せ集めではなく、正規兵が蹴散らされたか。特殊な個体である可能性が高いですね」
「まだ分からないけど、そうかも。五十人くらいでかかれば、普通はどうにかなるしね」
ゼリックさんの懸念は理解出来る。
ベヒモスは確かに強い。
大型の四足獣であり、耐久力と馬力はずば抜けている。
海のリヴァイアサンと並び、地のベヒモスと呼ばれるくらいだ。
けれど、生き物であることは変わりない。
もちろん、こちらのレベルや装備にもよる。
でも二百人もの兵士をなぎ倒すというのは、ちょっと考え難かった。
魔王クラスとは言わないが、そのすぐ下程度の強さはあるか。
"殺れるか?"
まただ。
また膝が震えそうになる。
自分が行くと決まったわけでもない。
なのに、勝手に考えている。
俺はベヒモスの姿を思い出す。
過去に何体か屠ったことがあったから。
岩めいた表皮をしていた。
長い角を持っていた。
家ほどもある巨体、その割には速かった。
何より、斬っても殴っても倒れなかった。
攻撃呪文にも耐性は高い。
あの耐久力の化け物を、どうやって切り崩す?
いや、今の俺が切り崩せるのか?
けど、仮に倒せたらベヒモスの肉、食えるよな。
リヴァイアサンと並ぶ珍味だ。
魅力的としか言いようがない。
そう思うと、恐怖を興味が押しのけ始めた。
いや、それどころじゃないんだけど。
「クリス様、大丈夫ですかな」
「っ、すいません。ちょっと考え事を」
表情を改める。
ゼリックさんは片眼鏡をかけ直していた。その灰色の目がこちらを凝視している。
「ベヒモスと戦うことを想定しておられましたか。いや、言わずともいいです。その顔を見れば分かります」
「隠しても仕方ないね。うん、その通り。前に殺ったことはあるからさ。その時のことを思い出していた」
「自分が救援に向かうと決まったわけでもないのに?」
「行く可能性は高いでしょう。自慢になっちまうが、俺が最強戦力なんだ。最小の犠牲で済ませたければ、俺しかいない」
「それはそうですが、だが」
言葉を濁し、ゼリックさんは沈黙した。
ああ、言わなくても分かるよ。
理屈はそうだろう。
純粋に戦力的に考えれば、そうだろう。
けど、そんなに単純なことじゃない。
万が一、俺が負けたらどうなるか。
勇者の喪失は、エシェルバネス王国の威信を揺るがしかねない。
責任問題から、内部崩壊もありえる。
それ以上に、全国民が動揺するだろう。
「俺だって馬鹿じゃない。九年前の青臭い若造とは違うんだ。血気に逸って、勝手に出撃なんてことはしないよ。しがらみってやつがあるしさ」
だから安心させるために、こう言うしかなかった。
「それを聞いて安心しましたよ。個人的には、出来ればクリス様を派遣したくはないのでね。恐らくそれが最善手であっても、危険過ぎる」
「負けた場合のリスクが高いってことかい?」
「それもありますが、もっと単純にです。あなたとの付き合いも長い。死地に赴かせるのは、気が進まないですな。それに聖女様もおられる」
「エミリアか」
気が重くなった。
そうだ、今の俺は一人じゃない。
偽装婚約とはいえ、同居人がいる。
もし俺がいなくなったら、彼女はどうするだろう。
どうなるだろう。
悲しむだろうか。
いや、偽装婚約という微妙な関係が抹消されるのだ。
死を悼みはするだろう。
だが、もっと生産性のある関係へ踏み出せるとも言える。
"いや、待て待て、俺"
つい極端に考えてしまうのは、俺の悪い癖だ。
まだ何も決まっていない。
誰がベヒモスと戦うかは問題じゃない。
この危機をどう乗り切るか、それを考えないといけない。
「すぐにどうこうってわけでも無いんですよね」と確認を取る。
「ええ。ベヒモスも積極的に暴れているわけでもないらしい。ただ、あのクラスの魔物だといるだけで脅威だ。報告によると、コーラント王国はパニック状態らしいです。南部への通行禁止、仮の防衛線の設置などの対処はしていてもね。これを放置すれば、現国王の政権も揺らぐことは避けられない」
「放置ってわけにはいかないよな。コーラントにも国としての意地があるしさ」
「ええ、ベヒモスだと居座るだけでも国が滅びます。恐怖に煽られ、コーラントを捨てる人も出てくるでしょう。排除するしか無いです」
ゼリックさんの言うことは分かる。
だが、誰がどうやってやるかだ。
二百人の兵が犠牲になった。
この事実は重い。
それだけの敵に、どう立ち向かうか。
誰が行くのが最適か。
すぐに出る答えではないな。
うん、背負い込むのはやめておこう。
「今日はとりあえず帰りますよ。必要なら、声かけてください」
「その必要が無いことを祈りますよ。私人としても公人としてもね」
「ありがとう」
ゼリックさんを後に残し、俺はその場を後にした。
いいさ、今は考えないでおこう。
なるようになるだろうよ。
† † †
普段の足取りとは程遠い。
道行く人もどこか表情が暗い。
ベヒモス出現の報せは、もう開示されたようだ。
肌で感じる変化が、非日常を実感させる。
まったく、嫌になる。
「ただいま。ああ、モニカも来ていたのか」
家に着いた俺を、二人が出迎えてくれた。
エミリアもモニカも、どこか落ち着かない。
当然だ。
それだけの事態なのだから。
「おかえりなさいー。すごいことになっちゃいましたねー」
「おかえりなさいませ、クリス様」
いつもと同じようにと意識しても。
やっぱり、どこかが違うものだ。
ちょっとした仕草に、それが出ている。
例えば、エミリアがやたらと髪をいじっている。
神経質になっている証拠だ。
モニカは視線を彷徨わせていた。
不安がその目に滲み出ている。
「夕ご飯は、いや、そんな雰囲気じゃないよな」
自分でもそう思う。
何だか変な感覚だ。
空腹なのに、食べる気がしない。
体と気持ちが、一致していない。
ため息をついた時だった。
「私、食べたいです!」
澄んだ声が響いた。
声の主――エミリアが決然と手を上げている。
「クリス様のご飯、食べたいんですー! ベヒモスくらい何ですかっ! そんなことで私の、いえ、私達の大事な時間壊されたくないですっ!」
「エミリア様?」
モニカが表情を変える。
不安げな視線が少し落ち着いた。
俺とモニカを見ながら、エミリアは更に言う。
「戦う前から暗くなっちゃ、ダメですよっ。ご飯食べて元気出して、それから皆で考えましょうよー! 絶対どうにかなりますって!」
「そうだな、その通りかもな」
まったく、俺もどうにかしている。
エミリアの方が、よほど現実を見据えている。
こんなんじゃ、戦う前から負けている。
そう言われても仕方ない。
気を取り直し、立ち上がる。
「よし、ちょっと待ってろ。すぐに食べられるもの作ってやるから」
「わーい、さすがクリス様なのですよー」
「そうですね、ちょっとどん底にはまりすぎましたね。私も食べたくなってきました」
エミリアが歓声を上げ、モニカが笑った。
よし、俺もやる気出てきたぞ。
今日は何を作ろうか。