105.お弁当という名の小さな幸福
いなり寿司の一口目は、本当に美味しい。
酢による上品な甘酸っぱさがいい。
酢飯を包む油揚げも、甘めの味付けである。
それらをパクリといくと、口の中でほろほろと崩れるのだ。
エミリアにとって至福の瞬間である。
「はむ。うん、いなり寿司、美味しいですー」
両手で持ち、ぱくりとかぶりつく。
このいなり寿司のサイズは、ちょっと小さめだ。
それを両手で持っているので、小動物のようである。
後輩二人がきらきらした視線を注ぐ。
「はあ、ご飯食べているエミリア様、可愛らしいですね」
「愛らしさ満点っすね。とても二十一歳には見えない」
「年齢関係あるんですかー。失礼しちゃうのですよー」
怒ったふりをしながら、エミリアは食べ続ける。
まだ残暑が厳しい季節である。
白いご飯だと、場合によってはもそもそしかねない。
その点、このいなり寿司は問題ない。
適度に甘めで満足度が高い。
酢を使っているため、僅かに酸味もある。
甘さと酸味が混じり合い、後味が良い。
いつもだとくどいだろうが、時々無性に食べたくなる味付けだ。
「ご飯そのもののほっくり感味わうなら、おにぎりの方がいいんですよー。でも暑いと、それが重く感じることもあるんですよねー」
しみじみと呟く。
エミリアは普通のご飯も好きだ。
クリスと同居してからは、異世界の料理にぞっこんである。
パンや麦粥より、胃がご飯に慣れてしまった。
それでも夏の盛りにはきつい。
ご飯特有のほっこり感がしんどい時もある。
「けれどっ、このいなり寿司はさくっと食べられますねー! おにぎりほどもっちりしてなくて、軽くってー! 酢飯の爽やかさが夏バテを追い払うー! クリス様のお気遣いが嬉しいのですよー!」
「あらやだ、またエミリア様がのろけて」
「胃袋掴まれると、人間弱いわね」
「えっ、だって当然じゃないですかー。美味しいもの食べるために生きているんですー」
さらっと流し、エミリアは笑った。
元々食べることは好きだった。
だがクリスと同居するようになってから、もっと好きになった。
自分は幸せだなあと心から思う。
その幸せを文字通り噛み締めながら、箸を手に取る。
「次はきんぴらゴボウいきまーす」
ゴボウが主ではあるが、細切りのにんじんも入っている。
昨日のおかずに食べたので、目新しさは無い。
けれど、好物の一つではある。
適量摘み、舌に乗せた。
すぐに味が広がるわけではない。
だが、じんわりとくる。
"ゴボウの繊維質がシャキシャキとしてますねー。健康食って感じですー、うん"
ゴボウは歯ごたえがある野菜だ。
醤油、みりん、酒で煮込まれ、柔らかくなってはいる。
だがこのシャキシャキ感こそが特徴だ。
根菜独特の泥臭さは見事に消えている。
一口ごとにシャキシャキ感が生まれ、それを噛みしめる。
地味な茶色ということもあり、華やかさはない。
けれども、何故かホッとする。
そう、確かこういうのを。
「おふくろの味って言うんですよねー。うん、こういうのがあるとお弁当って感じですー」
ゴボウだけではなく、にんじんもある。
にんじんもやや癖があり、苦手な人もいる。
実のところ、エミリアも若干それはあった。
しかし、今は違う。
クリスの料理なら、全面的に信頼できる。
ゴボウとはまた違う、滲み出るような甘さがいい。
全てのにんじんが細く切られ、熱をきちんと通されている。
そのため、ゴボウに比べて柔らかい。
「私達から見ると、何だか地味なお料理だなと思うんですけど。でも、エミリア様の顔見てると」
「絶対美味しいんだろうね。もー、エミリア様ってばニマニマし過ぎっ!」
「えへへ、すいませんー。あ、よかったら少し食べますかー? 一口ずつくらいならいいですよー」
気前よく分けてあげる。
効果はてきめんだった。
「土の滋味が野菜を通して広がる!?」と一人が驚く。
もう一人は「シャキシャキ感としんなり感、この絶妙なコラボレーション! 歯ごたえだけで新感覚ですよっ」とのけぞった。
エミリアはちょっと引いた。
効くだろうとは思ってはいたが予想以上だ。
「だ、大丈夫ですかー? もっと食べますかー?」
親切心から申し出たが、これは遠慮された。
「食べたいけど、中毒になりそうだから止めておきます」
そう言われては、これ以上勧める気はない。
エミリアは自分の弁当に戻る。
あと食べていないものはこれか。
鮮やかな緑色が目を惹く。
「じゃ、私はこのブロッコリーいきますねー」
少しだけ観察する。
特に何もかかっていない。
茹でただけのようだ。
さすがにこれは特別なものは無さそうだ。
細い指で茎を摘む。
面白い野菜である。
花の部分は濃い緑色で、こんもりとしている。
その下に黄緑色の茎が伸びていた。
まるでグラデーションのようだ。
一口でぱくりといった。
「うん、うんうん。香りが強いですねー! 新鮮そのものっ!」
恐らくこのブロッコリーは、彩りのために入れたものだ。
緑系のものは、今日の弁当ではこれしかない。
だが、食感は悪くない。
花の部分がパラパラと綻ぶ。
茎の部分は一瞬だけ歯ごたえを残し、そして切れていく。
ブロッコリー特有の青くさい香りも、いいアクセントだ。
きんぴらゴボウの後というのもあるだろう。
緑の野菜を強く感じた。
「葉物野菜とはまた違って、存在感があるんですよねー。食感が楽しくて、私は好きなんですよぉ」
とは言うものの、好みが分かれる野菜だ。
独特の青くささが好きかどうか。
それさえクリアすれば、気にいるだろう。
「もしゃもしゃ食べていると、健康になれそうな気がしますねー」とエミリアは笑った。
軽く茹でただけなので、味としては物足りない。
その分リフレッシュ効果がある。
「うう、我慢できないです。あ、あのー、エミリア様ー。出来れば少しおすそ分けをー」
「やっぱり、さっきのきんぴらゴボウだけじゃ物足りないですよぅ。お慈悲をー、お慈悲をー!」
「哀れっぽい声出さないでくださいよー。ちゃんと分けてあげますからー」
慈悲の微笑みを向けながら、エミリアはいなり寿司を分けてあげた。
一人につき一つ、トータル二つだ。
ずいぶん思い切っている。
「こ、こんな貴重なものを! すいませんすいません、ありがたくいただきますっ!」
「うおっふぅ、口の中でこの甘酸っぱいものがほろほろとっ……これが勇者様の手料理っ!」
「いつも頑張ってくれてますものー。せめてものお礼ですよー」
本当はちょっと惜しい。
だが、エミリアはけちではない。
他人への感謝を忘れるほど、心が狭いわけでもない。
美味しいものは皆で分けよう。
そうすれば不公平など生まれない。
ちょっとした優しさが、大きな助けになることもある。
"皆が美味しいものを食べたら、世界はもっと平和なんですよねー"
鶏ささみを食べながら、エミリアはにっこり笑った。
ささやかな幸福でも、これがとても大事なのだ。