103.晩夏の朝のお弁当作り
夏も盛りを過ぎてくると、過ごしやすくなってくる。
日中はまだ暑いが、朝夕はましだ。
それだけでもかなり違う。
起きた時の気分が、まったく変わってくる。
例えば、今朝のように。
"ふう、気持ちいい"
顔を洗う。
汲み上げた井戸水が、僅かに冷たく感じられる。
寝起きの気だるさを洗い流し、俺は家へと戻った。
いつもと同じ一日の始まりだ。
ここのところ身の周りは平穏だ。
事件らしい事件も無い。
強いて言えば、数日前にローロルン=ミスティッカが訪ねてきたくらいか。
リヴァイアサン料理を堪能した後、あいつは王都に居座り続けている。
根無し草生活は一時的に中断らしい。
"俺、ライアル、ローロルンか。昔を思い出すなあ"
エプロンをしながら、過去を振り返る。
再会など無いだろうと思っていたのにな。
縁というものがあるのだろうか。
御免こうむりたい――とまでは言わないけれどね。
だが、今は目の前のことに集中しよう。
すなわち、同居人の弁当作りだ。
"エミリアが起きてくる前に、大半作っちまおうか"
夏の間、弁当作りはちょいちょいさぼっていた。
作るのが嫌だという訳じゃない。
暑いと、弁当も腐りやすいからだ。
もちろん腐りにくい食材というのはある。
けど、それでカバーするにも限度がある。
食中毒のリスク低減のため、弁当はたまにしか作らなかった。
神殿でもお昼ご飯は提供されるしな。
「さて、何にするか」
ポツリと呟き、目を閉じる。
瞼に柔らかな朝陽を感じた。
薄明かりが交じる暗い視界、その中で今日の弁当を想像する。
昨日の残りのきんぴらゴボウで一品。
ご飯はいなり寿司にしようか。
野菜も必要だよな。
緑色のものが無いと、彩りが寂しくなる。
主菜はどうする?
まだ暑さも厳しい。
なるべく腐りにくいものがいいな。
そうなると、そうだな。
梅を使おうか。
食材に火を通して、梅肉で和えればいい。
うん、大体まとまってきた。
"やるか"
目を開く。
いつもの台所が、目の前に広がっている。
理由もなく安心感を覚えた。
包丁を手にしながら、その安心感を意欲に変えていく。
いつもと同じように、今日も料理をしよう。
食材に感謝しながら、美味しく作ろう。
好きなように料理が出来て、食べてくれる人がいる。
俺にはそれで十分だ。
"よし"
収納空間を開く。
いくつかの食材を取り出した。
鶏ささみ、梅干し、かつお節、それにブロッコリーだ。
これでおかずは大丈夫。
まずは鶏ささみからだ。
薄ピンクの肉には、ほとんど白っぽい部分が無い。
つまり脂肪が少ない。
がっつり食べたい人には不向きだろう。
だが、あっさりとした肉料理には適している。
その鶏ささみを切る前に、俺はちょっとだけ手をかける。
薄ピンクの肉の端を見ると、やっぱりあるよな。
邪魔な白い筋が。
"これだけが邪魔なんだよなあ"
筋を残したままでも、食べられなくはない。
でも固いし、美味しくもない。
なので普通はこれを取り除く。
筋の取り除き方には、何種類かある。
フォークを使う方法もあるが、俺は包丁派だ。
持ち替えるのが面倒だからね。
慣れてしまえば簡単だし。
まな板の上にささみを置き、筋を確認する。
柔らかな身の中で、これだけが異質だ。
凝り固まった紐のように、硬くピンと張っている。
その筋に沿うように、包丁を入れた。
筋の左右に一回ずつ。
これだけではまだ取れない。
身の内側と筋がくっついているからだ。
"もう慣れたからいいけど、最初はよく失敗したな"
何だって経験だ。
包丁を左手に持ち替え、ささみをまな板に押し付けた。
右手に筋の端を持つ。
左右に切り込みを入れたので、つまむくらいは出来る。
だから、これで取れるってわけだ。
「っしょっと」
左手の包丁でささみをグッと抑え付ける。
イメージとしては、身を左側に寄せるようにだ。
同時に筋をつまんだ右手を引っ張る。
左手のヘルプもあり、筋が身から剥がれていく。
最後に一瞬だけ抵抗があったが、それだけだ。
よし、綺麗に取れた。
今でもたまに失敗するから、緊張するんだよな。
ささみの筋が取れたので、ちょっとだけテンションが上がった。
鼻唄を唄いながら、さくさくと進めていく。
まずはフライパン、それに小鍋の準備から始める。
フライパンには油をひき、小鍋には水を張った。
火魔石を点火して、この二つを熱し始めた。
今のうちに下ごしらえだ。
ささみは一口大に切って、軽く塩をふっておいた。
次はブロッコリーだ。
こちらはやや小さめにカット。
濃く鮮やかな緑が、生命力を感じさせる。
"テキパキやらないと、弁当って上手くいかないんだよな"
もたもたと作った時は、弁当の味が落ちる気がする。
気のせいかもしれないけどさ。
このあたりは経験が物を言う。
場数を踏めば踏むほど、料理ってのは上手くなる。
この間に湯も沸いたので、ブロッコリーを小鍋に入れた。
一瞬遅れて、ささみをフライパンに投下する。
軽く油が弾けた。
焦げないように注意しながら、火を通す。
ささみの表面が薄ピンクから白に変わる。
焼いた肉の匂いを微かに感じた。
その頃には、もうブロッコリーを引き上げた。
あんまり茹でると、色が悪くなってしまう。
よほど茎が太くない限りは、さっと茹でればそれでいける。
"そろそろ起きてくるかなー"
気配を探るが、まだのようだ。
いない内にさっさと済ませちまおうか。
ささみをフライパンから取り出した。
このままだと、ほとんど味が無い。
ヘルシー路線過ぎて、無味乾燥な程度にはな。
そんな主菜は嫌なので、ここから味付けだ。
"梅肉使えば、殺菌効果もあるしな。まだ暑さが怖い季節だし"
さっき取り出した梅干しを一つ手に取る。
見ただけで口の中に唾が沸く。
初めて食べた時の舌の記憶のせいだ。
こんな酸っぱいもの、絶対に食べられないと思ったが――人間、慣れるもんだなあ。
ピンと指で弾くと、ボウルの中へとナイスイン。
小さな満足を覚えつつ、俺は弁当作りを進めていった。