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侍女の昔話

(※アリシアがプロポーズされている前後)






 ベアトリクスは四肢を弛緩させ、ゆるりとクッションにもたれ掛かっていた。この屋敷のクッションは、一つ一つが非常に大きい。大きい上、丸っこい。

 周りにやかましい侯爵家の使用人がいないのをいいことに、ベアトリクスは悩ましい曲線を描く体を優美にくねらせ、クッションを抱え込むようにして俯せになっていた。

 ベアトリクスの前方には、屋敷の書棚から出した本を読むカチュアが。彼女は一足先に洗髪だけ済ましていたらしく、艶やかな青銀髪は既に乾いている。


 ティリス男爵家屋敷の風呂を借りたベアトリクスは、髪の乾燥をアリシア付きの侍女に任せていた。この侍女、年若く見えるがなかなか気が利き、髪を乾かす手つきも非常にこなれている。

 ベアトリクスの髪は非常に量と癖があり、生乾きのまま放置するととんでもないことになってしまう。侍女はベアトリクスの髪質も把握したのか、くるんくるん毛先が必要以上跳ねないよう、丁寧に水気を拭き取ってくれている。


「……そういえば……チェリーと言ったかしら」

「はい、なんでしょうかベアトリクス様」

 チェリーははきはきと答える。声を聞いたのか、読書中だったカチュアも顔を上げてこちらを伺っている。


「あなた、アリシアの専属侍女ですのよね」

「はい。お嬢様が十歳、私が十二歳の頃からお側に控えております」

「あなたは、子どもの頃からアリシアと一緒に暮らしてきましたの?」

 何気なく問うてみた。アリシアの子ども時代に興味が湧いてきて、この侍女なら知っているのではないかと思ったのだ。

 だがチェリーはふふっと笑い、すっかり水分を含んだタオルを新しい物と交換し、ベアトリクスの髪を挟みながら軽く引っ張る。


「いえ、私は十二歳の頃お嬢様に出会いました」

「出会ってすぐに侍女になったということは、あなたは使用人の家系ですか?」

「いえ」

「では……あなたはどうやってアリシアと会ったのですか?」

 カチュアも問うてくる。だがそれにもチェリーは小さく笑いを返し、「お二人ならいいかな」と呟いた。


「もし、よろしければ私とお嬢様との出会いをお話ししましょうか? ただ……あまり、きれいな話ではないのですが」

 そう付け加えたチェリーの声は、少しだけ沈んでいる。ベアトリクスは顔を上げた。カチュアと視線がぶつかった。

 二人は頷いた。


「是非聞かせて。もちろん、あなたさえよければ」

「かしこまりました。では、もしもう十分になられましたらお知らせくださいね」

 チェリーは微笑みを絶やすことなく言い、静かに唇を湿した。


「私は……犯罪者でした」









 チェリーはグランディリア王国のとある辺境の地で生まれた。そこは王国内でも指折りの貧困地方で、チェリーの母親もチェリーを生んですぐに路地裏に捨て、チェリーは通りすがった老婆に拾って育てられたという。老婆が言うには、チェリーの母親がイライラした様子でチェリーを投げ捨てていくのを目撃したのだそうだ。

 チェリーは老婆の温情で六歳程まで二人で暮らしたが、老婆は急性の病であっけなく亡くなってしまった。老婆が編み物でなんとか食いつないでいた状態なので、幼いチェリーには生きる術はない。チェリーは老婆を埋葬し、一人、貧民街に降りた。


 貧民街は何でもまかり通る、悲惨な地域だった。六歳のチェリーは生きるため、必死で足掻いた。落ちていた木箱の破片で若い女性の喉を掻き切り、彼女が持っていた食料を奪ったのが、最初だった。

 チェリーは貧民街で生き残りを賭け、殺し殺されかけの生活を送ってきた。数年も経てば、チェリーはナイフ一つで瞬時に敵の頸動脈を断ち切る技と、体の大きな相手でも的確に急所を突いて倒す技を体得していた。そうしないと、生き残れなかったからだ。


 何人もの仲間が、次々に倒れていった。時には仲間内で殺し合いもあり、チェリーも狙われたことが何度もある。

 だがチェリーがおよそ十一歳の頃、貧民街は取り潰された。かといって、貧民街で暮らしていた者に生活手当が出るとか、雇用促進されるとか、そんな措置はなかった。貧しい者たちは重厚な鎧を纏った地方騎士に追い立てられ、各地方へと散っていった。おそらく、そのほとんどはあっという間に死んでしまったのだとチェリーは思う。


 チェリーが流れ着いたのは、牧歌的な風景が広がる地域だった。歩けど歩けど、貧民街は見あたらない。あるのは、ぽつぽつと点在する集落と、農村の風景のみ。

 チェリーは畑に入り、野菜を奪った。肉っ気はないが仕方がない。逃げ足だけは自信があったので、農民を撒いて食いつないできた。

 幸運にも、チェリーはこの地方に着てから、人を殺す必要がなくなった。食べ物はその辺に植えられていたからだ。しかも、集落は鍵を掛けない家もあり、容易に忍び込める。わざわざ家に押し入って、住人を殺害する必要もなかった。


 だがある日、ついにチェリーは捕まった。畑荒らしの被害に困った農民が罠を張り、見事チェリーが捕まったのだ。農民はイノシシか何かと思っていたようで、まさか女の子どもが捕まるとは思ってもいなかったようだが、すぐさま警備兵が呼ばれた。

 警備兵も、チェリーの扱いに困ったようだった。彼らはチェリーが立派な殺人者であることを知らない。もちろん、その懐に使いなれたナイフが入っていることも。


 チェリーの始末をどうしようかと悩んでいると、そこへ立派な馬車が通りがかった。それには、ちょうど視察に回っていたその地方の領主――ティリス男爵と、社会見学で同伴した十歳の娘が乗っていたのだ。

 きれいな身なりをした男性と女の子が近付いてくる。それを見て、チェリーの本能が揺さぶられた。チェリーは自分を拘束する警備兵に噛みつき、懐に入れていたナイフを抜き取って警備兵の喉を狙った。


 幸運にも、警備兵は喉元まで覆うジャケットを羽織っていたため、彼はかすり傷だけで済んだ。だが再び取り押さえられたチェリーは、もう孤児院に入れられる、という処置は存在しなかった。彼女は本能とはいえ、人を傷つけたのだから。

 チェリーは、今度こそ死ぬのだと覚悟した。十二年間、彷徨い続けてここで死ぬのだと。きれいな服を着た者たちに見守られながら、惨めに死ぬのだと。


 だが、男爵とその娘は違った。娘の方がとことことチェリーに歩み寄ってきた。彼女は警備兵に留められたところで足を止め、チェリーをじっと見つめてきた。


 きれいな、汚れのない茶色の目だった。

 少女とチェリーはしばし、目を合わせた。そうしている内に、チェリーの体で燻っていた野生の炎が、少しずつ鎮火していった。


 少女は、口を開いた。


『……死んじゃうの?』


 少女は、チェリーに問いかけた。


『あなた、死んじゃうの?』


 もう一度、少女は問うてくる。純粋で、残酷な質問だった。

 チェリーはしばし、少女を見つめていた。つい先ほどまでだったら、「もう死んでもいい」と答えただろう。だが――


『……死にたくない』


 気づけば、チェリーはそう答えていた。いつの間にか、頬を熱いものが伝っている。


 死にたくない。生きたい。

 目の前で生を謳歌している少女が羨ましく、憎く、そして崇高で有難い。


『……まだ、生きたい』


 チェリーは言った。少女は満足したように微笑んで、後ろに立っていた父親を呼ぶ。


『お父様』

『分かっているよ。……警備兵、ご苦労だった。彼――いや、女の子だな。彼女を保護しろ』








 チェリーはボロボロの衣服を引っぺがされ、風呂に入れられた。丸太のように腕の太い中年女性たちにもみくちゃにされ、そしてもじゃもじゃだった髪も全て刈り取られた。こうしないと、すっきりできないと言われて。

 体中を洗われて服を着せられたチェリーを迎えに来たのは、あの少女だった。チェリーは大人たちに警戒されていたので彼女と触れあうことはできなかったが、少女はにこやかにチェリーに向かって手を振ってきた。


『行こう』


 チェリーは馬車に乗せられ、とても立派な家に向かった。チェリーはたくさんの大人たちに囲まれて、いくらか質問を受けた。


『君はこれからどうしたい?』

『あの少女はお嬢様だ。お嬢様と、これからどのように接したい?』


 チェリーは答えた。自分は、あの少女のためにもう一度やり直したいと。

 次の日から、チェリーは使用人によって徹底的に扱かれた。たとえ叱られても、決してナイフを使ってはならない。噛みついたり、殴ったりしてはならない。それが許されるのは、お嬢様の身に危機が迫ったときだけ。


 チェリーは猛特訓した。まずは、普通の少女として生きるために心構えを。そして、お嬢様の側で生きていけるための知識と技能を。

 チェリーはお嬢様に、チェリーという名をもらった。元々名前はあったのだが、忌々しい過去を思い出すのでもう捨てている。名前をください、と言うと、サクランボを食べていたお嬢様は、「じゃあ、あなたの名前はチェリーね! ほら、この実みたいにきれいな目をしているから!」と、チェリーの赤茶色の目を見つめてそう言った。


『私は、チェリー』


 チェリーの喜びは、あの可愛らしいお嬢様の顔を見ること。お嬢様を美しく飾り、お嬢様が幸せに暮らせるために手助けをし、お嬢様が素敵な男性と巡り会って恋に落ちる未来を想像すること。

 お嬢様から恋愛小説を譲ってもらうと、チェリーはどっぷり填ってしまった。そして事あるごとにヒロインをお嬢様に置き換え、一人妄想の世界に浸るのだった。


 命の恩人である、可愛いお嬢様。

 更正の機会を与えてくれた、お嬢様の父親である男爵。


 チェリーは、彼らのために、二度目の人生を歩むことを決めたのだった。








「……という感じです。……その、ご気分を害したのなら……」

「するわけないでしょう。わたくしたち、そんなに冷酷に見えますの?」

 ベアトリクスが体を捻り、不満そうに鼻を慣らす。実際の所、ベアトリクスもカチュアもかなりの悪役顔なのだが、そう思ってもチェリーは突っ込まないことにしたようだ。


「あなたの話を聞いて、あなたがアリシアを深く想っていることがよく分かりましたわ」

「始まりはどうであれ、今侍女として立派に務めを果たしているのなら、何ら問題はありませんね」

 カチュアも神妙な顔で言う。それを見て、チェリーの顔も少しだけ緩んだ。


「……ありがとうございます、ベアトリクス様、カチュア様。そう言っていただけで幸いです」

「こちらこそ。お話ししてくれてありがとう、チェリー」

「あなたはわたくしたちよりもずっと、アリシアのことにも詳しいですからね。今後も期待していますよ、チェリー」

「はい!」

 そう答えるチェリーは、もう十二歳の頃のような暗い瞳をしていなかった。


 そこにいるのは、主君への愛情と強い使命感に燃える、十八歳の侍女だった。

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