雷雨が運ぶ
きゃああ、と悲鳴があがって侍女たちが逃げまどった。
「こ、コマリ様!やめさせてください」
「いやー、来ないで」
ドリスの手からキュラの入った籠が離れる。
地に落ちる寸前、妖精たちは上手く背中で籠をキャッチすると、宙を駆って小鞠の元へ戻ってきた。
キュラを彼女の足元に置いて、地面を飛び跳ね大興奮で何かを訴えている。
「どうしたの?」
「そういえば森喰いはキュラが大好物だと聞いたことがあります。キュラができるこの時期が、森喰いが最も多く人里へ出てくると――それ故、キュラの果樹園主は魔法使いに頼んで、魔法で森喰い避けをしなければならないとか。王宮の果樹園も森喰い避けをしているでしょうから近寄れないでしょう」
「じゃあ皆、このキュラが食べたいって言ってるの?」
屈んだ小鞠が妖精たちに問いかけると、彼らは一斉に、そして激しく首を縦に振った。
なかには涎を垂らしている妖精もいて彼女はくすくすと笑ってしまう。
「わかった、あげる。一つずつでいいかな?」
瞬間、籠からキュラが浮き上がる。
妖精の魔法のようだ。
手のひらサイズの馬の口に果実は大きすぎる。
どうやって食べるのかと気になったとき、妖精たちの口が、まるで鰐のようにパカリと開いた。
その様子はお世辞にも可愛いとはいえない。
(怖っ――ていうか、口が裂けたかと思った)
キュラを食べた小さな妖精たちはなんだか生き生きとしている。
毛艶が良くなったように見えるのは気のせいだろうか。
彼らは小鞠に礼を言うように親愛の情を示し、天を指してジェスチャーで彼女に雨を伝えると、木々の間へ消えていった。
籠の中には数個しかキュラが残っていない。
しかも先ほどよりみずみずしさがなくなっているように見えた。
「森喰いが側にいては、このように精気を奪われ萎びてゆくのです」
オロフが説明してくれる。
「こんな短時間で?」
「そうですね。単体ではそこまで脅威ではありませんが、森喰いは群れで行動しますので」
遠巻きにしていた侍女と護衛官たちが近づいてきた。
「コマリ様、体調はいかがですか?眩暈などはしませんか?」
「大丈夫。それよりキュラがここにいる人数分になっちゃった。みんなで一個ずつ食べよう。洗ってないけど平気?」
恐縮する彼らに笑顔で手渡し、仲良く皆でキュラを食べた頃、ポツリと天から雫が落ちてきた。
とうとう降り出してしまった。
今日は散策がてら果樹園まで歩いたのだが――。
(こんなことなら馬車で移動してれば良かったかな)
王宮は離れた場所まで馬車で移動するのが常だ。
カッレラに来た当初はその話に、どれだけ広い敷地なんだと思ったけれど、実際、歩いてみるようになって実感した。
本当に広くて、中心となる王族塔を出発し、他の塔を点々としていくだけでも、数時間かかるウォーキングコースのように、けっこうな距離になる。
降ってきたと思ったら、まるでバケツをひっくり返したような豪雨になった。
日除けにさしてくれていた日傘などまるで役に立たない。
ゴロゴロと空が唸り声を上げたことで、供と一緒に地を駆ける小鞠は、焦ったように雨雲を見上げた。
(雷?落ちたら危ない)
王族塔まではまだある。
ならば近くの塔へ避難するほうがいいだろう。
ちょうど魔法使い塔がすぐ側だ。
「皆、雷が去るまで魔法使い塔へ非難しよう。急いで」
魔法使い塔へ飛び込んで、全員びしょ濡れの顔を見合わせる。
顔に張り付いた髪を、雫と一緒に払いながら小鞠は周りを見回した。
白壁の王族塔とは違い、石壁の魔法使い塔のエントランスは、突然の悪天候によりかなり薄暗い。
ランプを見つけてオロフが明かりを灯そうとしたが、火打ち石が見当たらず無理だった。
雨に濡れたせいか少し寒いと思ったところで、クシュ、と小さくサデがくしゃみをして赤くなった。
「このままじゃ皆風邪を引いちゃうね。ジゼルの部屋が魔法使いの寮にあるはずだから、そこへ行ってみよう。ドリス、寮区域がどこかわかる?」
「はい、お任せくださ――」
ドドーン!
鼓膜をふるわせる突然の大音量に、ドリスの声はかき消され、地面が揺れた。
スサンとサデが悲鳴をあげて抱き合う。
どこか近くで雷が落ちたようだ。
そして今度は雷とは別のガラガラという大きな音が聞こえてきた。
「何?いまの音」
「わかりかねますが何か崩れたような……庭師たちの道具がしまってある小屋の辺りでしょうか?」
壁をくりぬくように作られた窓から外を窺っていたオロフが、目を凝らすように土砂降りの雨の向こうを見ている。
「中にある物が崩れたのでしょう。煉瓦や植物を這わすアーチ、それに庭に飾る石像を置いてあるときもあるようですから」
「急な雨だったし誰か小屋に避難していたら危ないわ。大丈夫かな」
オロフの横から窓の外を覗いた小鞠は、魔法使い塔に向かって大きな黒い何かが滑空してくるのを見た。
が、すぐに窓から見切れて見えなくなる。
鳥?
思ったところで魔法使い塔の扉が開いて、中に人が飛び込んできた。
紺地に花鳥が描かれた着物を纏い、まるで花魁のように胸の前で帯を結んだ男だった。
その派手ないでたち誰もがぎょっとし、
「え!?朧?」
小鞠が声をあげたことでオロフをのぞく、その場に居た全員が彼女を見た。
朧は小鞠に気づいて、滑るような人外の動きで寄ってくると、抑揚のない声で言った。
【小屋で荷が崩れて人が下敷きになったようです。手を貸していただけないでしょうか】
「人が荷物の下敷きに!?」
魔法石のない者たちに朧の言葉は通じない。
小鞠の驚愕の声に遅れて瞠目し、そんな彼らにオロフが即座に指示を出した。
「俺たちが助けに行こう。エーヴァはすぐに王宮医師を呼んできてくれ。コマリ様はドリスたちとこちらで待――」
「まだ雷が鳴っているし、わたしがエーヴァと一緒にお医者さんを呼んでくる。もし落雷があっても魔法で守られるだろうから。それよりオロフたちのほうよ。オロフの魔法石で全員を雷からは守りきれないんじゃない?」
【そのときはわたしが雷にうたれましょう。痛手は受けますが人のように死ぬことはありません】
割って入った朧の台詞を理解できた小鞠とオロフが目を見交わす。
「本当?」
【はい】
痛手を受けるということは怪我をするということかもしれない。
けれど今は朧に雷から守ってもらうしかない。
小鞠は「ありがとう」と感謝して朧の手をぎゅっと握り締めた。
黄色の目が見開いて、そして微かな笑みに変わった。
姿を鷲に変え、オロフたち護衛官と外へ出て行く。
「ドリスたちは誰か魔法使いに協力してもらって、部屋の用意をしておいて。荷物の下敷きになった人は怪我をしてるだろうから、傷口を洗う水や清潔な布も必要だと思う。ああでも、下手に動かしちゃいけないかも……とにかく部屋!あまり動かさなくてすむよう一階に部屋の用意をしてね」
頷く三人の侍女を残し、小鞠はエーヴァと共に魔法使い塔を飛び出した。
激しい雨が全身を叩き、前がよく見えない。
雷はまだゴロゴロと空で唸って、ときおり稲光が走っていた。
「コマリ様、魔法使い塔へお戻りください。わたしが医師を呼んでまいりますから」
「雷が落ちたら危ないって言ってるでしょ!つべこべ言わずに一緒に行くのっ」
叫ぶように言ってエーヴァの手を握り小鞠は走り出した。
外を歩くということで裾は足首ほどまでのシンプルなドレスを着ていたが、雨を含んで足にまとわりつくのが邪魔だ。
小鞠が空いた手でスカートを膝まで持ち上げる。
エーヴァが目を剥いたがかまってなどいられなかった。
* * *
窓に雨が打ちつけている。
まるで死者が生者を死の淵へ誘うため叩いているようだ。
雨音に一瞬そんな事を思ったマチルダは、震え始めた両手の指を組んで強く握り締めた。
目の前のソファから、高慢な声がまた語りかけてきたためビクと肩を震わせる。
「安心なさって。わたくしのお願いを聞いてくだされば、マチルダ様が王宮魔法使いと恋仲だなんて誰にも言いませんわ」
「何を、根拠にそのようなことをおっしゃっているのか――」
んふ、と鼻から抜けるような吐息とも笑いともつかない音に、マチルダは相手に目を向けた。
そこには顔の横に垂らした赤毛を指で弄ぶオルガがあった。
マチルダの視線に気づくと薄緑の瞳を細めて妖艶に笑う。
が、彼女には獲物を前に舌なめずりをしているようにしか、見えなかった。
「今更とぼけても遅いですわ。わたくしの言葉に蒼白になった顔が肯定していましたもの」
突然のオルガの訪問だった。
舞踏会の一件でオルガは王宮への出入を禁じられたが、コントゥラ子爵が爵位を剥奪されたわけではない。
王国貴族の中で、以前ほどの力は持たなくとも、無下にあつかうわけにもいかず、会うしかなかった。
マチルダは、オルガのどこか人を見下すような態度や気の強さを苦手としていた。
夏の雨が嫌なことを運んできたと、雨雲を恨めしく見つめるうち、雨が降り始め、一層気分が塞いだ。
舞踏会の件で人が変わり、しおらしくなってはいないかと願ったが、部屋にやってきたオルガは相変わらず勝気そうで、美しくも毒々しい派手な花を思わせた。
そんな彼女に開口一番、「恋人はお元気ですの?」と言われ、心底驚いた。
取り繕うこともできないほどに。
動揺を顔に出してしまった自分を呪いながら、マチルダは何とか誤魔化そうと試みる。
「オルガ様が突拍子もないことをおっしゃったので、声にならなかっただけです」
上手くきりかえしたつもりが、オルガは目を眇め、それからニィと意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうですか。ではあなたのお父様、ミッコラ伯爵にこのことをお話させていただいてもよろしいかしら?マチルダ様は后候補の一人であった頃からシモン様に興味はなく、別の男性に夢中で、いまでも文の遣り取りをしていると――こう申し上げたら、ミッコラ伯爵はどんな顔をなさるかしら……ねぇ?」
「どうして文のことまで……」
彼のことは誰にも話していない。
彼の妹の働く商家へ文を届ける侍女は、何か感づいているだろうが、長年仕えてくれて信頼が置ける。
では誰がと考えてマチルダは閃くように思い当たった。
(コマリ様にだけ話をしたわ)
まさかという思いが胸に広がる。
「いまマチルダ様が思い当たったのは誰ですか?」
「誰って……――ああ、そんなまさか」
「どうして簡単に信用なさったのです。異世界から来た得体の知れない女を」
オルガの台詞にマチルダは胸を鷲づかみにされたほどの衝撃を受けた。
「嘘……やっぱりコマリ様が?どうして?」
「シモン様の寵愛を一身に受けたいがために、あの女はわたくしたちを陥れようとしているのですわ」
「ですがわたくしはシモン様の側妃になる気はないと申し上げました」
「マチルダ様にその気がなくとも、もしもということがあります。きっとそれを恐れてのことでしょう。わたくし、あの女がどういう者か気になって調べさせましたの。そうしたら、マチルダ様を破滅させる弱みを握ったと、とても愉しげにもらしていたそうですわ」
愕然とした。
王宮のコマリの元を訪ねれば、いつも優しく迎え入れてくれた。
心を許せる友達になれそうだと嬉しかった。
マチルダの円らな瞳に涙が盛り上がりはらはらと流れ出した。
オルガが彼女の隣に移ってくると、慰めるように優しく肩を引き寄せる。
「お可哀想なマチルダ様」
「わ、わたくしはどうしたら。このままでは彼とのことが知れ渡ってしまうかも――ああ」
そうなったとき世間の目はどう変わるだろう。
伯爵家の娘として扱われていたものが、不埒者と蔑まれてしまうのだろうか。
「あの女の思い通りにさせなければ良いのですわ。こちらから仕掛けるのです」
「仕掛けるって……何をなさるおつもりですか?」
恐ろしくなって問いかけたマチルダに向かって、オルガは安心させるように微笑んだ。
「思い通りにはいかないとわからせるだけです。おまえが何をするつもりなのかわかっていると牽制すれば、おとなしくなりますわ」
「牽制、ですか?」
「あの女のように誰かを陥れるような真似は、人の道に反するものです。そのようなことはいくらなんでもできるはずはありません。そうでしょう?」
目を向けられてマチルダは反射的に頷く。
「ではマチルダ様、わたくしのお願いを聞いていただけますわね?」
「どのような……ことでしょうか?」
「簡単なことですわ」
オルガの目が怪しく光ったように見えたのは、空に稲妻が走ったからだろう。
ドドォンと雷の音がした。
どこかに落ちたのかもしれない。
窓を打つ激しい雨はやむ気配もなく降り続く。
涙の浮かぶマチルダの瞳に、また天を駆ける稲光が煌いた。