痴れ者
自室で椅子に座りながらペッテルは窓の外を見ていた。
身じろぎすれば椅子がわずかに軋んだ音を立て、なんだか耳障りだった。
彼は魔法使い塔に住んでいる。
寮区域の中でも低階層の狭い一人部屋を与えられていた。
新人魔法使いがまず与えられる部屋だ。
高等魔法である空間を広げる魔法を修得すれば、広い部屋に改造することも可能だが、そのような魔法が使えるようになれば部屋のランクも上がるため、新人たちはとにかく魔法の鍛錬をする。
これまでペッテルもそうであったが、いまはぼんやりと窓の外を眺めているだけだ。
青々と茂る植物は煌く陽光をたっぷりと受けて生命力に満ち、地面に濃い影を落としていた。
天に目を向ければ太陽が瞳を射て、眩しさに視線をそらすと、ぬけるような青空に大きな雲がもくもくと広がっていた。
夏空によく見る積乱雲だ。
本格的な夏の到来を告げていた。
知らずペッテルから溜め息がもれる。
(この雲が毎日のように見られるようになって、そのあとまただんだん見られなくなって……秋が来る)
その時自分は王宮を出て行くのだろう。
また溜め息をついたところで、ぽこんと何かで軽く頭を叩かれた。
振り返るといつの間に部屋に入ってきたのか、ヴィゴがしかめっ面で立っていた。
そういえばさっき背後で何か音がしたような、とペッテルが思ったところで、
「辛気臭い」
と更に顔を顰めたヴィゴに言われた。
一日中見張りがついていたのは最初の数日で、ペッテルがおとなしく部屋にいるとわかると、彼が魔法を使えないよう魔力を封じ見張りを立てなくなった。
魔法使い塔から出ることは許されなかったが、建物内なら自由に動いてよかったし、こうして友と話してもよかったけれど、これは自分が犯人である可能性は低いと見てくれたのか、仲間がいる場合を考えて泳がせているのか、よくわからない。
近頃ペッテルは人と会わないよう、部屋に閉じこもり気味だった。
仲の良い魔法使いたちはペッテルの味方だったが、そうではない魔法使いは影でひそひそと話をし、彼と関わるのを避けるように距離を置いているのがわかってしまったからだ。
仕方のないことだと割り切ろうとしても、いまだ犯人が見つからない状況では、不安と焦りが募って、どんと構えていられるほどの心の余裕がもてなかった。
明るく振る舞うことに疲れ、人と関わらない方が楽だと部屋にこもって、日がな一日、窓の外を見つめて過ごし、夜は少しの読書をして早くに寝る。
まるで残り少ない余生を送る老人のようだった。
「窓を開けろ、窓を。空気を入れ替えれば少しはまともな顔になるか?」
立て付けが悪くがたがたと鳴る窓をヴィゴが開け放つと、熱気を孕んだ風が室内にまいこんだ。
爽快感のある緑の匂いを含んでいて、ペッテルが思わず胸いっぱいに息を吸い込むと、重苦しかった胸が少し軽くなった気がした。
窓の外では、枝葉を伸ばす大樹にどこかから飛んできた鳥が止まって、翼の手入れをし始めた。
茶色い小鳥を二人して見つめていたが、やがてヴィゴが振り返って窓枠に腰を預け、手にあった冊子を放ってよこした。
「これをやる。溜まったものを吐き出せば少しはすっきりするだろう?」
「艶本?これで一人抜けってか?俺は本物がいい」
「なら彼女を作れ」
「俺、おまえと違ってモテねーもんよ。まぁ、また使うわ……ありがとな」
空々しい笑いを浮かべてペッテルは側にあった机上に艶本を置いた。
そして気になっていたことを思い切って尋ねる。
「なぁ、俺んところ来てたらおまえまで白い目で見られないか?」
ヴィゴは毎日のように部屋に顔を出してくれた。
他の魔法使いたちは塞ぐペッテルにきづまりを覚えるのか、部屋を訪れる回数が減っているのに、彼だけは変わらない。
仕事中に魔法使い塔へ来る用事があったり、仕事が休みの日は、日中でもこうして部屋を訪れる。
「あの舞踏会のことがどう広がってるかは知らないが、俺がおまえに毒入りの惚れ薬を渡したと言ってる奴もいる」
「なっ!わけねーだろ」
ペッテルが怒りを露にすると、ヴィゴがわずかに口元を綻ばせた。
「こういう奴だよ」
「あ?なに?」
「自分のことでもそのくらい怒れと言っているんだ。わかりやすくへこむから、おまえのことを心配しているマーヤまで最近暗い」
「ああ、あいつはすぐ他人に感情移入しちまうから……悪い、気ぃつける」
また漏れた溜め息とともに頭をかいたペッテルであったが、
「俺の前では落ち込んでもかまわないが」
と、眼鏡を押し上げつつのヴィゴの台詞に目を向けた。
「今更取り繕われたところで、おまえがヘタレなのはわかったからな」
「ヘタレ……」
「犯人を捜そうともせず、上の言いなりでいるだろうが」
「俺は魔法使い塔から出られないし、魔力も封じられてんだぞ?何ができるって――」
「できただろう。舞踏会の日、たくさんの魔法使いが迎賓塔にいた。その中の誰かが、おまえの持っていた銀の器に毒入りの惚れ薬を入れた人間を、そうとは知らずに見ていたかもしれない」
あ、と彼は思い当たった。
「聞き込みしろってことか?」
「まぁ、すでにシモン様のご命令で、あの場にいた人間に聞き込み調査をやって、なんの手がかりもなかったけどな」
ヴィゴの言葉にがっくりと肩を落とす。
「おまえ、期待させておいて落とすなよ」
「ヘタレじゃないというなら、自力で何とかしようというくらいの意気込みを、見せろと言っているんだ。そもそもおまえが持つ器に、毒入り瓶を入れた犯人をどうして見ていないんだ。おまえの隙を窺っていたはずだろう。あのとき妙な気配を感じなかったのか?」
「あれだけの人ごみだぞ?それにおまえやクレメッティが怪しい手を見たってとき、俺は貴族の奥様に睨まれて謝罪中だったし、他に目を向ける余裕なんてなかったよ。尻を触ったとかって言いがかりをつけられて、ともかく逃げようと……俺は熟女好みじゃないってのに」
「尻を触った?」
「触ってねーよ」
「いや、それはどうでもいい。おまえその話をシモン様にしていなかったんじゃないか?」
「毒を盛った犯人と疑われたうえ、痴漢にまでされてたまるか」
口をへの字に曲げたペッテルだったが、ヴィゴが考えるような素振りを見せたため、気になって眉をあげた。
「犯人が毒入りの惚れ薬を器に紛れ込ませるのは、給仕の誰でも良かったんだろうと思っていたが、貴婦人のことはペッテルを確実に足止めするため?――もしかしておまえ、嵌められたんじゃないか?」
「嵌められた?何で俺が?」
尋ねてみたがヴィゴは難しい顔をしているだけで返事はなかった。
(誰かが俺を恨んでるってことか?)
思い当たったペッテルは顔を顰めた。
「清く正しく生きてきたとは言えないかもしれないけどなぁ、誰かに恨まれるようなことは――……」
だが途中で言葉を途切れさせ、過去を思い起こした。
「なくもない」
呆れた様子のヴィゴが「あるのか」と溜め息を吐いた。
「若気の至りってあるだろ?ちょっと尖がってみたくなるってぇかさ。つってもガキの頃の話だし、同じように尖がってた奴としか喧嘩はしてない」
「王宮に入ってからは?」
「するわけないだろ。いきがってるだけだって気づいたんだ」
俺も大人になったとばかりに胸を張って言ったが、ヴィゴに白けた目で見据えられて、ペッテルはしぶしぶ本音を打ち明けた。
「ペーペーの魔法使いになにができんだよ?それにここは俺みたいな奴がたくさんいるしな」
「鼻をへし折られたのか」
「そういうとこもあった。でも気張らなくて良くなったってのが大きい」
小さな町では、まじないができる程度の魔力ならともかく、強い魔力の持ち主は悪目立ちすることがある。
身に覚えのない悪事を自分のせいにされたことも、一度や二度ではない。
燻る怒りを発散させるために暴れていたとは、当時を振り返ってわかったことだった。
王宮魔法使いとなって王宮へ来たとき、同じように魔力をもつ人間がごろごろいたおかげで、ペッテルは初めてちゃんと息ができたような気がした。
家族は愛してくれていたのだろうが、あの町にまた帰ることになるのかと考えると気が重く、最近気分が塞ぐのに拍車がかかったのも、故郷のことを思い出したからだった。
(誰だよ、俺を恨んでるやつって)
故郷にいる喧嘩相手が今更手出しするとは思い難い。
なによりチンピラのような彼らが、王宮を騒がせるほどの大事件を起こせるとは思えない。
(だとすると俺が王宮魔法使いになってからか?)
もし舞踏会で有無を言わせず犯人とされていたら、今頃ペッテルは処刑されていたかもしれない。
それとも犯人は、処刑は無理でも、王宮魔法使いとしての道を断つくらいはできると、自分の一生を台無しにすることが目的だったのか。
そこまで誰に憎まれているのかと、彼は見えない犯人が恐ろしくなった。
「クレメッティやマーヤと協力して地道に聞き込みをやってる。シモン様のように大規模な捜査はできないが、上には言えないようなことも、俺たちになら言ってくれるかもしれない」
自分のためにヴィゴたちが動いてくれていると知ったペッテルは、胸にこみ上げるものがあった。
そこへ突然、扉を叩くノックの音が響いて、ペッテルとヴィゴは顔を見合わせた。
「ペッテル?いないの?」
声に聞き覚えがある。
もう一度名前を呼びかけられたとき、将来の王太子妃付きの小柄な侍女を思い出した。
「開いてる」
扉の向こうに聞こえるようにと声を張ってそう言うと、すかさず扉が開いて、スカートの裾を翻すほどの勢いでドリスが近寄ってきた。
「いるならさっさと返事をして。あなたに差し入れよ」
「お、おう、悪いな」
「ええ本当に悪いわね。あなたにあげるのはとても癪だわ。どうして渡さなきゃいけないのかしら」
「いや渡したくないなら別にいいし……てか顔近い」
「別にいい?まさかいらないと言うわけ?この痴れ者が。これはあなたにはとんでもなくもったいものなのよ。本来ならひれ伏して額を地に擦りつけて賜るものなんだから。喜びに打ち震えて涙なさい。額づいて百万回感謝の言葉を述べなさい。「コマリ様、わたしは一生あなた様の下僕となります」と」
「なんで下僕宣言すんだよ――ってか差し入れってコマリ様からか?なんか甘くていい匂いがする」
くんくんと鼻を鳴らすペッテルに、ドリスは苛々とした様子で指を突きつけた。
「コマリ様からのクッキーを椅子に座って受け取るとは何事かしら。頭が高い。そこへ直るのよ」
マーヤと仲がよいドリスのことは以前から知っていたが、常々変わった女だとペッテルは思っていた。
女の中でも特に可愛い系の女に優しく、親友のはずのマーヤにも、時おりおかしな目を向けている。
「もしかしてドリスって同性にしか興味がないっていう?」
「いいえ、可愛い女の子が好きなだけで恋愛対象ではないわ。そこはちゃんと男性に向いてるけれど、恋愛対象以外の男はどうでもいいの。でもいまは、わたしの愛するコマリ様から手作りのクッキーをもらうあなたに、嫉妬の炎を燃え上がらせているわ。ゴウゴウとね」
「コマリ様の手作り?マジで?」
信じられなくて尋ねると、突きつけられていた人差し指で額を強くつつかれた。
「あなたが落ち込んでいると聞いてわざわざ作ってくださったのよ。なんて羨ましい。なのにマーヤから聞いていた最近のあなたったら。それを考えてたらここに来るまで怒りがふつふつと湧き上がって、コマリ様からと明かさないよう言われていたのに我慢できなかったわ――いい、ペッテル。コマリ様はあなたが犯人とは思っていないわ。コマリ様が信じてらっしゃるのに何を落ち込むの?しかも可愛いマーヤまで心配させて部屋でじめじめと。このまま王宮を去るのが嫌ならあなた自身も動いたらどう!?」
先ほど友の思いに心を打たれたばかりのペッテルは、また胸が熱くなってくるのを感じた。
「ヴィゴにも似た様な事を言われたばっかだ」
ペッテルがヴィゴを見てこう言うと、いま気づいたとばかりにドリスもヴィゴへ目を向けた。
「俺、今回のことで人生終わったって感じてたけど――なんかすごく力が湧いてきた」
「こんなことで終わらせる阿呆がどこにいる」
「同感だわ」
ドリスが手にした籠をペッテルに押し付けると、「痴れ者が」ともう一度言って、入ってきたときと同じように勢いよく出て行った。
「台風女」
「ドリスなりの励まし方じゃないのか?おかげで元気が出たじゃないか」
「嫉妬心燃え上がらせて怒られただけって気もするけどな。でもま、クッキーを持ってきてくれたし。コマリ様がじきじきに作ってくれたって……なあコレ、すっげーことだよな」
「黙ってろよ。コマリ様のお立場を悪くする」
「わぁってるよ。俺もそこまで馬鹿じゃない」
以前トーケル様が差し入れてくれたワインも、本当はシモン様からのものだった。
実はな、と教えられたあのとき、どれほど励まされたことだろう。
(たった一度、ともに食事をしただけの俺をお二人は信じてくれるのか)
もしもこの身の潔白が証明され王宮に残れたなら、二人のために真心を込めて王宮魔法使いを務めよう。
「今までなんとなく王宮にいたけど、俺、ここに残りたいわ。で、シモン様とコマリ様をお助けしたい」
手にした籠を見つめるペッテルに目を向けていたヴィゴが窓枠から腰を上げた。
「そろそろ俺も仕事に戻る」
ヴィゴが部屋を去ってしまうと、部屋の中がしんと静まりかえった。
これまでは一人きりを感じさせる静けさが心を蝕んだが今日は違った。
ペッテルは差し入れのクッキーを一枚頬張る。
何を燻っていたのだろう。
信じてくれる仲間がいる。
なによりシモン様とコマリ様が、新人魔法使いでしかない自分を気遣ってくれている。
これほど心強いことがあるだろうか。
「うま……」
瞳に滲んでくる涙を、ぱん、と頬を叩き喝を入れてとめた。
窓から吹き込んだ風が彼の頬を撫でた。
軽やかな羽音が聞こえてペッテルは窓の外を見る。
大樹から小鳥が飛び去って消えていた。