アルバム
裕太のワンルームマンションを去る前に、小鞠はシモンと共にゼミ友達の裕太、雅紀、拓斗へ別れを告げた。
「今日まで世話になった」
「いろいろとありがとう」
「いやー、こっちこそ部屋ん中綺麗になってっし。掃除してくれてラッキーつうか。あんがとな」
裕太がシモンと小鞠に礼を言ってくる。
「これでやっと裕太が出てくか。ほんっとおまえってずぼらだし、俺、おまえの世話焼き母ちゃんかって何度思ったか」
拓斗のせいせいするとばかりの様子に皆が笑った。
「悪ぃ、シモン。俺らおまえと違って餞別になんか贈るってのできそうにねぇわ。ガラじゃねぇし」
雅紀の言葉に拓斗と裕太もそれぞれに同意して頷いた。
「短い間であっても忘れがたき思い出を得られた。それだけでいい」
そう言ってシモンが差し出す右手を彼らが順に握り返すと、その一人ひとりの肩をシモンは引き寄せた。
「会えなくともかけがえのない友と思う」
「まぁたおまえはそういうクサイ台詞を」
「うわ、ダメだ俺こういうの弱い」
「明るく「じゃーなぁ」でいいんだよ、シモン」
苦笑いの雅紀とほろりと涙ぐむ拓斗の間で、裕太がシモンの頭を軽くはたく。
それを見た雅紀と拓斗もじゃれるように金色の髪をぐしゃぐしゃと混ぜ返し、全員が笑顔になって笑った。
最後に「元気で」と言い合って、表まで見送ってくれた三人との別れを済ませる。
「このままコマリの部屋へ行ってよいのか?」
「うん」
しんみりと別れの余韻に浸っているのかと思えば、意外に声がしっかりとしていて小鞠は思わずシモンを見つめた。
「どうした?」
「もっとこうお別れしたあとってしんみりしてるんじゃないかと」
「普通はそうなのだろうな。だが彼らはどこまでも普通で、まるで日常の一つのように別れも受け入れていた――三人を見ていたらわたしもそれでいい気がしたのだ。もしいつか彼らに会うことがあったなら、きっと今日と同じに普通に迎えてくれるのだろう。そういう「普通」が彼らの優しさなのだと思う。ちゃんと別れを告げるようコマリが言った意味がわかった気がする。何も言わずに三人と会えなくなっていたら、きっと心のどこかに後悔が残っていただろう。ありがとう、コマリ」
「え?わたしは別に何もしてないよ」
「そんなことはない。コマリは浅慮なわたしをいつも導いてくれているのだ。わたしと違いとても思慮深い女性だと尊敬している」
当たり前に繋ぐようになった手を優しく握られ、小鞠は困って返事をしかねてしまった。
(シモンの目ってやっぱり曇ってる)
ぐずぐずといつまでの決められないのろまな自分を、思慮深いと称するのはきっとシモンぐらいだ。
「過大評価は現実を知ったとき大きなダメージを受けると思う」
「過大評価ではないぞ。コマリは機知にとんだ才女であるし、心優しく慈愛に満ちた聖女であるし、強さと柔軟さをあわせ持つ乙女だ。なによりこれほど美しく、可愛らしい女性をわたしは知らない」
「愛魂マジックにかかってる人には無駄だとわかっててあえて言うけど。シモンの目は節穴を通りこして風穴でも空いてるんじゃないですか?目が曇ってるなんて可愛いもんじゃなくて濁りきってると思いますけど」
さすがに一度に才女だ、聖女だ、乙女だと言われると嘘くさくて、照れるより冷静になってしまう。
そんな心境を表すように小鞠が敬語でさっくり切り捨てると、シモンは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてコマリはそこまで自分をわかっていないのだろうか?少し謙虚すぎるのだな。そういえばキクオが謙虚さは日本人の美徳だと言っていたか。ならばこれは国民性?ふむ、幼き頃よりそう教えられて育つのであればこれも仕方のないことか」
一人納得しているシモンの隣で彼女はもう突っ込むのも諦めた。
唯一つ気がかりがあるとすれば。
(イケメン王子の相手がわたしって、カッレラ王国の皆さんをがっかりさせることがヤダなぁ。ジゼルほどじゃないにしてももうちょっと……ええ、贅沢はいいません)
瞳を縁取る睫はシモンみたくバサバサで、高い鼻とふっくらとした唇、それに薔薇色の頬、あとはめりはりボディとか。
「ありえないって……現実を見ろ、わたし」
ゲイリーさんに10代と思われるほどの東洋人的顔立ちですからね。
身長も体重も胸もお尻もすべて、どこまでも標準的日本人サイズですよ。
俯く小鞠は頭にフワとシモンの掌を感じて顔をあげた。
「すまない。キクオの名を出して彼らとの別れを思い出させてしまったか?」
「ううん。マスターと冠奈さんとも笑ってお別れしようね、シモン」
「そのときはいくらでも胸を貸す」
「それ、泣く前提じゃない」
「コマリは涙もろいと最近になってわかったのだ。時おり瞳が潤んでいるように見えたのは気のせいではなかった。さっきも、それに昨日も、幾度となく目を潤ませていただろう?だから泣くときはわたしの胸でと言ったのだ」
「そ、そんなに泣いてばっかりじゃないもん」
「何も恥じることはないのではないか?情に厚く優しいコマリらしいとわたしは思う。それに涙目のコマリは悶絶しそうなほどに可愛らしい」
そう言ったシモンがいきなり身を屈めて、うちゅ、と小鞠の頬にキスをした。
「さっきはマサキたちの前なので我慢していたのだ。本当は唇にしたいが明るく人目につく今は、頬の方がコマリを困らせないだろう。わたしも随分とコマリのことがわかるようになってきたな」
なに得意げにうんうん頷いてるんですか。
白昼堂々のキスは口だろうとほっぺだろうと、どこにされても恥ずかしいわっ!
胸中でつっこみながら唇が触れた頬を撫でていた小鞠は、口元が緩んできたため慌てて表情を引き締めた。
ダメだ、シモンに毒されてきてる……。
マンションに着いたのは正午まで一時間弱といった頃だった。
ダイニングテーブルに小鞠はカバンから出したそれを置く。
菊雄と冠奈の名を記したマチつきの封筒内に、二人に宛てた手紙と、全財産、他に印鑑や書類などが入っていた。
封筒の上にこのマンションの鍵を、一ヶ月前に数本作ったスペアキーも含め乗せた。
マンションのことは母の死の際、相続のことで世話になった弁護士に任せた。
売却しその金は菊雄と冠奈に渡るようにと。
おそらく税金などややこしいことがあるだろう。
そのあたりも含め二人への手紙にすべて記してある。
昨夜小鞠が菊雄たちに渡せなかったのはこれだった。
「これでよし。あーいままで持ったこともない大金がカバンにあったから緊張した」
携帯から魔法石を外してズボンのポケットにしまい、携帯はカバンへ戻して封筒の横に置く。
シモンは肩にかけていたクーリエバッグを探り、「あ」と洩らして青空色の封筒を取り出した。
「なぁに、それ?」
「いや、もう必要のないものだ。処分するのを忘れていた」
ぐい、とジーンズの尻ポケットに押し込みシモンが首を振る。
「コマリは何か持っていきたいものはないのか?」
「え?魔法使いさんたちは身一つでって言ってたんじゃなかった?」
「大切な思い出の品があるのならば良いと思う。わたしはコマリにもらった服はすべて、カッレラに戻っても大切に保管するつもりだ」
そういえば6日前もシモンやテディやオロフは、スーパーで買った服を着てたっけ。
いいのかな、とシモンを見上げれば微笑んで後押ししてくれた。
「えと、じゃあ。ちょっと部屋に行ってくる」
リビングにシモンを残し部屋に入った小鞠は、床に置かれたままのジゼルの荷物に気づいた。
ファスナーの開いたそこに彼女のアルバムが見えた。
「あ、写真ってどうだろ」
あまり大きなものを持っていくのは、やっぱりカッレラ王国の魔法使いや神官たちに負担を掛けるかもしれない。
閃いた小鞠はアルバムを引っ張り出し両親と三人で映った写真と、菊雄と冠奈と三人で映った写真を抜き取った。
それから少し考えジゼルのアルバムからも写真を抜き取ると室内を見回す。
机上に桜色のレターセットを見つけたときインターフォンが鳴った。
(マスターと冠奈さんかも)
ついレターセットも手にして小鞠は自室をあとにすると玄関に向かった。
「キクオとカンナのようだ」
リビングから出てきたシモンを振り返ると、彼はコマリの手にある写真に気づき、直後にハッと顔色を変えた。
「なんだその愛らしい少女の頃のコマリは!」
「え?中学の入学式のときの写真だけど……お父さんとお母さんとで映ってる一番最近の写真だから」
「ということは他にもあるのか!?」
「アルバム――んと、写真を纏めた冊子があるから」
「コマリっ、「あるばむ」はすべて持っていこう!」
「それよりマスターと冠奈さんを」
「二人はわたしが招きいれる。コマリ、さ、早く「あるばむ」を」
肩に手をかけたシモンにくり、と180度回転させられた小鞠は、追い立てられるように自室に戻る。
(三冊あるけど、シモンがいいって言うんだしいっか……もうこうなったらジゼルのも持っていこう)
アルバムとレターセットを抱えてリビングに入ると、シモンに案内された菊雄と冠奈が振り返った。
「何を持ってきたんだ?アルバム?」
「異世界に持っていくの?」
「シモンが持ってっていいって言うから」
よいしょと床にアルバムを置いた小鞠は、裕太の部屋に居候していたときに持って行った大きなカバンの中身を放り出すとアルバムを入れた。
「コマリ、これも持ってゆく」
シモンが差し出したのは小鞠が彼のためにと選んだ、子供向けの手習い冊子だった。
それと一緒に彼女が着替え用にとシモンに買った衣類も渡される。
なぜかテディとオロフに買った替えの分の服まであるんですけど。
「これ全部?ひらがなやカタカナならわたしが――」
「服も書物もコマリがわたしのためにとくれたものだ。持ってゆく。テディとオロフにもコマリから与えられた服は家宝にせよと言うつもりだ」
「スーパーで買った服なんだけど」
こんなのが家宝ってありえませんから。
服や冊子をカバンに入れてファスナーを閉めた彼は、抜き取られるのを心配するようにカバンを離そうともしない。
「もー、誰も取らないってば。子どもみたいなことしないで」
呆れ顔を向けると、側で冠奈がくすくすと笑った。
「仲良くやっていけそうでよかったわ」
「旅立つ準備は前もってしておくものだろうが――それにしてもでかいベッドだな。あとはテーブルセットに飾り棚か。ん?家具はすべて色ガラスで模様を描いてるのか?手が込んでるな」
狭いスペースを縫って飾り棚に近づく菊雄と冠奈は、そこに並ぶ彫刻や置物を眺める。
「模様飾りは玻璃ではなく天然石だ。木材はフェルトの森にあるボジェクという木を使用している。二人がいま見ているその置物は大理せ――」
「いや、もういい。おまえが持ってきたっていう家具は、なんだかとてつもなく高価なもんばかりだってことはわかった。天然石ってことは宝石をはめこんでるのか?……いったいこれをどう処分しろと」
菊雄の呟きに冠奈が「うちで使う?」と苦笑を浮かべつつ言うあたり、彼女も戸惑っているのだろう。
「使ってくれた方がありがたい。フェルトの森は別名、精霊の森とも言われていて、そこで育った樹木を使って作ったものは、普通の倍以上も長持ちすると言われている。少々のことでは傷もつかないしな」
「まぁ、精霊がいるの?やっぱりシモンさんの国は素敵な国ねぇ」
メルヘン好きな冠奈がうふふと楽しそうなのを見て菊雄が疲れたような吐息をもらした。
それからシモンに近づき、手にしていた小さな紙袋を差し出す。
「やる」
「え?6日前にも餞別と言ってマフラーとコーヒー豆をもらったが」
「これはおまえと小鞠にだ。こんな贅沢品に囲まれてるおまえにはたいしたもんじゃないだろうが、俺と冠奈からの親心だと思って受け取ってくれ」
「とーってもいい物だけど何かは小鞠ちゃんには内緒。時期がきたらシモンさんから渡してもらうから」
「時期って?」
「だから内緒。シモンさん、メッセージカードに時期がいつか書いてあるからちゃんと守ってね」
受け取った紙袋を見つめていたシモンは、隣から小鞠が袋の中を覗き込もうとしたとたん、それをカバンに隠してしまった。
「あっ!ちょっと見るくらいいいじゃない」
「駄目だ。義父と義母の願いは絶対だ。いくらコマリの頼みでもこれだけはきけない」
「けち」
「なんと言われても駄目なのだ」
むぅとシモンを見上げていた小鞠だがすぐに表情を崩して「しょーがない」と諦めた。
なによりシモンが二人のことを「義父と義母」と思ってくれているのが嬉しかった。
そこへ突然リィンという軽やかなベルの音が聞こえた気がして、彼女は思わず回りを見回していた。
また音が鳴る。
(ああ、時間なんだ)
シモンの視線を感じた小鞠はベルが頭の中で鳴っていたと気づいた。
魔法使いと神官の力を温存するために、ベル音の後は連絡を取りあうことはせず、すぐにカッレラ王国で帰還魔法にとりかかることになっている。
「時間がきたようだ」
シモンが菊雄たちにそう告げながら、用意していた靴を履くと床に小鞠の鏡を置いた。
彼に倣い小鞠も履きなれた靴を履く。
しばらくすれば魔法陣が現れる。
それはどれほどの時間だっただろうか。
「この一ヶ月、二人には迷惑をかけたと思う。それなのに嫌な顔一つせずわたしを受け入れてくれたことが嬉しかった。ありがとう」
「もっとおまえと話がしたかったよ、シモン。小鞠を頼んだぞ」
菊雄はシモンとコマリの手を掴むと、バトンタッチするようにシモンに彼女の手を握らせた。
「小鞠、この手を信じろ。そしておまえも、どんなときでも最後までシモンの味方でいてやれ」
「はい」
頷く小鞠の頭を菊雄は引き寄せる。
それからシモンのことも。
「おまえたち二人の味方はここにいる。忘れるな」
堪えようとしたはずの涙がその瞬間溢れてしまった。
ボロボロと床に落ちていく涙に冠奈が気づいたのか、「あらあら」と小鞠の顔を引き寄せ頬を拭う。
「小鞠ちゃんはこれから幸せに向かっていくのよ。大好きな人とずっと一緒にいられるの。遠い国に行っちゃうのは寂しいかもしれないけれど大丈夫。心は異世界なんて関係なく飛び越えていけるから」
冠奈は小鞠だけでなくシモンの頬にも触れて微笑んだ。
「シモンさんの魂が小鞠ちゃんと引き合うのと同じで心だってきっと繋がれる。だから会いに行くわ。心だけでも二人に。そのときは仲良く迎えてちょうだいね」
冠奈も菊雄のようにぎゅっと二人を抱きしめ頭を撫でてくれた。
優しいぬくもりに余計に涙が止まらなかったけれど、小鞠は必死に首を縦に振った。
パァと鏡から光があふれ出し宙に魔法陣が形作られた。
奥行きのない丸いそれは内側に太陽と月と星が重なって描かれ、文字が記された二重の円が右回りと左回りに回る。
魔法陣の輝きがどんどん増していき室内を明るく照らした。
シモンが繋いだままだった小鞠の手を引き寄せる。
一度彼を見上げ、小鞠は菊雄と冠奈に目を向けて涙を拭った。
「きょ、今日までありがとう。本当の、お父さんとお母さんみたいだった。大好き」
嗚咽で喉が詰まるのを何とか堪え、彼女は精一杯の笑顔を浮かべる。
涙でよく見えないけれど二人も笑ってくれているとわかった。
「わたしたちも娘と思ってるわ」
「幸せになれ」
「はい。――いってきます」
シモンと二人、魔法陣に足を入れたとき、背後から菊雄と冠奈の声が聞こえた。
「いってこい」
「いってらっしゃぃ」
魔法陣の奥へ引き込まれたような気がして、冠奈の声が一気に遠くなった。
たった数歩前に進んだだけで目の前の景色が一変する。
小鞠が振り返れば魔法陣の輝きが一気にしぼんで、光が空気に溶け込むように消えるところだった。
こんなにあっけなく、一瞬で異世界に来てしまうのか。
「う~~~……」
「コマリ、我慢しなくとも良い。胸なら貸すと言ったはずだぞ」
珍しく強引にシモンが小鞠を胸に抱いた。
彼の服を握り締めたときには嗚咽が洩れていた。
「っ………うぇ、えっ」
髪にキスを落としてシモンが優しく背中を撫でてくる。
「ここでは落ち着かぬから移動するがコマリはこのままわたしに抱きついておいで」
そう言った彼が尻に腕を回し彼女を持ち上げた。
言われたように小鞠はシモンに抱きついて肩に瞼を押し付ける。
「うっく……うっ、え、えっ」
泣きじゃくる小鞠の頭部を撫でたシモンが歩き出すと同時にテディを呼んだ。
「わたしとコマリの部屋の用意は?」
「万事整っております」
「そうか、ご苦労。皆も心労と世話をかけた。その謝罪はあとでするが、いましばらくはコマリと二人にしてほしい。テディ、先に来たスミトたちにも後ほど会いに行くと伝えてくれ。客室の……それぞれどの部屋にいる?」
「客室ではなく、三人は魔法使い塔にて精霊モアに監視されております」
「監視だと?なぜそのようなことになっているのだ。彼らに監視は必要ない。いますぐ謝罪し客室へ通してもてなすように。グンネル、疲れているところを悪いがテディと共にスミトたちの元へ行き、モアの監視をやめさせるのだ。リクハルドとトーケルも動けるな?ではわたしたちに目晦ましの魔法と、ここから部屋までの間、人避けの魔法を頼む。このようにコマリが泣いていては何事があったのかと周りに思わせてしまうからな。オロフ、この荷を持って共に来い。わたしは両手が塞がってしまう。何かあったときはおまえが対処してくれ」
てきぱきとしたシモンの声も返事をする臣たちの声も、小鞠の耳を素通りしていく。
いまどういう状況なのかと気にする余裕もなかった。
ただすがるようにシモンに強く抱きついて彼の肩に涙をこぼし続けた。