書いた手紙 書けない手紙
もう夜中になろうかという時分。
ダイニングテーブルについたシモンは、最後の一文を書きあげ吐息と共に顔をあげた。
手紙を綴った便箋の横には子ども向けの日本語用手習い本がある。
簡単な単語が載っているものだ。
しかしこれはあくまで文字を習い始めた子ども用なのだ。
「あ」なら「あり」、「い」なら「いえ」というような、手紙に使えないような言葉ばかり例として挙げられていた。
そのためスミトに力を借りたシモンだ。
「はい、お疲れさん。こっちまで力の入る書き方やったわ」
シモンが伝えた言葉をスミトがひらがなにして紙に書いてくれたのを、なんとか真似て書くこと数十分。
首飾りをつけ自身の書いた手紙に目を通しながら、シモンはスミトの言葉に軽く相槌を打つも、意識は手紙に向いていた。
(これでいけそうだ)
確認し終えた手紙の最後に、少し迷ったがカッレラの文字で「シモン・エルヴァスティ」と書き込んだ。
それを丁寧に折りたたみ封筒へ入れると隣に座るスミトに質問する。
「こちらでは封蝋はしないものか?」
「封蝋はせぇへんなぁ。糊つけといたらええんちゃう?」
「のり?」
「粘着剤のことや。にかわや漆喰とか?シモン君らの国で物くっつけるのに使わん?こっちじゃ紙くっつけんのを糊っちゅうねん」
「ああなるほど」
「あ、そういや冷蔵庫に今晩残ったご飯冷やしとったな。あれでええわ」
冷蔵庫から器に入った白い飯を出したスミトが、「ほい」とシモンの目の前に置いた。
「これをどう使う?」
米という食材を炊き上げたもので、シモンはこちらの世界にきて初めて食した。
カッレラにはない食材だろうと思う。
「えーとだから、くっつけたい部分に米粒を……――封筒借りんで」
白い米を潰すように封筒に押し付け、スミトが紙を接着したのを見たシモンは、わずかに目を見開いた。
「すごいな。米というのは食べるだけではないのか」
「デンプン糊っちゅうやつや。小麦粉もデンプンやし、水に溶いて火にかけて、水分飛ばしたら糊できんで――ってあれ?封筒二つあるやん」
「ああ、それはコマリに宛てたものだ」
「ボク、お手本書いてないけど?」
「わたしが覚えている日本語だけで書けた」
コマリ宛の封筒にシモン自ら米粒を塗り広げ封をしていると、スミトが最初に封をした封筒を手に、再び彼の隣の椅子へと腰を降ろした。
「そうなんや。にしても……シモン君は小鞠ちゃんと別れてしもてええんか?」
「コマリにその気がない以上、無理強いはできない。コマリを振り向かせることができなかったわたしが不甲斐ないだけだ」
「小鞠ちゃん、シモン君のこと嫌てるわけやないと思うで。たぶん異世界に行くことを怖がってるんやと――」
「いいのだスミト。わたしはコマリが出した結論に従うと決めている。心配をかけてすまないな」
シモンがスミトに向かって笑顔を向けると、しばらくあって彼にも笑顔が浮かんだ。
「なんや、一杯飲みたい気分やなぁ」
「わたしもだ。だがここには酒はないからな。カッレラに戻ったらつきあってくれ」
「ええよ、なんぼでも」
ほんわりしたスミトの笑みに慰められている気がした。
シモンはテーブルから室内を見回す。
天井の明かり玉や空間の歪みは正すとしても、魔法使いたちの負担を考えれば、家具類は置いていくしかないだろう。
(処分をコマリにまかせることになるな)
迷惑をかけずに立ち去りたいと思っていたが、このくらいは許してくれるだろうか。
それからしばらくあって部屋の明かりが消えた。
* * *
自室に戻って静かに扉を閉めた小鞠はその時になってやっと息を吐いた。
廊下では思わず息を止めてしまっていたらしい。
――シモン君は小鞠ちゃんと別れてしもてええんか?
トイレを出てすぐ聞こえてきた声に足が止まっていた。
そう広くもないマンションだ。
防音設備が行き届いているわけもないし、壁だって厚くない。
扉をきっちり閉めていても近くにいれば声だって聞こえる。
すぐにこの場を立ち去らなくてはと思ったが、小鞠の足は根が生えたように動かなかった。
――わたしはコマリが出した結論に従うと決めている……心配をかけてすまないな。
あの言葉を聞いてなぜかショックを受けている自分がいた。
動かなかったはずの足が無意識に動いて、すぐにあの場を離れたほど。
シモンはもう自分がカッレラ王国に行かないことを受け入れていた。
それはつまり、別れを受け入れているということだ。
(なんでこんなに落ち込むの?カッレラへ強引に連れて行ってほしいとでもいうわけ?)
それともシモンにはもっと自分を欲してほしいと……?
(なにそれ、すっごい自分勝手)
内心自分を自嘲したところで、
「コマリ?なにボーっと突っ立ってるの?」
荷物の整理をしていたはずのジゼルが顔をあげてこちらを見ていた。
荷物は彼女がここに来た次の日に、澄人とオロフで部屋まで取りに行ったらしい。
小鞠とシモンが公園でゲイリーに対峙したとき、護符の使用後すぐに二人が現れたのはちょうど帰宅途中だったからだ。
「ああうん、ちょっと……」
「シモンに書く手紙の内容を考えてた?」
ん?とばかりに視線で机を示され、今日買ったばかりの便箋を用意していたのを小鞠は思い出した。
「ずーっと机に向かってるわりには真っ白みたいね」
「それは友達への手紙でシモンにじゃないし……っていうか見たの?」
「何か書いてあったとしてもわたし、日本語読めないから」
下手な言い訳をした小鞠は机にあったレターセットとペンを片付け、ごそごそとベッドに潜り込む。
どうせ何も書けなかったのだしもう寝てしまおう。
「先に寝るね」
「素直にならないと後悔するわよ」
布団に丸まって背中を向けると背後で溜め息が聞こえた。
「明るくても眠れる?」
「うん」
どうせ眠れやしないのだ、と半ばやけっぱちに小鞠は頷く。
「そ」とジゼルの声がして、すぐに荷物の入ったカバンを探る音が聞こえ始めた。
しばらく彼女に背を向けたまま目を瞑っていた小鞠だが、パラと何かをめくる音に気づいて振り返った。
「アルバム?」
「ん?ああ、懐かしくてついね」
思わずベッドから起きてジゼルの手にしたアルバムを覗き込むと、少し古ぼけた写真にジゼルと同じ瞳の色をした美しい女性と赤ん坊が写っていた。
「これってジゼルとお母さん?」
「そう。美人でしょ~、わたしのママ。すっごくモテたのよ?なのになんで奥さんのいるパパを選んだのかずっと疑問だった。優しい人だってママは言ってたけど、ママの葬儀にも仕事だからって顔を出さなかったのよ?どこが優しいのって話よね。――でも……本当に好きだったみたいなの、パパのこと。子どもの時は理解できなかったけど、スミトに出会った今なら、ママの気持ちがちょっとだけわかるような気がするわ」
言いながらジゼルは写真の母親を愛しげに撫ぜた。
「好きになったらもうどうしようもないのよね」
だからってわたしは愛人なんてごめんだけど、と彼女は苦く笑って今度は写真の母親を指で軽く弾く。
好きになったら、というジゼルの言葉が耳に残りコマリは写真に見入ってしまった。
ジゼルの母の微笑みは眩しく彼女の目に映る。
「ジゼルのお母さんは幸せそうだった?――あ、ごめんね、いきなり。でも……」
「いいわよ。なんとなくコマリの尋ねたいことがわかるし。妻のいる男の愛人になって子どもも生んで――シングルマザーの苦労とか世間の目とか考えなかったのかってことでしょ?異世界に行って王妃になったら、それこそ半端なく周囲の目が向けられるし、いろいろと苦労しそうだもんね」
「だからわたしは行かないってば」
「両想いの奇跡を手にしたら逃しちゃだめ!」
突然のジゼルの強い口調にドキとした。
「……ってこれね、ママの言葉。ママはパパと結婚できなかったけど、二人でいるときはすごく幸せそうだったわ。パパが帰ったあと、寂しくないのってママに聞いたことがあるの。その時に言われた。ママは自分のしてることが世間的にどう見られるかちゃんとわかってたと思う。それでもこういう言葉をわたしに言うくらいパパのこと愛してるんだって……そう感じた。わたしにはママの選んだ道はやっぱり理解しがたかったけれど、誰かを一途に愛する気持ちは素直に素敵だって思えたわ。そんなママを見て育ったからわたしもスミトに一直線なのかしら」
ふふ、とジゼルは小鞠を見て微笑んだ。
そんな彼女に一瞬笑顔を返した小鞠だったが。
「あのね。ジゼル、この前わたしに寂しかったのねって言ったでしょ?」
「初めて会った日のこと?」
「そう――あれ、きっと当たってるの。自分で気にしないようにしてたけど、本当はずっと寂しかったんだと思う」
思い切って本音を打ち明けた。
「そんなわたしの元にシモンたちがやってきて、ジゼルや澄人さんまで一緒に暮らすことになって……今までが嘘みたいに賑やかですごく楽しい。異世界に行けばまたみんなといられる。シモンと離れなくてすむ。そんなことを思ったけど――」
「うん」
「わたし逃げたくないの。今まで頑張ってきた自分から。お父さんが死んでお母さんがいなくなって、一人でやってけるんだろうかって怖かったけど、ずっと頑張ってきたんだもん。頑張っていっぱい乗り越えてきたんだもん。就職先だって何社も落ちてやっと……」
感情が昂って目の前がぼやけてくる。
小鞠は涙を拭うこともせずとまらない気持ちを吐露し続けた。
「シモンのことが好き。でもこれまでの自分も捨てられないの。なんでシモンは異世界の人なんだろとか、もう決めたはずなのにどうしてわたしはまだ迷ってるんだろとか……他にもいっぱい――頭ぐちゃぐちゃで……でも答えはでなくて……――苦しい」
うー、と嗚咽を噛み殺す小鞠は、自分の膝に落ちていく涙を見つめる。
(泣かないって決めたのに)
こんなことを言ってもジゼルを困らせるだけだ。
「そっか。考えすぎて動けなくなっちゃったか。わたしが言えるのは……そうね――寂しさは一人じゃ埋められない、ってことかな。何かに打ち込んで忘れられても側にある温もりにはかなわないでしょう?」
優しい声音に顔をあげると紫の瞳がすぐ側にあった。
「わたし、コマリのような子って好きよ。真面目で不器用で見てるとつい応援したくなっちゃう。コマリからすればいろいろうざかったでしょううけど」
フルフルと小鞠は首を振った。
そんな彼女を見てジゼルは笑った。
「両想いの奇跡は必ずしも幸せを約束してくれるわけじゃないけれど、少なくとも幸せへの切符は手にしているんだと思うわ。コマリがそれを捨てようとしているのは、幸せから逃げているともとれない?」
ジゼルの言葉は小鞠を目から鱗が落ちたような気にさせた。
(幸せから逃げて?)
――いるのだろうか。
「自分の一生のことだもの。思う存分悩んでいいじゃない。でもね、コマリ。一人に慣れちゃだめ」
最後の言葉に涙腺が壊れてしまった。
胸の深いところにそれは落ちて、涙が後から後から流れてどうしようもなく、小鞠はジゼルに抱きついた。
そんな彼女を受け止めるようにジゼルの手が頭にまわされた。