あなたとの時間
どうしてあんな約束をしてしまったのだろう。
自室でスタンドの明かりを頼りに、ノートパソコンに向かっていた小鞠から、キーボードを打つ手が自然と止まっていた。
今日のバイトからの帰り道、何度涙が零れてしまうと思ったか。
何時に異世界へ帰るだとか、気持ちの確認だとか、そのたびにシモンに向かって心にもない言葉を吐き、嘘をついた。
3日後、日付が変わると同時にシモンが異世界へ帰るなら、もう明日、明後日しか彼はここにいない。
シモンへの気持ちを自覚してから、彼の笑顔を見るたび、優しくされるたび、別れに対する辛さが増していった。
一日、一日とシモンが去る日をカウントしてしまい、二度と会えなくなるのだという思いに胸が潰れそうになって、うまく話せずにいるうちに彼を見ることもできなくなった。
自分でもあんまりな態度だとわかっている。
いいかげんシモンにも愛想をつかされると思うと怖くて余計に逃げてしまい、これでは悪循環だと自己嫌悪に陥ったのに。
――二人で出かけないか?……コマリとの思い出がほしい。
離れたくないと思っているのを彼に見透かされ、動転してひどい言葉を言った後だった。
いくら温和なシモンでも怒るだろうとビクついていたけれど、あの言葉で、まだシモンは自分に歩み寄ろうとしてくれているとわかった。
嬉しくて、同時に切なくて、今度こそ涙が溢れそうになったため、歯を食いしばって堪えた。
誘いは断るべきだとそうするつもりでいた。
けれど……。
気がつけば「いつ」と問うている自分がいた。
(シモンは出かけるところはどこでもいいって言ったし、だったらいつものようにバイトとか……そうよ、日曜日は稼ぎ時だってシモンにも言ってあるし――)
シモンが渋れば「どこでもいい」と言ったことを盾に押し通そう。
卑怯だとしても、彼との楽しい思い出を作ればいま以上に別れたくなくなってしまう。
「まだ眠らないの、コマリ?」
小鞠の思考を破るように背後からジゼルの声がした。
寝ぼけた小鞠は無防備すぎるとシモンが自室で休むよう強く勧めたため、澄人に半裸を見られた事件からジゼルと休んでいる。
こんなふうにシモンと気まずくなってしまった今となっては丁度良かった。
振り返ると床に敷いた布団からジゼルが起き上がるところだった。
「ごめん、ジゼル。眩しくて寝れない?」
堅苦しい言葉は嫌いというジゼルとは二歳違いなだけだった。
もっと年が上かと思っていただけに親しみがわいて、タメ口に変えるのも抵抗はなかったけれど。
「それはいいの。そうじゃなくて――レポートを書くってわりに手が止まってるみたいだし……昨日も一昨日もときどきそんな感じだった。で、何かを振り払うように熱中してレポートを書き出したり……もうずっとそんな調子であまり寝ていないでしょう?」
「えっと、どういうふうに論文をまとめたらいいかなって考えてたら手が止まって――」
「心ここにあらずって感じでボーっとしたり、何度もリビングの方を見つめたりして?」
「そ、れは……」
言葉に詰まる小鞠にジゼルは小さく吐息をもらした。
「スミトにも止められてたし我慢してたけどもう限界。コマリ、あなたこのままでいいの?」
「何の話?――えーっと……根をつめるとよくないよね。やっぱりもう寝る」
パソコンに向き直りデータを保存してファイルを閉じた小鞠は、画面にある、いま閉じたばかりの「卒論」というファイル名に一瞬目をとめ、すぐにシャットダウンした。
(いきなり卒論に力入れて何やってんだろ、わたし)
来年に教授に提出すればいいはずで、けれど余裕を持ちたくて年内には終わらせようと、資料を集めて書き始めてはいたけれど。
(何かに熱中したいのかな……現実逃避?……――あーーー!ホントもう頭ん中ぐちゃぐちゃっ)
電源が落ちて暗くなった画面を溜め息と共に閉じた小鞠は、スタンドの明かりを消す前にベッドまでの通り道を確認しようとして、まだジゼルが半身を起こしていることに気づいた。
「電気消すね」
物言いたげなジゼルの紫の瞳を避けるように、小鞠は携帯電話を手に明かりを消した。
ベッドに入ってもそもそと布団をかぶると、側でジゼルも横になったのがわかった。
(携帯の目覚まし……ん、オッケ)
枕元に携帯を置いたところで、またジゼルの声がした。
「最後までシモンへの気持ちを隠し通すつもりなの?自覚、したんでしょう?」
「…………」
「こっちの世界に未練があるの?それとも未知の世界へ行くのが怖い?」
「シモンがいればどこだって平気って飛び込んでいけないから、きっとわたしはそこまでシモンのことを好きじゃないと思う」
沈黙していたら質問攻め攻撃を受けそうで小鞠はそう答える。
彼女の返答にジゼルが寝返りを打つ音がした。こちら側に向いたようだ。
矢継ぎ早な質問のときと打って変わり、考えながらというような口調で返事があった。
「さすがにわたしだって異世界へ行くって迷いなく思えたわけじゃないわ。それにスミトもついてきて欲しいって言ってくれなかったし、なにより未だに好きも言ってくれないわ」
「え!?」
「でもこの前、わたしが好きって言ったら笑ってくれたの。すごく嬉しそうに。あんな顔をしてくれたのは初めてで、ああこの人わたしのことが好きなんだって、その時やっとわかったわ。わたしと同じように一緒にいたいって思ってくれてるって。なのに肝心な言葉をいつも黙ってる。ずるい人って……――スミトの気持ちがわからなかったときはそう思っていたけれど、いまはただ臆病なだけなんじゃないかって気がしてる。――コマリもそういうところ、あるんじゃない?」
「かもしれないけど、異世界に積極的に飛び込む勇気を持てる人なんて、そういないと思う」
クス、とジゼルが笑ったのがわかった。
「異世界に行くこと、想像しなかったわけじゃないんだ」
「そ、そりゃあ少しは……」
「そういう想像ができてるならやっぱりコマリはシモンが好きなのね。じゃああとは自分で結論を出すしかないのかしら。参考になるかわからないけれどわたしの場合、もう二度とスミトに会えない未来って考えられなかったの。――ねぇ、コマリはシモンと一生会えなくて平気?」
返事のできない小鞠は少しあって「おやすみ」というジゼルの声を聞いた。
暗闇のなか長い間、小鞠は眠れずにいた。
* * *
次の日、目覚ましが鳴る前に小鞠は目が覚めた。
昨夜はいろいろと考え込んでしまったが、いつの間にか眠っていたらしい。
壁にある時計を確認すると目覚ましをセットした時間より30分以上も早かった。
寝不足であると感じるが二度寝はできそうにない。
布団にもぐるようにして眠るジゼルからは規則正しい寝息が聞こえていた。
(朝ごはん作ろ)
ジゼルを起こさないよう静かにベッドを抜け出し、上着を羽織って携帯をポケットに入れると廊下に出た。
最初こそきっちり身支度を整えていたが、今は起きぬけの顔をさらしても平気になってしまった。
それはシモンが毎朝気にせず寝起きの顔を見せてくれたからかもしれない。
「魔法協会がなんも仕掛けてけぇへんっちゅうのが気になるわ」
リビングの扉をそっと開けたはずが、澄人の声が聞こえてきたため小鞠は驚いた。
「あ、小鞠ちゃん、おはようさん」
「おはよう、コマリ。今日は早いのだな」
ソファにいた男二人がスウェット姿のまま彼女に朝の挨拶をしてくる。
「おはよう、ございます。朝ごはん作るつもりだったけど邪魔になるようなら――」
「ああ、かまへんよー。っちゅうかな、ゲイリーが動かへんっていうのが気持ち悪いなぁて話しをシモン君としててんけど、小鞠ちゃんどう思う?」
「え?どうって……諦めた?」
「それないわ」
「じゃあ澄人さんの居場所がわからなくて探してるとか」
「うーん、やっぱそれやろか?近くの公園でゲイリーに会ったから、このマンションにおるってすぐバレると思とったんやけど」
「このまま何も仕掛けてこないなら、それに越したことはないだろう」
「まぁ、それはそうやわなー。でもな、シモン君。嵐の前の静けさっちゅうこともあるやん」
澄人がシモンに向き直り二人して話を始めたため小鞠はキッチンに立った。
昨夜のスープの残りを火にかけ、食器棚からカップを取り出す彼女は、ぼんやりとゲイリーのことを思い出した。
(やっぱり澄人さんのことはお友達だって思って、ゲイリーさんも見逃してくれたんじゃ……)
今頃は魔法協会の本部があるイギリスに帰っているかもしれない。
小鞠はリビングの澄人にそう言おうとしてやめた。
長年のわだかまりからか、彼はゲイリーを信じられなくなっている。
いまは何を言っても無駄だろう。
それからすぐにテディとオロフが起きてきて、朝食の準備ができる頃、寝坊したとジゼルがリビングに飛び込んできた。
「ごめん、コマリ。今日はコマリの携帯が鳴らなかったから――起きたんなら、一緒に起こしてくれたらよかったのに」
と洩らす彼女の中で、一宿一飯の恩義はかなり重要らしい。
朝食後、後片付けはわたしが、と意気込んでいた。
その後、出かける準備を終えて小鞠が廊下に出ると、既にシモンは玄関で待ち構えていた。
二人で出かけるという約束を楽しみにしてくれていたのだとわかって、普段の週末どおりバイトに行くと決めていた小鞠の胸がちくりと痛む。
なんだかシモンを騙している気がしてならない。
「空気は冷えているが天気は良いな。清々しい朝だぞ、コマリ」
靴を履くコマリに向かって、玄関の扉を開けたシモンが笑顔で空を促す。
明るい太陽光に彼の金色の髪がきらきらと輝いて綺麗だった。
「いってらっしゃいませ」
「お気をつけて」
振り返るとリビングから出てきたらしい従者二人が小鞠たちに向かって言った。
どうやらシモンが命じているのか、今日は護衛としてついてくることはしないようだ。
とはいえ自分はバイトに行くつもりだから、あとで菊雄たちの喫茶店で会うことになるだろうが。
「二人ともいってらっしゃい」
開け放たれていたリビングの向こうではジゼルと澄人が顔を覗かせ手を振っている。
「ああ、いってくる」
「いってきます」
扉を閉めた小鞠は無言でエレベーターに向かって歩く。
シモンは何も言わずについてきた。
マンションを出てからもそれは変わらず、二人して黙々と歩き続ける。
この調子ではいつもよりかなり早くバイト先に着いてしまいそうだ。
(ていうかどうしてシモンはどこに行くのか聞いてこないんだろ)
駅やバス停に向かっていないことは気づいているはずだろうに。
ゲイリーに会った公園にさしかかったとき、つい小鞠は彼を思い出して公園を見てしまった。
「コマリがゲイリーを説得したのか?」
「え?」
シモンの質問の意味がわからなくて目を向ける。
「今朝、スミトがゲイリーに動きがないことを不思議がっていただろう?もしかしてコマリがゲイリーを説得したのではないかと思ったのだ」
「ホテルにいたときのことを言ってる?説得っていうか、澄人さんのことはもう友達と思えないのかって話はしたけど……おせっかいだって言われた……」
シモンと目が合っていると気づいて小鞠は慌てて視線を公園へ向けた。
つられたように彼もそちらへ向き直る。
「大人になると素直になれないうえ、あの二人は組織が絡んでいるから難しい。それがなくなれば昔のような友に戻れるかもしれないが――もうどうしようもできないだろうな」
スミトはもうすぐシモンたちと異世界へ旅立ってしまう。
ゲイリーも異世界へ行かない限り、もはや二人は会うこともなくなるのだ。
(魔法協会にどっぷり浸かってるゲイリーさんじゃ、組織を抜けるなんとこと思いもしないよね、きっと)
それに彼は協会でもけっこうな地位にあるような気がする。
魔法協会のやり方に逆らいさえしなければ、たいていのことはできる力をもつし、贅沢な生活ができるだろう。
澄人のように自由を手にいれたいがため、それらを捨てるような人間は稀に違いない。
「些細なことで人は誤解しすれ違う。わたしもスミトたちのようになってしまうかもしれないが……やはり黙って去るより伝えるべきなのだろうな――コマリ」
名前を呼ばれて身構える小鞠にシモンは予想もしていなかったことを言った。
「こちらの世界では携帯メールというものでしか友に手紙を送らないのだろうか?」
「確かに最近じゃメールが主流で手紙を書く人は少ないと思うけど……誰かに手紙を書きたいの?」
「ああ。こちらの世界でできたわたしの友に」
「もしかして――」
小鞠の言葉にシモンは頷いた。
「マサキとユウタとタクトに宛てて。何も言わず去るのは容易いが、わたしは友にそのような仕打ちはしたくない。すべては話せなくとも別れの言葉ぐらいは残しておきたいのだ」
「明日のゼミのあとに話したら?」
「面と向かって話して、国や連絡先を聞かれると困る。カッレラにはメールも電話もないしな」
苦く笑って彼は言葉を続ける。
「それにかしこまって別れを強調したくはないのだ。こちらにいるギリギリまで楽しく過ごしていたい。いつものように気軽にな。なにせ別れとは寂しいものだろう?」
「それで、手紙?」
「ああ。ユウタの部屋になら一度行ったことがある。郵便受けとやらに入れておけば読んでくれるだろう」
「でもシモン、こっちの文字はまだ……」
気まずくなってからお互いの国の言葉を教えあうこともしていなかった。
ひらがなを書くのも苦戦していたことを彼女は思い出す。
いや、自分か澄人が代筆すればそこは問題はないか。
「コマリにもらった子ども向けの書物で文字は練習していた。まだまだうまく書けないがなんとか挑戦してみようと思う。黙って去るのだからせめてそのくらいは、わたし自身の誠意を見せたい。ただ、手紙という一方的な別れは彼らを怒らせるのではと、それだけが気がかりだがな」
小鞠は知らず、肩にかけたカバンの持ち手を握る手に力を込めていた。
別れの寂しさからシモンを避けることしかできなかった自分とはなんて違うんだろう。
「わたしが去ったあと、コマリには迷惑をかけるかもしれないが――」
「いい」
別れを悲しんで暗くなるより、寂しくても最後まで向き合っている方が、同じ別れの辛さを味わうにしても、後味が全然違う。
シモンの態度が、そう教えてくれた気がする。
思い切って顔をあげた小鞠は、シモンがわずかに青い瞳を見開いたのがわかった。
「そんなの全然平気。連絡先とか聞かれても、なくしちゃった!って誤魔化すし」
思い出がほしいとシモンは言ったのだ。
(うん、わたしもシモンとも思い出がほしい)
だったら今日は……今日一日は――。
「コマリ?」
「じゃあ今日はレターセット買いに行こう。シモンが気に入ったやつに書いたほうがいいでしょ?」
無責任だけれど、バイトは休みますと後でマスターたちに電話して謝罪しよう。
いまはシモンの方が大事だ。
(シモンとの時間が大事)
小鞠はずっとそらしていたはずの目でまっすぐにシモンを見つめた。
「約束だったもんね……――今日一日、二人で遊ぼう」
彼女を見下ろしていたシモンの顔が見る間に破顔した。
久しぶりにまともに見た彼の眩しい笑みは小鞠の胸を熱くし、凝り固まっていた心を溶かした。