犬とセクハラ
バイト先は亡くなった父の友人が経営する喫茶店だ。
自転車で一駅分の距離。
そこでお客の去ったテーブルを拭きつつ小鞠は窓の外を見つめた。
そろそろ日が傾いている。
忙しく働いていた時は考える余裕もなかったが、客足が落ち着くと昼間の出来事は夢だったのではないかという気がしてきた。
(異世界から王子様だよ?わたしがお后って変でしょ。ガラじゃない。ないないない、ありえない)
ふるふる首を振っているとカウンター奥からマスターの声がした。
「小鞠、表のあれはなんだろうな?コスプレの外人さんが店をのぞいてるんだけど、小鞠英語できるか?」
ん、とガラスの扉を振り返った小鞠だが。
「ぎゃあシモンとその従者ぁ!」
「あら、小鞠ちゃんのお友達?だったら店に入ってもらったらどうなの?ちょうどお客さんも途切れたしコーヒーぐらいサービスするわよ」
マスターの奥様がニコニコと笑う。
「えー、知り合いって言うか押しかけって言うかぁ……てか、どうしてこの場所が。あっ、冠奈さん開けちゃだめ」
「もー、意地悪言わないの。小鞠ちゃんの大学の留学生じゃないの?優しくしなきゃ、メよ」
カラコロとドアベルが鳴る扉を冠奈が引き開けたとたん、店内に飛び込んできたシモンが小鞠に抱きついた。
おい、だから男の風上とやらはどこへいったの。
「コマリ、帰りが遅いから心配で迎えに来た。約束を破ってすまない」
「あはは、夢じゃなぁい。現実だぁこれ」
もう笑うしかないと小鞠はかわいた笑い声を上げる。
「シモンさん?でいいのかしら。立っていないでカウンターに座ってちょうだいな。コーヒーでもお淹れするわ。えーと、シモンさんの従者さんも。菊雄さん、コーヒー三つ」
「はいよ」と返事をしないでください、マスター。
ねぇ、二人ともそこは突っ込もうよ。
シモンは誰とか従者ってなんでとか、その服はなんだよとかね。
「はじめまして。カンナ・アイダです。小鞠ちゃんのお母さん代わりよ。この人はわたしの夫の菊雄さん。小鞠ちゃんのお父さん代わり。キクオ・アイダ。オッケー?」
相手は流暢な日本語を話してるのに最後はオッケーか。
外国人に弱い日本人が出てます、冠奈さん。
小鞠はカウンターにつく3人を見た。
それにしてもそぐわない。
コスプレ外国人が冠奈さん趣味のメルヘン喫茶店にいるってすごく変な感じなんですが。
「わたしはシモン・エルヴァスティと申します。カッレラ王国第13――」
思わす小鞠はシモンの口を押さえてカウンター席から引き摺り下ろしていた。
店の入口まで引っぱっていって小声で言う。
「マスターと冠奈さんに異世界とか変なことを言わないで。あなたもテディもオロフも北欧の小さな島国から来た留学生。で、その服は日本のアニメにハマってて今日はイベントに出てたって言うの。いい?」
「嘘をつけと?キクオがマスターということはコマリの師だろうに。しかもあの二人はあなたの親代わりなのでは?」
「マスターってそのマスターじゃなくてね。ああもう、いいから言うとおりにして」
青い目を覗き込んで「いいわね」と念を押すと、シモンの頬がほんのり赤くなった。
ちょっと待って、目がうっとりしてきてる気がする。
「ああ。コマリのいいように」
犬か、犬になるのかシモン。
なんだか命じたらそのとおりやってくれちゃいそうな気がするなぁ。
小鞠はブルルと首を振る。
いけない。
ちょっと自分の中に女王様が見えかけた。
そっちの趣味はないないない、と額を押さえ彼女は「戻ろう」とカウンターを指差す。
「内緒話はもう終わり?やぁねぇラブラブ?」
「冠奈さん、なんでも恋愛に話を持っていくのはやめてください」
「えぇ?だけどテディ君とオロフ君がシモン様と小鞠様はご結婚なさる運命ですって言ってるけど。なんとか王国第13代次期国王シモン様の王妃が小鞠ちゃんなんでしょう?」
ぎゃあ、ぬかった。
従者二人に口止めしてない。
っていうかおしゃべりめぇ。
じろりと小鞠が二人を睨みつけたが彼らはきょとんとしている。
うわぁん、こっちの常識が彼らには通じないー。
カウンターからコーヒーを三つ出しながら菊雄が楽しそうに笑った。
「異世界の13代王子様とかおもしろい設定だ。日本のアニメは外国でも人気らしいし、今はそういう話が流行ってるのか?」
「いえ、マスターキクオ。本当の話です」
シモンが首を振る。
黙れ、シモン。
コマリのいいようにと言った舌の根も乾かんうちに何を言いやがりますか。
思わず小鞠はシモンの頭をはたいていた。
テディとオロフがぎょっとしたがかまうもんか。
おおかた王子の頭をぶっ叩く人がいなかったってだけだろう。
びっくりしたような顔をしているシモンに、彼女は「黙って」と口パクで伝えたが、彼は首を傾げる。
「コマリ、何だ?声に出してくれないとわからないのだが――」
そこへ店の扉が開いてドアベルが鳴った。
そこで小鞠たちの会話は途切れる。
逆に店の入口から「キャァ」と黄色い声がした。
「いたぁ。この辺りで見失ったからどこに消えたかと――あのぉ、すみません。写真を撮らせてもらってもかまいませんか?あ、日本語通じない?えっとピクチャー……なんだっけ?」
年若い女の子が3人、シモンたちに近づく。
うわ、勇気あるな。
英語もできないのに外国人に話しかけるなんて。
だがそこで小鞠はハッとした。
シモンたちは服装をのぞいても目立つ顔立ちをしている。
この写真がもしどこかの雑誌社とかに送られたら困ったことになるのではないか。
(異世界人だから国籍不明だし……警察とか出てきたらヤバイぃ~)
小鞠はずずいと女の子たちの間に入って首を振った。
「すみません。この人たち宗教上の関係で写真は駄目だそうです。魂を抜かれるとかって信じてるらしくって、隠し撮りでも何でも写真を取られると国では切腹――あ、や、えと絞首刑にされるとかって、厳しい法があるらしいんです」
「えー?マジぃ、それなんか嘘っぽぉい」
「ていうかあなたに聞いてないし~」
「実はこの人たちに近づいてほしくないとか?」
やっぱり苦しい言い訳だったかと小鞠が困っていると、背後からにゅと手が伸びて次の瞬間、彼女はシモンの腕の中にいた。
「彼女の言うとおりです。我が国の法はとても厳しいのです。ですからシャシンはご勘弁ください。それからわたしと彼女の時間を邪魔しないでもらいたい」
ちゅ、とシモンが髪にキスしたのが小鞠にもわかった。
冠奈がきゃあと浮かれた声をあげ、菊雄がピクと眉を寄せる。
女の子たちは怯んだように顔を見合わせ店を出て行った。
見事に追っ払ってくれたよね、シモン。
でもえーと、さっさと離してもらえないだろうか。
「コマリ、いい匂いがするな。何の香水?」
「ただのシャンプーとリンスです。っていうか離して」
「もう少し――」
「シモン君とやら。これ以上小鞠にセクハラするならいますぐ店から叩き出すぞ?」
菊雄の声音が低い。
ヒイィ、マスター。
拭いてるカップを割りそうですってば。
シモンも菊雄の冷気を感じたらしい。
素早く小鞠から手を離した。