用済みと十四年の床を取り上げられ麹蓋を伏せました。お宅の酒、次の仕込みでだれます
麹蓋が、季世の指から横へ抜けた。
蒸し米を受けるはずだった空の蓋を、惣七は蔵元たちの前で高く持ち直した。そのまま後ろに控えていた兼松へ渡す。
「今日から床は兼松に回させます。うちでは仕事を揃えることにしました」
兼松は両手で受け、若い衆へ見せるように蓋を傾けた。縁に残っていた米粒が一つ、筵の上へ落ちた。
「季世さんばかりに負わせちゃ、若い者が育ちませんからね。量って、待って、返す。そいつを覚えりゃいい」
蔵元の一人が季世を見た。惣七はその目を遮るように半歩前へ出た。
「麹は誰が回しても同じだ」
声が梁に当たり、冷えた室へ返った。兼松が歯を見せ、若い衆も肩を揺らした。
季世は筵へ落ちた米粒を拾った。空いた手で蒸し米を一掴みし、親指の腹で潰す。昨日の雨を含んだ米は、表だけ先に乾き、中へ水を抱えていた。
「まだ床へ広げるな」
若い衆の手が止まった。惣七が振り向く。
「季世。今日は兼松が差配する」
「承知しております。蒸し上がった分を、潰して見ただけです」
季世は米を甑の脇へ戻した。北の小窓から落ちる風が昨日より細い。壁の腰板へ伸びた指先で湿りを拾い、小窓を指一本分だけ閉じた。
兼松が麹蓋を小脇に抱えたまま、蒸し米へ手を入れた。
「もうよかろう。時刻は来てる」
「あと半刻」
「手順には、そんなことはありませんぜ」
まだ手順は壁に貼られていなかった。惣七は蔵元たちへ向き直り、綴りを一枚めくった。
「これまで季世の頭にしかなかったことも、すべてこちらで揃えます。人に頼る仕事では、蔵は大きく出来ません」
季世は返さなかった。握った跡の残る一粒を割ると、白い芯が爪の先に貼りついた。
半刻後、季世が黙って顎を引くまで、兼松は蓋を抱えて待った。惣七はその半刻を、自分が蔵元へ示した差配の一つとして話した。
* * *
五日後、膳の上に銭が二つの山に分けて置かれた。惣七は高い方を引き寄せ、低い方を季世の前へ押した。
「来月から、兼松と同じだ」
季世は銭へ手を出さなかった。湯呑みを膳の端へ移し、惣七の指が示している山を見た。
「床持ちの分は」
「床は一人で持つものではなくする。なら、賃銀も揃えるのが筋だろう」
「十四年は、数に入りませんか」
「昔のやり方を続けた年数へ、蔵が銭を払うわけにはいかん」
障子の外で、兼松が若い衆を呼ぶ声がした。惣七はその声が近づくまで待ち、もう一度、低い山を指先で押した。
「おまえにも蔵のためだと分かってもらわんとな」
兼松が障子を開け、膳の上を見た。惣七と目が合うと、口の端を上げた。
「同じ仕事なら同じ賃銀。ご主人は分け隔てがない」
季世は低い山を布へ包んだ。結び目を一度締め、膳に残った湯呑みを持って立った。
さらに三日後、麹室の壁へ大きな紙が貼られた。米の升数、床へ移す刻、揉む刻、返す刻。墨の濃い数字が縦に並び、季世が毎朝触れていた壁の湿りは、紙の下へ隠れた。
兼松は貼り紙の端を指で叩いた。
「これなら字の読める者はみんな床持ちだ。季世さんも朝寝が出来るな」
「壁の乾くまで、そこへ米を寄せないでおくれ」
「ほら、また紙にないことを言う」
兼松が若い衆を見回すと、短い笑いが三つ続いた。惣七は紙の上端を撫で、蔵元が来る日のために傾きを直した。
麹など手順どおりに回せば出来る。
惣七は翌朝、貼り紙の前で兼松へ指図をした。升数を読み、時刻を読み、温度計の目盛りを読み上げる声だけは、これまでよりよく室へ響いた。
その日の午後、季世は土間の隅で三通の紙を折った。寒気が二日長引けば、今ある米では約した日に酒が揃わない。町の三軒へ一日ずつ納めを延ばしてもらうよう書き、遣いの草履へ一通ずつ挟んだ。
「何をしている」
「三軒へ、納めを延ばすお願いを」
「それはおれが決めることだ」
「今朝、ご主人が納めの日は動かすなとおっしゃいましたので、遅れる前に詫びを入れました」
惣七は遣いの背が門を出るまで黙っていた。やがて綴りを取り上げ、三軒の名の横へ自分の印を付けた。
「蔵の差配は、今後おれを通せ」
「承知しました」
季世は湯呑みを置いた。底に残った茶が、木の膳へ丸い跡をつけた。
* * *
翌朝、季世は両手を袖へ入れて麹室へ入った。兼松が貼り紙を読み上げ、若い衆が床の端から米を返している。
季世は床の周りを一巡した。南の隅は温かく、北の端では米が指跡を残すほど湿っている。壁へ向きかけた右手は袖から出ず、季世は北の端を通り過ぎた。
「遅いぞ、季世。北を見てやれ」
惣七が顎で床を示した。兼松は手を入れたまま、答えを待っている。
「ご主人。昨日、差配はご主人を通すようにと承りました」
「だから、おれが見ろと言っている」
「手順どおりです。では、手は入れません」
「口を利く暇があるなら、温度を見ろ。兼松はまだ慣れておらん」
季世は袖へ手を入れたまま、洗い場へ回った。昨夜使った麹蓋を水で流し、縁へ残った米を竹べらで落とす。布で一枚ずつ拭き、十四枚を乾いた面を上にして伏せた。
種を入れていた壺の口も拭った。蓋を閉じ、蔵の印が正面へ来るよう棚へ戻す。竹べら、温度計、手箒も、その脇へ並べた。
「何を片づけている」
「わたしが預かっていたものです」
「今夜も盛りがある。道具をしまうな」
「今日から、床へ手は入れません」
惣七は床の向こうから歩いてきた。蔵元のいない朝で、声は梁まで上がらなかった。
「賃銀のことで拗ねているなら、話はあとだ。今は米を傷めるな」
「同じ仕事は、同じ賃銀。床は一人で持つものではない。それで承りました」
「十四年も置いてやった蔵だぞ。勝手に投げ出して済むと思うな」
「投げ出しませぬ。道具も種も、ひと粒も持ち出しません。今日までの分を洗って、ここへ置きます」
季世は伏せた麹蓋の角を揃えた。一枚だけ指幅ほど出ており、押し戻すと、板と板の触れる乾いた音がした。
出口の前で、もう一度だけ床を見た。北の米はまだ湿り、南では兼松の指の跡から湯気が細く立っている。袖の中の手は、動かなかった。
「わたしはこの床を、十四年、わたしの床だと思うて温めておりました」
惣七の口が開いた。季世はその先を待たず、膝をついて一礼した。
「本日で、お暇をいただきます。ご主人」
外へ出ると、寒仕込みの風が袖口から入った。季世は手を入れたまま門を抜け、蔵の白壁が見えなくなる角まで出さなかった。
* * *
杢平は、川端の石段で季世を待っていた。三十年使った種袋を膝へ載せ、渡し舟が着いても立たなかった。
「麹屋の旦那。こちらまで、何の御用です」
「あんたが蔵を出たと聞いた」
「種は置いてまいりました。欠けもありません」
「種の勘定をしに来たんじゃない」
杢平は種袋の紐を解き、黄緑の粉がついた紙包みを一つ出した。季世へ差し出しかけ、手前で止める。
「あの蔵へ納める分ではない。川向こうに小さい床がある。麹の講の女たちが回しちゃいるが、冬場の二月を越せずにいる」
「わたしには、蔵の名がありません」
「おれたちはあの蔵に売ってたんじゃない。あんたの指に売ってたんだ」
季世は紙包みを受けなかった。代わりに、杢平の膝からずり落ちかけた種袋の端を持ち上げた。
「床を見てからで、よろしいですか」
「種を見ずにそう言うなら、よろしいも何もない」
川向こうの室は、元の蔵の半分もなかった。入口で頭を下げねば梁へ当たり、壁際には古い米俵が積まれている。講の女衆は作業着の袖をたくし上げたまま、季世のために床の周りを一尺ずつ空けた。
「季世さん、どこから直します」
「まだ直しません」
季世は室へ入ると、北の壁へ手を伸ばした。指先に冷たい湿りがつき、塗り壁の粉が爪へ白く残る。今度は手を引っ込めず、腰板、床の脚、米を冷ます筵の順に触れた。
「明日の朝、蒸した米を一升だけ見せてください。今夜は、この俵を壁から離します」
「一升で足りるのかい」
「初めは足ります」
女の一人が俵を持ち上げ、別の一人が壁との間へ木片を挟んだ。仕事の返事はそれだけで、誰も季世が前の蔵を出た訳を尋ねなかった。
翌朝、米は掌で割れる前に潰れた。季世は甑の湯を一杓減らした。
そのころ元の蔵では、貼り紙の時刻どおりに兼松が床を返していたと、杢平が種を届けた帰りに言った。表は熱く、握り潰した中は白いまま。惣七は温度が足りぬと火を足し、翌朝も同じ刻に返させた。
「破精が入らん、と兼松が首をひねってた」
杢平の言葉に、季世は新しい床の米を一粒割った。白い芯を確かめ、まだ早いと蓋を戻した。
「麹屋の旦那、こちらの種は薄めに願います。新米が水を離しませんので」
杢平は紙包みを量り直した。それ以上、元の蔵の話はしなかった。
* * *
ひと月目の朝、珠生が川向こうへ来た。襟元に米糠をつけ、渡し舟を降りてから一度も袖を払わなかった。
「季世さん。見るだけでいいの。手を貸せとは言わないから、兄の床を見てください」
季世は床へ入れていた手を抜いた。女衆の一人が代わって米を包み、もう一人が戸を閉める。
「触れませんよ」
「それでいい」
季世は杢平と珠生に伴われて元の蔵へ戻った。室は、戸口から青い筋が見えた。床布の端に始まった色が、折り目を伝って中央まで走っている。甘いはずの匂いへ湿った木の臭いが混じり、兼松は床の前で両手を膝へ置いていた。
季世が入っても、兼松は顔を上げなかった。壁の貼り紙は湯気を吸って波打ち、墨の時刻だけが黒く残っている。
「火は手順のとおり入れた」
惣七は季世ではなく杢平へ言った。杢平は床の端を指一本で持ち上げ、青い裏を見てすぐに離した。
「種を替えれば戻る。次は強いのを寄越してくれ」
「あいにく、今年の種は向きませんので」
「金なら払う」
「金の向きの話はしとらん」
惣七の声が細くなったところへ、表から車輪の音が入った。男二人が酒樽を転がしてきて、戸口の前へ縄を解かぬまま置く。
「うちの客には出せん。口へ残る」
蔵元は惣七の返事を聞かず、受取札を珠生へ渡した。珠生は床へ札を落とさぬよう両手で受け、腰を折った。
「申し訳ございません。こちらでお引き取りします」
樽が蔵の側へ転がされる。兼松は貼り紙へ伸ばしかけた指を膝へ戻し、口を閉じた。
次の月、季世が渡し場から町を見ても、元の蔵へ向かう荷車はなかった。以前は壁の外まで立っていた樽が、同じ場所に同じ縄目を見せている。納めの日を知らせる遣いも、川を渡ってこなかった。
後日、珠生に呼ばれて元の蔵へ戻ると、珠生は返った樽の札を綴りへ挟み、惣七の前へ置いた。季世が戸口にいるうちに、室の鍵を兄の手から抜いた。
「兄さんはもう室へ入らないで」
「珠生、おまえに床が分かるのか」
「分からないから、分かる顔をして触らないでと言ってるの」
「この蔵はおれのものだ」
「返った酒も、止まった注文も、兄さんのものよ。わたしは詫びて回るから、兄さんは奥にいて」
珠生は惣七を室の外へ押し出し、内側から戸を閉めた。季世には何も頼まず、敷居へ額が近づくほど頭を下げた。
季世は袖から手を出さなかった。青い床の前を離れ、杢平と同じ舟で川向こうへ戻った。
* * *
新しい床では、雨の翌朝、季世は蒸し米を指の股で挟んだ。米が潰れずに薄く延びるのを見て、甑から上げる時刻を半刻遅らせた。
北風が川を白く波立たせた朝は、温度計を元の釘へ掛けなかった。床の南へ移し、戸の下の布をもう一枚重ねる。昼に風が止むと、布を外して床布の端だけ返した。
新米が古米へ替わる月、杢平の種を掌へ受けた。季世は紙包みの半分を戻し、残した種を床の中央から薄く振った。女衆は理由を尋ねず、季世が空けた間へ順に手を入れた。
「東は、もう包んでいいかい」
「まだです。そちらは冷えています」
「西は」
「二枚だけ蓋へ」
短い声が床を一周した。誰の手がどこまで進んだかを、女衆は仕事の名で呼び合った。
三日目の朝、季世が床布を開くと、米の表へ白い筋が伸びていた。割った内側にも、細い破精が根を下ろしている。季世は一粒ずつ三つ割り、最後の一粒を掌へ残した。
「季世さんの床、上がったよ」
甑の番をしていた女が室の外へ呼んだ。別の女が蓋を運び、もう一人が朝餉の鍋の蓋をずらす。湯気が梁まで上がり、米の匂いへ粥の匂いが重なった。
「季世さん、そこ空けてあるから。蓋を置いたら食べよう」
車座の一角に、畳んだ座布が一枚置かれていた。その前には、湯気の立つ椀がまだ箸を添えずに待っている。
季世はすぐには座らず、床の周りをもう一巡した。北の壁へ指をつけ、腰板の乾きを見てから戸をわずかに開ける。戻ってくると、女衆は粥へ手をつけず、米の出来を確かめるのと同じ顔で待っていた。
季世は椀を両手で包んだ。指の節へ湯気が入り、爪の下に残っていた種の色が濃くなった。
「明日は、もう一升増やせます」
「じゃあ椀も一つ増やそう。働く手が増えるからね」
女衆は粥をすすり、次の米の相談を始めた。季世の椀から立つ湯気も、その輪の中へ混じった。
* * *
半年後、惣七は新しい室の前へ来た。講の女衆が米を運び込む朝で、袖のよい羽織に白い粉が一筋ついたままだった。
「季世。二人で話したい」
季世は麹蓋を女衆へ渡し、室の外へ出た。戸は閉めず、内から米を返す音が聞こえるところで足を止める。
「何でしょう、ご主人」
「いつまで他人の床を借りているつもりだ。うちへ戻れ」
「こちらで床を任されております」
「小さな講の床だろう。おまえが十四年いた蔵とは違う」
惣七は羽織の粉を手で払った。粉は落ちず、袖へ薄く広がった。
「昔からの付き合いがある。おれも、賃銀の決め方は少し急いだ。兼松も床から外した。戻れば前と同じにする」
「前と同じに」
「床を任せる。種も、おまえが杢平から取ればいい。蔵元への納めも、以前のように先を読んで回してくれ」
室の中で、女衆が蓋の枚数を数えた。季世は振り向かず、惣七の袖についた白い筋を見た。
「珠生一人では詫びが追いつかん。講でもおれの話を聞く者が減った。蔵を潰す気か、季世」
「わたしは、もうそちらの床持ちではありません」
「だから戻れと言っている。おまえの手でなければ、今の床は戻らん」
惣七は一歩近づいた。客前で麹蓋を奪った朝より、声は季世一人へ届く分しかなかった。
「頼む。古い仲だ。蔵へ帰ってくれ」
季世は袖へ手を入れなかった。室の中では、女衆の一人が北の床を包み、別の一人が戸の開き具合を指で測っている。
「麹は誰が回しても同じだ」
惣七の顎が下がった。季世は責める言葉を足さず、室の敷居をまたいだ。
「待て、季世」
米を返す音が一度止まり、また続いた。惣七は戸口へ足をかけなかった。
やがて渡し場へ向かう足音が遠のいた。季世は床布を開き、白い筋の走った米へ迷わず両手を入れた。
「東、上がっています」
「季世さん、こっちも見ておくれ」
差し出された麹を一掴みし、掌の上で割る。破精は芯まで入り、砕けた白が指の皺へ残った。
「上がっています。蓋へ移しましょう」
女衆が蓋を運び終えると、朝餉の鍋が室の前へ置かれた。いつもの一角には座布が空き、その前で粥の椀が湯気を立てている。
季世は掌の麹を蓋へ戻した。手を洗い、輪の空いたところへ座る。
椀を両手で包むと、床から抜けてきた指へ熱が戻った。女衆は次の米の話をしながら粥をすすり、季世も同じ湯気の中で箸を取った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




