アナザー・閑話:虚ろなる愛玩(お人形の調律)
妹との頭脳戦に負けて抜け殻になった雅人というアナザーストーリーを書いてみました。
地下最深部。そこは硬質なブルーライトがすべてを寒色に染める、静寂に満ちたアクアリウムのような密室。
巨大な三画面モニターの前、最高級のワークチェアに腰掛けている宗方雅人の瞳には、かつて世界を欺いたギラギラとした悪意の光は、もう一滴も残されていなかった。
「……」
微動だにせず、ただ前方の暗闇を見つめ続ける死んだ魚のような瞳。
彼を蝕んでいた焦燥も、プライドも、優奈への歪んだ執着すらも、限界を超えた脳内シミュレーションの果てに焼き切れてしまった。今の彼は、息を吸い、心臓を脈打たせるだけの、文字通りの「完璧なお人形」だった。
優奈が望み、愛した、絶対に自分を拒絶しない、無害で可哀想なお兄ちゃん。
ガラスドアのロックが静かに解除され、優奈の「大切なお友達」が、王のいなくなった神殿へと足を踏み入れる。
優奈はガラスの向こう側から、凪いだ、だが深い愉悦を湛えた瞳で、信徒たちが自らの大切な「おもちゃ」を愛玩する様子を見つめていた。
① 美月:女王蜂の歪んだ母性
「ふふ、本当に……可愛らしいお人形になっちゃったのね、雅人くん」
高いヒールの音を響かせ、美月がゆっくりと雅人のワークチェアの後ろに回り込んだ。
かつては雅人の指先ひとつ、言葉ひとつで呼吸を乱され、サークルのお金はおろか、自らの尊厳すらもすべて差し出して彼に縋り付いていた「女王蜂」。だが、今の美月の顔にあるのは、怯えでも依存でもない。
哀れみと、そして獲物を完全に下に見下ろす、極上の「加害者」の笑みだった。
美月は雅人の細い肩に手を置き、その色白の首筋へと、長い爪をそっと滑り込ませた。
かつての雅人なら、一瞬で彼女の動揺をスキャンして冷酷な笑みを貼り付けていたはずだ。しかし、今の雅人は、首元を冷たい爪でなぞられても、呼吸一つ、心拍数一つ乱さない。ただなされるがまま、虚空を見つめている。
「あの時は、私のこと、ずいぶんと上手に騙してくれたわね。私を特別なパートナーだなんて囁いて、私の胃がストレスでボロボロになるまで、何度も、何度も、その冷たい唇で壊してくれた」
美月は雅人の前に回り込み、ワークチェアの肘掛けに両手を置いて、彼の顔を覗き込んだ。
至近距離。息がかかる距離。美月は自らのブラウンの髪を、雅人の虚ろな頬へとわざとすり寄せた。
「でも、今のあなたは私なしではご飯を食べることも、お洋服を着ることもできない、ただの可愛い坊や。ねえ、雅人くん。私の目を見て?」
美月は雅人の頬を両手で挟み込み、強引に自らのキャットアイへと視線を固定させた。
雅人の焦点の合わない瞳が、美月を映す。だが、そこには何のロジックも、ハッキングのシミュレーションも走っていない。ただの、光を通さない黒いガラス玉。
「嬉しい。あなたが私を拒絶しない。私を騙そうと、あの嫌な、綺麗な笑顔を作らない……。これからは、私があなたに『100点満点』をあげる番よ。私があなたの髪を優しく撫でてあげる。私があなたを抱きしめてあげる。だから、雅人くん。一生、私の手のひらの上で、可哀想に震えていてね」
美月は雅人の薄い唇に、かつてとは真逆の、支配に満ちた熱いキスを落とした。
されるがままに唇を開く雅人の身体。美月はその無抵抗な温もりを全身で浴びながら、かつて彼に貪られたプライドを、今度は自分が彼を捕食することで、100点満点に塗り潰していく快感に、狂おしく身を震わせていた。
② 麗奈:医師の娘の絶対診断
「心拍数は一分間に六十二。自律神経の乱れは、一切確認できないわね。……当然だけど」
クラシカルな白ブラウスを着た麗奈が、雅人の胸元に聴診器のチェストピースをそっと押し当てていた。
かつて、厳格な家庭の檻から抜け出したいがために雅人のキスを求め、自らの実家のすべてをFXの荒波へと放り投げて破滅した、医師の娘。
今の麗奈は、手慣れた手つきで雅人の「機能」を検査していた。
「雅人。あなたの心臓は、あんなに激しく世界を壊そうとしていたのに、今はこんなに静かに脈打っている。……まるで、よくできた精密な機械を看取っている気分よ」
麗奈は聴診器を首にかけると、雅人の細長い指先を手に取り、その爪の隙間、そして脈拍を測るように手首を優しく圧迫した。
「あなたは私を『抑圧されたカゴの外へ連れ出す』と言って、私にキスをした。ご両親を裏切ろうって、優しく囁いて、私の心をズタズタに引き裂いた……。あの時、私はあなたが本当に欲しかった。あなたに支配されるのが、怖くて、でもたまらなく嬉しかったの」
麗奈の瞳に、かすかに過去の執着の熱が宿る。
だが、彼女はすぐに冷たい、冷徹な医師のような視線に戻ると、雅人の腕を強引に引き寄せ、彼の身体をシーツの上へと押し倒した。
「でも、今のあなたは私の診断から一歩も逃げられない。私の指先があなたのデリケートな皮膚をなぞっても、あなたの瞳孔は一ミリも開かないのね」
麗奈は雅人の上に跨がり、彼のシャツのボタンを一つ、また一つと外し、剥き出しになった色白の胸元へと、自らの冷たい指先を這わせた。
雅人の身体は、麗奈の重みを受け入れ、ただ重力に従ってシーツに沈み込む。
「雅人、これは治療よ。あなたが二度と、私を狂わせる悪魔に戻らないための、完璧な処置。私の手が触れている間だけ、あなたは生かされている。私の与える皮膚刺激(快楽)だけが、あなたの世界のすべて。……お父様やお母様を裏切るより、あなたをこうして私の『標本』にしておく方が、何百倍もゾクゾクするわ」
麗奈は雅人の首筋に、ねっとりと湿った、そして逃がさないほど強い牙を立てた。
痛みにすら、雅人の顔は歪まない。ただ、小さな呼吸の漏れだけが、麗奈の鼓膜に心地よく響く。
麗奈は、自分を壊した「怪物のハードウェア」を、今度は自分が生涯にわたって管理し、飼育していく全能感に、脳髄の芯まで酔いしれていた。
③ 舞衣:底の抜けた承認のゆりかご
「雅人くん。今日も、私の話を全部、静かに聞いてくれるんだね」
清楚なパステルカラーのワンピースを着た舞衣が、雅人の膝の上に頭を乗せ、ソファーに座る雅人の手を自らの両手で包み込んでいた。
かつては自己肯定感が完全に底をつき、雅人からの「舞衣は賢いね」「味方だよ」という言葉の麻薬がなければ、息をすることすらできなかった少女。
だが、今の舞衣の顔には、かつての怯えは微塵もなかった。
なぜなら、目の前にいる雅人は、彼女が何を言っても否定せず、他の女のところへ行くこともなく、ただ静かに彼女の言葉を「全肯定」し続けてくれるからだ。
彼が「お人形」になったからこそ、舞衣にとっての【完璧な理解者】が完成した。
「ねえ、雅人くん。今日、美月さんたちにね、『舞衣ちゃんはいつも一生懸命で偉いね』って褒められたの。……全部、雅人くんが私をこうして、静かに見守ってくれているおかげだよね?」
舞衣は雅人の冷たい指先を自分の頬にすり寄せ、愛おしそうに目を細めた。
雅人の手は、ただ舞衣の力によって動かされ、彼女の頬をなぞっているだけ。だが、舞衣にとっては、それこそが「雅人からの至高の愛撫」として処理されていた。
「昔の雅人くんは、私に『口座を作って』とか『僕を信じて』って、いつも難しいことばかり言って、私をドキドキさせてた。私、雅人くんに嫌われたくなくて、お父さんのお金をいっぱい盗み出しちゃった。……でも、今の雅人くんは、私に何も要求しない。ただ、ここで私のお話を、ずっと、ずーっと、優しいお目目で見つめていてくれる」
舞衣は起き上がり、雅人の首元にしがみついた。
彼の胸に顔を埋めると、かつて自分を甘やかしてくれた、あの甘い香水の香りが微かに漂う。
「ねえ、雅人くん。私のこと、世界で一番大好きって言って?」
「……」
当然、雅人の薄い唇からは、何の音も発せられない。
だが、舞衣は嬉しそうにクスリと笑うと、雅人の耳元に唇を寄せた。
「うん、聞こえたよ。『舞衣は僕の、世界でたった一人の神様だよ』って言ったよね。……私も、雅人くんが大好き。雅人くんが何も言わないから、雅人くんの心の中はね、全部私の都合のいい言葉だけで満たされているんだもん。おままごとは、これで大成功。私たちは、本当に一生終わらない、優しい世界を手に入れたんだよ」
舞衣は雅人の細い首筋に腕を回し、その小さな身体の重みを、すべて彼に委ねた。
雅人の細い腕は、自発的に彼女を抱きしめ返すことはない。だが、舞衣がその腕を自分の腰に回せば、まるで抱きしめられているかのような「等式」が、彼女の脳内で完璧に成立する。
密室を照らす、硬質で冷たいブルーライト。
美月、麗奈、舞衣の三人は、それぞれの方法で、かつて自分たちを支配した怪物の抜け殻を愛撫し、その歪んだ欲求を満たし尽くしていた。
お互いを壊し合うようなハッキングの応酬も、世界を滅ぼす心中劇の焦燥も、この部屋にはもう存在しない。
あるのは、ただ静かに、二度と牙を剥くことのない美しいお人形(雅人)を、自らの都合のいい色に染め上げていく、泥のように重く濁った執着の熱だけ。
ガラスの向こう側。
優奈は、信徒たちの手の中で、なされるがままに揺れている雅人の死んだ瞳を、じっと見つめていた。
「ええ。死ぬまで終わらない、優しいおままごとだよ。お兄ちゃん」
優奈はガラスにそっと手のひらを重ね、恍惚とした微笑みを浮かべた。
世界中の誰からも脅かされない、完璧に安定したエデンの園の底で、お人形となった雅人の影は、青白いブルーライトの光の海へと、深く、深く沈み込んでいった。




