第一話 国民的アイドルが転校してきた日
高校二年生の春。
新しいクラス分けの紙が張り出された廊下は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「えっ、ほんとに来るの!?」
「待って待って、やばいって!」
「星崎玲奈がうちの学校とか信じられないんだけど!」
あちこちから聞こえてくる騒がしい声。
月城紗奈は、人混みを避けるように歩きながら小さく息を吐いた。
「朝から元気だなぁ……」
「紗奈が興味なさすぎるだけでしょ」
隣を歩いていた高瀬真昼が呆れたように言う。
「いや、だって芸能人でしょ?」
「“芸能人でしょ?”じゃないの! 星崎玲奈だよ!? 国民的アイドル!」
「顔は分かるけど……」
「終わってるよその反応」
失礼なことを言われた。
でも実際、紗奈は芸能人にそこまで興味がない。
昔、少しだけモデルの仕事をしていたことはある。
けれど、それも幼い頃の話だ。
今となっては、写真を撮られるのもあまり好きじゃない。
「とにかく早く行こ! クラス確認したい!」
真昼に腕を引っ張られ、紗奈は渋々人混みの方へ向かった。
そして。
「……あ」
二年A組。
自分の名前を見つけた瞬間、そのすぐ下に書かれていた名前に周囲が一気にざわついた。
『星崎玲奈』
「ほんとにいる……!」
「やば……!」
「同じクラス羨ましすぎる……!」
真昼も興奮したように紗奈の肩を掴む。
「紗奈! 同じクラスじゃん!」
「うわ、ほんとだ」
「反応薄っ!?」
そんな会話をしながら教室へ向かう。
すると。
教室の前には既に人だかりができていた。
みんな扉の向こうを覗き込んでいる。
「えぇ……」
「ほら紗奈も見てみなって!」
背中を押され、紗奈は仕方なく教室の中へ視線を向けた。
そして。
窓際の席に座っていた少女と、目が合う。
綺麗だった。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
テレビ越しでも整っていると思っていたけれど、実物はその何倍も綺麗だった。
星崎玲奈。
教室の空気が変わるくらい、圧倒的な存在感。
けれど。
玲奈は周囲の視線なんて気にしていないみたいに、ただ静かに座っている。
そして。
紗奈を見た瞬間だけ。
その表情が、大きく揺れた。
「……え」
小さな声。
一瞬だけ、玲奈の瞳が見開かれる。
紗奈は思わず首を傾げた。
知り合いだっけ。
でも、こんな人なら忘れるはずがない。
「紗奈?」
「あ、いや……なんでもない」
気のせいかと思いながら、紗奈は教室へ入る。
するとまた周囲がざわついた。
「え、月城さん隣!?」
「うそ、まじで!?」
隣?
紗奈が自分の席を見る。
窓際。
そして、その隣には——。
「……」
星崎玲奈。
「うわ……ほんとだ」
思わず呟いた瞬間。
玲奈が、ふっと笑った。
それだけで教室中から小さな悲鳴が上がる。
すごい人気だなぁ、と紗奈は変なところで感心した。
「……月城紗奈」
不意に名前を呼ばれる。
「え?」
玲奈が真っ直ぐこちらを見ていた。
綺麗な瞳。
でも、その奥に妙な熱がある。
「久しぶり」
「……え?」
紗奈は固まる。
久しぶり?
会ったことあったっけ。
必死に記憶を探る。
でも思い出せない。
「ごめん、どこかで会った……?」
その瞬間。
玲奈は少しだけ目を細めた。
寂しそうにも見える笑み。
「……覚えてないんだ」
「え、いや、ごめん……」
「謝らなくていいよ」
玲奈はそう言って、静かに前を向いた。
でも。
その横顔が少しだけ寂しそうで、紗奈は妙に気になってしまう。
その時。
担任教師が教室へ入ってきた。
「はいはい席つけー。転校生見て騒ぎたい気持ちは分かるが、少し落ち着け」
教室が慌てて静かになる。
先生は軽く咳払いをしてから玲奈を見る。
「じゃあ星崎、軽く自己紹介頼む」
「はい」
玲奈が立ち上がる。
その瞬間、また空気が変わった。
やっぱり芸能人ってすごい。
ただ立つだけで目を引く。
「星崎玲奈です。仕事の都合で、この春から転校してきました」
落ち着いた声。
慣れているんだろう。
人前に立つことに。
「できるだけ普通に接してもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
完璧だった。
笑顔も、話し方も、立ち振る舞いも。
まさに“国民的アイドル”。
教室中が見惚れている。
でも。
玲奈は一瞬だけ横目で紗奈を見た。
その視線に、なぜか胸がざわつく。
結局、そのままホームルームは終わった。
そして昼休み。
教室はまだ玲奈の話題で持ち切りだった。
「ほんと顔小さい……」
「写真お願いしたい……」
「近くで見るとやば……」
囲まれて大変そうだな、と思いながら、紗奈は静かに席を立つ。
こういう騒がしい空気は少し苦手だ。
屋上でも行こう。
そう思って教室を出ようとした、その時。
「紗奈」
後ろから名前を呼ばれた。
振り返る。
そこには玲奈がいた。
周囲がざわつく。
「え、月城さん?」
「知り合いなの……?」
玲奈はそんな声を気にする様子もなく、真っ直ぐ紗奈を見る。
「どこ行くの?」
「えっと、屋上でお弁当食べるの」
「私も行っていい?」
「……へ?」
教室が静まり返った。
紗奈も固まる。
「だ、だって星崎さん、みんなと食べた方が……」
「玲奈でいいよ」
「え?」
「星崎さんじゃなくて、玲奈」
距離が近い。
初対面、ではないのかもしれないけど。
でも。
こんな有名人に名前呼びを求められる距離感ではないはずだ。
「……駄目?」
玲奈が少しだけ首を傾げる。
その瞬間。
教室中からまた悲鳴みたいな声が上がった。
「かわい……!」
「やば……!」
本人は無自覚なんだろうか。
紗奈は少し困ったように頭を掻いた。
「……別にいいけど」
その瞬間。
玲奈が、心底嬉しそうに笑った。
まるで。
ずっと探していたものを、やっと見つけたみたいに。
◇
屋上には春の風が吹いていた。
昼休みだからか、人の姿はほとんどない。
「……なんか、すごかったね」
フェンスへ寄りかかりながら、紗奈は苦笑する。
「教室」
玲奈は隣へ並ぶように立ちながら、小さく笑った。
「もう慣れてる」
「すごいなぁ」
「全然すごくないよ」
そう言ってから。
玲奈は、じっと紗奈を見た。
「紗奈は変わらないね」
「だからそれ、ほんとに誰かと間違えてない?」
「間違えてない」
即答だった。
風が吹く。
黒髪が揺れる。
綺麗だな、と紗奈はぼんやり思った。
「でもごめん。ほんとに思い出せなくて……」
「いいよ」
玲奈は少しだけ笑う。
「紗奈らしいし」
「えぇ……」
ますます分からない。
小学校?
習い事?
でも、どれだけ考えても思い出せなかった。
「……私、昔少しだけこの辺住んでたんだ」
玲奈がぽつりと言う。
「え?」
「小さい頃」
そこで一度言葉を切る。
「その時、紗奈に助けてもらった」
「助けた?」
「うん」
玲奈は静かに笑った。
「私、すごく泣き虫だったから」
その瞬間。
頭の奥で、何かが引っかかった気がした。
泣いている女の子。
公園。
夕方。
でも。
思い出せない。
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって」
玲奈は少しだけ困ったように笑った。
その笑顔は、教室で見せていた完璧なアイドルの顔とは少し違っていた。
もっと柔らかくて。
もっと自然で。
どこか安心したような顔。
「でも、また会えて嬉しい」
その言葉に。
紗奈の胸が、小さくざわついた。




