プロローグ
雨の音が、静かな部屋に響いていた。
高層マンションの大きな窓。その向こうで、東京の夜景がぼやけて揺れている。
月城紗奈は、ソファに座ったまま小さく息を吐いた。
テーブルの上には飲みかけの紅茶。
時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎていた。
「……やっぱり、帰った方がいいかな」
ぽつりと呟く。
その瞬間。
「駄目」
即答だった。
紗奈の向かい側、ソファに座っていた少女が顔を上げる。
星崎玲奈。
テレビで見ない日はない国民的アイドル。
綺麗な黒髪も、整いすぎた顔立ちも、全部見慣れてしまったはずなのに。
こうして二人きりになると、未だに心臓が落ち着かない。
「もう遅いし、危ないから」
「でも……」
「泊まってけばいいじゃん」
玲奈は当たり前みたいにそう言って、紗奈の隣へ移動してくる。
近い。
肩が触れそうな距離。
「玲奈、近——」
「紗奈が帰ろうとするから」
少し拗ねたような声。
テレビで見せる完璧な笑顔とは全然違う。
学校の皆がこの姿を見たら、たぶん倒れると思う。
「最近、全然来てくれないし」
「いや、今週だけでも三回来てるけど……」
「三回しか、でしょ?」
感覚がおかしい。
紗奈が頭を抱えそうになった、その時だった。
ピンポーン。
部屋にインターホンの音が響く。
玲奈が露骨に眉を寄せた。
「……こんな時間に誰」
「マネージャーさん?」
「今日は来ない日」
じゃあ誰だろう。
紗奈がそう思っている間に、玲奈は不機嫌そうに立ち上がり、玄関へ向かう。
数秒後。
「お邪魔します」
聞こえてきた声に、紗奈の肩が跳ねた。
「えっ」
リビングへ入ってきたのは、冬月莉緒だった。
高校一年生とは思えないほど大人びた雰囲気。
人気急上昇中のモデル。
学校では近寄りがたいことで有名な彼女は、けれど紗奈を見るなり少し表情を柔らかくした。
「こんばんは、紗奈先輩」
「な、なんで莉緒がここに!?」
「玲奈さんのマンション、知ってるので」
さらっと怖いことを言った。
「……莉緒」
玲奈の声が低い。
「どうして来たの」
「先輩がここにいるって聞いたので」
「誰から」
「玲奈さんのSNS」
「は?」
紗奈も思わずスマホを開く。
そこには数十分前に投稿された玲奈の写真。
何気ない自撮り。
けれどテーブルの端に、紗奈の飲みかけのカップがしっかり映り込んでいた。
「わざとだよね?」
莉緒がじっと玲奈を見る。
玲奈は悪びれもせず笑った。
「気付くかなって思って」
「玲奈さん、本当にそういうところ性格悪いです」
「莉緒にだけは言われたくない」
空気がぴりつく。
なのに二人とも笑顔だった。
怖い。
「紗奈先輩」
気付けば莉緒がすぐ隣に座っていた。
「今日は私も泊まっていいですか?」
「えっ」
「駄目」
玲奈が即答する。
「なんで玲奈さんが決めるんですか?」
「ここ私の家だから」
「でも紗奈先輩はいますよ?」
「いるけど?」
「なら問題ないですよね」
「大ありなんだけど」
また始まった。
紗奈は小さく天井を見上げる。
数ヶ月前までは、本当に普通だったのに。
ただ高校二年生になって。
ただ、転校生と後輩が増えただけ。
それだけだったはずなのに。
——どうしてこうなったのか。
その始まりは、春の入学式まで遡る。




