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第九話

 翌朝。

 カツ丼とおにぎりによって完膚なきまでに胃袋を敗北させられたセレス王国の使節団は、帰国の途に就こうとしていた。


 ただし、すぐに国境へ向かうわけではない。

 クロード陛下の「土産話に、我が国の『農業改革』の成果を見ていくがいい」という、底意地の悪い提案により、彼らは馬車で帝都近郊の農村地帯へと連れ出されていた。


 馬車に揺られるジェラール王太子は、昨夜の号泣が嘘のように、今は虚ろな目で窓外を眺めている。

 隣の聖女リリナは、懐に隠し持った予備のおにぎり(昨夜さらにねだってもらったもの)を愛おしそうに撫でていた。


「着いたぞ。降りろ」


 先導していたクロード陛下の馬が止まる。

 私も彼の後ろに乗せてもらっていたので、手を借りて地面に降り立った。


「こ、ここは……?」


 馬車から降りたジェラールたちが、息を呑んで立ち尽くす。


 そこには、かつて「死の湿地帯」と呼ばれていた場所の面影はなかった。

 見渡す限り広がる、黄金色の海。

 秋の風が吹くたびに、ざわざわと金色の波が立ち、重たげにこうべを垂れた稲穂が揺れている。


「こ、これが……あの『ライ』だというのか?」


 ジェラールが震える声で呟く。


「はい。正しくは『いね』と呼びますが」


 私は胸を張って答えた。

 私が帝国に来てからの数ヶ月、ただ厨房に立っていたわけではない。

 陛下の全面協力のもと、大規模な治水工事を行い、土壌改良を施し、この不毛の大地を一大穀倉地帯へと変貌させたのだ。


「馬鹿な……。我が国では雑草として、まばらにしか生えていなかったのに……。こんな、黄金の絨毯のように密集して育つなんて……」


「愛情と、正しい知識の差ですわ」


 私は稲穂の一本を手に取り、優しく撫でた。


「あなた方は、この子たちの声を聴こうとしなかった。『水が欲しい』『肥料が欲しい』という声を無視し、ただの邪魔者として扱った。だから育たなかったのです」


「……っ」


 ジェラールの顔が歪む。

 目の前に広がるのは、本来ならセレス王国を救うはずだった景色だ。

 もし彼が私の言葉を聞き入れ、私を追放せずに一緒に農業改革を行っていれば、今頃は祖国がこうなっていたはずなのだ。


 失ったものの大きさを、彼は視覚的に理解させられていた。


「マリエル……」


 ジェラールが一歩、私に歩み寄る。

 その瞳には、未練と、焦りと、そして打算の色が浮かんでいた。


「戻ってきてくれ」


「はい?」


「余が悪かった! 謝る! だからセレス王国に戻ってきてくれ! 君を……君を正妃として迎え入れよう! リリナは側妃に降格させる!」


「ええっ!? ひどいです殿下!」


 リリナが抗議するが、ジェラールは必死だ。なりふり構っていられない。


「君がいれば、我が国も救える! この栽培技術も、あの美味いカツ丼も、全て手に入るんだ! 頼む、マリエル! 昔のよしみじゃないか!」


 彼は私の手を取ろうと手を伸ばしてきた。

 あまりにも都合が良く、身勝手な懇願。

 かつて私を「悪女」と罵り、処刑台へ送ろうとした男の言葉とは思えない。


 私は冷めた目で彼を見つめ返し――口を開こうとした。


 しかし、その必要はなかった。


 ドォォォォンッ!


 突如、ジェラールの足元の地面が爆ぜた。

 土煙が舞い上がり、彼は「うわぁっ!」と情けない声を上げて尻餅をつく。


「……気安く触れるな」


 地獄の底から響くような声。

 私の背後から、漆黒のオーラを纏ったクロード陛下が歩み出てきた。

 抜剣はしていない。ただ、彼から放たれる圧倒的な魔力が、物理的な衝撃となって地面をえグったのだ。


「ひ、ひぃぃッ……!」


 腰を抜かしたジェラールに、クロード陛下は氷の視線を突き刺す。


「マリエルを『モノ』扱いするのはやめてもらおうか。栽培技術? カツ丼? 貴様が見ているのは彼女の能力と利益だけだ。彼女自身の心を見ていない」


 クロード陛下は私の腰を抱き寄せ、強く引き寄せた。


「彼女は余の伴侶だ。余は、彼女が握るおにぎりのためなら国一つ滅ぼせるし、彼女の笑顔のためなら世界中の食材を集めてくる覚悟がある。……貴様にその覚悟があるか?」


「そ、それは……」


「ないだろうな。貴様にあるのは、自分の保身と、空腹を満たしたいという欲求だけだ」


 クロード陛下の一言一句が、鋭利な刃となってジェラールを切り刻む。

 私は陛下の腕の中で、彼の体温を感じながら、静かに告げた。


「殿下。私は戻りません」


「マ、マリエル……」


「私はここで、陛下と共に生きていきます。陛下は私の料理を『美味しい』と言って食べてくださる。私自身を必要としてくださる。……それに」


 私は黄金色の田んぼを指差した。


「この国の人々は、泥だらけになって一緒に田んぼを作ってくれました。だから、このお米はガルディア帝国のものです。あなた方のものじゃありません」


「そ、そんな……。では、我が国はどうなる!? このままでは飢え死にするしかないのだぞ!」


 ジェラールが絶望の叫びを上げる。

 確かに、指導者としては無能だが、民を見殺しにするのは私も心が痛む。

 それに、ビジネスの観点から言えば、販路は多い方がいい。


 私はチラリと陛下を見上げた。

 陛下は「やれやれ」といった顔で肩をすくめ、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「セレス王太子。貴国を救う道は一つだけある」


「な、なんだ!?」


「通商条約だ。我が帝国から、貴国へ『米』を輸出してやろう」


「本当か!?」


 ジェラールの顔がパッと明るくなる。

 だが、クロード陛下は邪悪な――いや、優秀な為政者の笑みを浮かべた。


「ただし、価格はこちらが決める。代金は貴国の特産である『魔鉱石』と『高級織物』……それらを市場価格の半値で納入してもらう」


「なっ……! そ、それは不平等条約ではないか!」


「嫌なら帰って硬いパンでもかじっていろ。……ああ、忘れていたが」


 陛下は意地悪く付け加えた。


「マリエルの考案した『味噌』や『醤油』の輸出に関しては、さらに別料金だ。カツ丼を食べたければ、国の予算を削ってでも金を積むことだな」


「あ、悪魔だ……! 貴様は人の心がないのか!」


「あるさ。マリエルにだけはな」


 もはや交渉の余地はなかった。

 食糧難で今にも暴動が起きそうなセレス王国に、拒否権などない。

 ジェラールは屈辱に顔を歪ませながらも、震える手で条約書にサインをした。


「……覚えていろ! いつか必ず、この借りは返す!」


 捨て台詞を吐いて馬車に乗り込むジェラール。

 その後ろで、聖女リリナが私に向かって手を振っていた。


「マリエル様~! 輸出用のお米には、ぜひ『おにぎりレシピ』も付けてくださいませ~! 私、絶対買いますから~!」


「リリナ! 貴様、いい加減にしろ!」


 怒鳴り声と共に馬車の扉が閉まる。

 こうして、セレス王国の使節団は、大量の『借金』と、お米への『渇望』を抱えて去っていった。


          ◇


 馬車が見えなくなると、辺りには静寂が戻った。

 風が稲穂を揺らす、サラサラという音だけが響く。


「……行ってしまいましたね」


「ああ。これで少しは静かになるだろう」


 クロード陛下は私の肩から手を離さず、そのまま黄金色の景色を眺めた。


「マリエル」


「はい」


「礼を言う。お前のおかげで、帝国は強くなった。……兵士の胃袋だけでなく、経済的にもな」


 確かに、この不平等条約のおかげで、帝国はセレス王国から資源を吸い上げ、さらに富むことになるだろう。

 食を制する者は、世界を制するのだ。


「ふふっ、陛下が悪徳商人のような顔をされていますよ?」


「誰のせいだと思っている。お前の料理が美味すぎるのが悪い」


 陛下は私の頬をつつき、それから真剣な眼差しで私を見つめた。


「だが、約束しよう。この国がどれほど豊かになろうとも、余にとって一番の宝は、この金色の稲穂と……その隣にいるお前だ」


「……陛下」


 不意打ちの甘い言葉に、胸が高鳴る。

 夕陽が差し込み、世界が茜色と金色に染まっていく中、私たちは自然と距離を縮めた。


 チュッ。


 触れるだけの、優しい口付け。

 でも、そこにはどんな高級なスイーツよりも甘い幸福が詰まっていた。


「……さて、帰るか。腹が減った」


 雰囲気に浸る間もなく、陛下の腹の虫が可愛らしく鳴いた。


「もう。ムードがないんですから」


「仕方あるまい。ここに来る間、ずっと『新米』のことばかり考えていたのだからな。……今日は何を作ってくれる?」


「そうですねぇ……。新米なら、やはりシンプルに『卵かけご飯』もいいですが、お祝いですし……『手巻き寿司』なんてどうですか?」


「テマキズシ? なんだそれは。美味いのか?」


「もちろんです! 陛下の大好きな海鮮とお米のコラボレーションですよ!」


「……採用だ。急いで城へ戻るぞ!」


 陛下は私をひょいと抱き上げると、馬上の人となった。

 その顔は、世界を征服した皇帝の顔ではなく、今夜のご馳走を楽しみにする少年の顔だった。


 セレス王国へのざまぁも完了し、国の食糧問題も解決。

 あとは、私自身の幸せな「ごはんライフ」を極めるだけ。


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