最終話
黄金色の稲穂が収穫され、帝国の倉庫が新米で満たされた頃。
ガルディア帝国には、劇的な変化が起きていた。
まず、兵士たちの体格が良くなった。
かつては痩せこけていた彼らだが、毎日のどんぶり飯と味噌汁のおかげで、筋肉の付き方が明らかに変わったのだ。訓練場からは「もう一杯!」という元気な声が絶えず響いている。
街の食堂にも変化が現れた。
『おにぎり屋』『定食屋』という看板が掲げられ、長い行列ができている。
硬い黒パンは姿を消し、人々は湯気の立つ白いご飯を囲んで笑顔を咲かせていた。
そして、隣国のセレス王国からは、定期的に「土下座外交」とも言える使者がやってくるようになった。
彼らは魔鉱石や織物を山のように積み、「どうかお米を……あと、醤油の在庫を少しでも……」と泣きついてくるのだ。
噂によると、ジェラール元王太子は廃嫡され、今は離宮で自分でおにぎりを握る練習をしているとかいないとか。
そんな平和になった帝国の中心、黒竜宮の厨房で。
私は今日も元気に包丁を握っていた。
「マリエル様、またご自分で調理を? もうすぐ『婚約発表の夜会』だというのに」
料理長が呆れたように声をかけてくる。
彼のスキンヘッドは今日も艶やかだ。最近は味噌作りにもハマっているらしい。
「いいじゃないですか。夜会の準備なんて退屈なんですもの。それに、今夜はどうしても私が握りたかったんです」
私は炊き上がったばかりの土鍋の蓋を開けた。
ふわぁっ、と広がる甘い蒸気。
今年一番の出来栄えと言われる最高級の新米だ。
「……よし。最高の子たちね」
私は手を水で濡らし、塩をひとつまみ。
熱々の新米を手に取り、優しく、愛おしむように三角形に整えていく。
◇
夜。
城の最上階にあるバルコニー。
星空の下、私とクロード陛下は並んで手すりに寄りかかっていた。
夜会はまだ始まっていない。その前の、二人だけの静かな時間だ。
正装に身を包んだ陛下は、息を呑むほど美しい。黒の礼服に金の刺繍、そして整えられた黒髪。
普段の軍服姿も素敵だが、今の彼はまさに「皇帝」の風格を漂わせている。
「……マリエル」
陛下が夜風に揺れる私の髪を、そっと指で梳いた。
「どうした? 緊張しているのか」
「いえ、緊張はしていません。ただ……お腹が空いたな、と」
色気のない返答に、陛下が肩を震わせて笑う。
「ククッ……。お前らしいな。これから豪華な晩餐会だというのに」
「豪華な料理もいいですけど、やっぱり一番のご馳走はこれですから」
私は隠し持っていた包みを開いた。
中には、二つの『塩むすび』。
具も海苔もない、真っ白な三角形。けれど、月の光を浴びて真珠のように輝いている。
「……余のために握ってくれたのか」
「はい。新米の炊き立てです。冷める前にどうぞ」
陛下は嬉しそうに目を細め、その一つを手に取った。
私たちは夜空に向かって、おにぎりで乾杯するように掲げ、同時に口へと運んだ。
パクり。
口の中で、ほろりと米粒がほどける。
新米特有の瑞々(みずみず)しい水分。噛むほどに溢れ出す、濃厚で上品な甘み。
塩がその甘みを極限まで引き立て、飲み込んだ後も幸福な余韻が続く。
「んんっ……美味しい!」
「……ああ。美味い」
陛下が深く息を吐いた。
「世界中のどんな珍味を集めても、君の握るおにぎりには敵わん。……不思議だな。ただの塩と米なのに、なぜこんなにも心が満たされるのだろう」
「それは、愛情という名のスパイスが入っているからですよ。なんて」
冗談めかして言うと、陛下は真面目な顔で私を見つめ返してきた。
その赤い瞳に吸い込まれそうで、私はドキリとする。
「冗談ではないかもしれん」
「え?」
「マリエル。余は今まで、食事とはただの『補給』だと思っていた。味などどうでもいい、ただ生きて戦うための燃料だと」
陛下はおにぎりを食べ終え、私の手を取った。
大きくて温かい手。その指先には、剣だこがある。
「だが、お前が来てから世界が変わった。食事をする時間が楽しみになり、明日への活力が湧くようになった。……お前の料理を食べると、余は『人間』に戻れる気がするのだ」
冷徹な皇帝と呼ばれ、常に気を張って生きてきた彼。
その彼が、私の料理で安らぎを得てくれていたのなら、料理人として――いいえ、一人の女性として、これほど嬉しいことはない。
「マリエル」
陛下が改まった声で私の名を呼ぶ。
彼は私の前に片膝をついた。
まるで、騎士が姫に忠誠を誓うように。
「へ、陛下? こんなところで何を……」
「聞いてくれ」
彼はポケットから、小さな小箱を取り出した。
パカッと開けられた箱の中には、お米の形……ではなく、純白のダイヤモンドが輝く指輪が入っていた。
「余の妻になってほしい。皇后として国を導いてほしいなどとは言わん。ただ……」
陛下は少し照れくさそうに視線を逸らし、それから意を決したように私を真っ直ぐに見上げた。
「一生、余のために味噌汁を作ってくれないか」
――プッ。
私は思わず吹き出してしまった。
あまりにもベタで、あまりにも彼らしい、不器用なプロポーズ。
古風な日本の定食屋のオヤジさんみたいな台詞を、異世界の皇帝陛下から聞くことになるなんて。
「笑うな。余は真剣だ」
陛下が少しむくれる。耳まで赤くなっているのが可愛い。
「ふふっ、ごめんなさい。あまりにも嬉しくて」
私は涙を拭い、彼の手から指輪を受け取った。
そして、最高の笑顔で答えた。
「はい、喜んでお受けします。……ただし、条件がありますよ?」
「条件? なんだ、なんでも言ってみろ。国の一つや二つ、切り取ってこようか?」
「そんな物騒なものはいりません」
私は彼の手を引いて立ち上がらせ、その首に腕を回した。
「ご飯とお味噌汁のおかわりは、自由にしてくださいね?」
陛下は一瞬きょとんとして、それから堪えきれないように破顔した。
それは今まで見た中で一番、少年のような無邪気な笑顔だった。
「ああ、約束しよう。余の全財産をかけて、お前の腹をいっぱいにしてみせる」
「ふふっ、言いましたね? 私、燃費悪いですから覚悟してくださいよ」
月明かりの下、私たちは口付けを交わした。
唇に残るお米の甘みと、少しの塩気。
それはどんな甘いお菓子よりも、私たちにはお似合いの味だった。
◇
それから数年後。
ガルディア帝国は、「美食の国」として世界にその名を轟かせることになる。
他国からの侵略者は、国境沿いに漂うカレーライスの匂いに戦意を喪失し、こぞって観光客へとジョブチェンジした。
外交問題は円卓ではなく、ちゃぶ台を囲んで鍋をつつくことで解決されるようになった。
そして、その中心にはいつも、おにぎりを頬張る美しき皇后と、それを愛おしそうに見つめる皇帝の姿があったという。
「あなた、今日のお昼は何にしますか?」
「そうだな……やはり『おにぎり』がいい。具はマリエル、お前の好きな鮭でどうだ?」
「賛成です! あ、でも明太子も捨てがたいですね……」
食いしん坊な悪役令嬢と、彼女に胃袋を掴まれた皇帝陛下の幸せな食卓は、これからもずっと続いていく。
ごちそうさまでした!
(完)
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