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第五章 その7 おっさん、講演会に行く

 その年初めて降った雪が、うっすらと街路を覆ったある休日のことだった。


 回復術師科首席入学のナディア・クルフーズは朝一番の郵便で実家からの手紙を受け取った。


 病院を通じて送ってもらったのだろう、封筒には地元病院の紋章が押印されている。だが彼女の両親はほとんど文字が書けない。書面は回復術師バゼドウ先生の代筆だった。


『ナディア、お話は聞きました。大学の先生から認められるなんて凄いですね、あなたは私たちの自慢の娘です。もう村のみんなが、あなたの将来を楽しみにしています』


「あはは、そう言われるとなんか恥ずかしいな」


 パチパチと火花を飛ばす暖炉の傍に腰掛けながら、ナディアは苦笑いして便箋をめくる。


『領主様に相談したところ、あなたが大学に通うだけの経費は用意できると仰られました。なので安心して学校に通ってください。末は教授か官僚か、あなたには無限の未来が開けています』


「無限の未来、かぁ」


 読み終えた手紙を手に持ったまま、ぼうっと天井を見上げる。


 そして大学に通う自分の姿を想像する……いや、想像しようとしたものの、明確に浮かび上がらなかった。大学に行けると言われても、どうも実感が湧かないのだった。


「私は回復術師になりたいだけなのに……何でみんな大学を勧めてくるのかしら」


 そう呟きながら立ち上がり、毛皮の外套を羽織る。さらに手袋もはめると、先日コメニス書店で買った本を片手に、寒さ厳しい屋外へと向かった。


 今日は午前中から、放浪の貴族レフ・ヴィゴットが大学の講堂を借りて開く講演会があるのだ。




「北方の帝国を旅したときの話です。帝国の沿岸部は巨大な崖の入り組んだ巨大なフィヨルドになっています。あれはまさに天然の要塞、敵船が入り込んでも陸からの一斉射撃で撃沈されましょう」


 魔術師養成学園のそれよりもさらに二回りは巨大な円形の大講義室を、ぎっしりと埋め尽くす老若男女。その全員の視線を受けながら饒舌に話すレフ・ヴィゴットの名は、世代を問わず知られ渡っている。


 先日出版されたばかりの旅行記の宣伝も兼ねたこのイベントは、日々の仕事で忙しく滅多に遠出できない人々が憧れの異国に想いを馳せる数少ない機会だった。


 講演も大盛況の中終了し、続々と席を離れる人々。だが室内のある一角には両隣の客がいなくなってもまだ立ち上がらないふたりの少女と大男がいたのだった。


「羨ましいです、私も遠い国に行ってみたいです」


 書店の娘ハーマニー・コメニスがうっとりしながら、ここではないどこかを見つめている。


「ハーマニーは王国を出たことはあるのかい?」


 隣に座るハインが尋ねる。偶然にも伯爵領で知り合った義理で出席してみたが、思った以上に面白かったので大変満足していた。


「いいえ、それどころか王都を出たことも片手で数えられるほどしかありません」


 ハーマニーがため息混じりに返す。その隣では、ナディアがホクホク笑顔でレフ・ヴィゴットの著書を胸に抱いていたのだった。


「講演会が終わったら、この本にサインを入れてもらいます。知り合いのよしみで控え室まで通してくれるそうなので」


「ナディアさんはヴィゴットさんがお好きなんですね」


「ええ、すっかりファンよ。この本ももう2回読み返してるわ」


 参加者も大半が掃け、大講義室が寂しくなってきた時だった。前の方の席に座っていた男がこちらに気が付くと、まっすぐに向かって歩いてきたのだった。


「やあ、ナディア君」


 声をかけてきたのは魔術理学の権威、ジャン・エミール・ルソー教授だった。先日、魔術師養成学園での講義でナディアの才能を見抜き、大学に誘ったあのルソー教授だ。


「ルソー先生、こんにちは。先生も講演をお聞きになられていたのですか?」


「ああ、ヴィゴット君とは個人的につながりもあってね。講演会を開きたいと言うから、私を通じて学長に掛け合って許可をもらえたんだよ。ところで、大学への進学については決心もついたかな?」


 教授が期待を込めて尋ねる。だがナディアは「うっ」と返事に詰まってしまった。


「いえ、申し訳ありませんが……まだ決めかねています。私は故郷の病院で回復術師として勤めることばかり夢見てきたので、そんな話まるで考えたことも無くて。でも、故郷のみんなは大学への進学に賛成してくれているようで」


 教授は表情を変えず、頷きながら聞き入っていた。


「そうか。大学に行くのはナディア君自身だ、自分の本心に問いかけて最良の決断を下してくれ。時間はまだまだあるのだから心配はしなくていい。ただ、私としては良い返事を期待しているよ」


 教授の言葉に「ありがとうございます」とナディアは返す。


「教授、お尋ねしてよろしいですか?」


 突然のことだった。ハインが背筋を伸ばし、恭しくも割って入ったのだった。


 教授は「何かね?」とハインに向き直る。その神妙な面持ちに、真剣さを感じたようだ。


「ナディアが才能豊かであることはクラスメイトの私も十分に理解しています。彼女ほどの才覚なら、どこへ行っても通用するでしょう。ですが、ある方は仰いました、相当の覚悟がなければ大学に行っても意味はない、中途半端では潰れてしまうと。ナディアは元から回復術師になるために勉強をしてきたのであって、大学に通おうとは思っていませんでした。なのでいくら彼女に素地があると言っても、大学に入ったあとの将来像が見えない今、決断を急かすのは早急ではありませんか?」


 教授に対して失礼とも言えるこの質問、ハインも尋ねるのは直前までためらっていた。


 だが教授はじっと聞き、しばらく無言で考え込んだ後、ゆっくりと答えたのだった。


「その話はパーカース先生から聞いたのかね?」


「はい」


 ハインは頷いて返した。ナディアもハーマニーも声を上げず驚く。


 教授はふうと息を吐くと、「詳しくは私の研究室で話そう」と大講義室の外へとハインたちを誘ったのだった。


 長い長い廊下に扉が並ぶこの一角は、教授陣の研究室が集まっていた。いずれも各界の専門家、その分野では右に出る者のいないスペシャリストたちだ。


 その中でも最も日当たりの良い一室に、ルソー教授の研究室は置かれていた。中は窓を塞ぐほどぎっしりと本が置かれ、壁には人体の描かれた図や魔術理学の複雑な計算式の表が貼られていた。


 教授はやかんに満たされた水を瞬間沸騰魔術で一瞬でお湯に変えると、珍しい東方の茶を淹れてくれた。紅茶ともまた違う、苦味の中に妙な爽やかさも感じられ、まるで新鮮な草木に包まれている気分にさせてくれる。


「パーカース君は私の教え子だ。職人の家の生まれだが幼い頃から非常に優秀で、ずっと王立大学に憧れていたそうだ。だが入学して、初めて知ったのだ、世の中には青天井の才能を持つ者がいることに」


 教授は茶を淹れたカップを揺らしながら、ハイン、ナディア、そしてハーマニーと向かい合って机に座っていた。


「当然、パーカース君も十分に優秀な学生だった。だが彼女にはそれまで、比較対象となる者がいなかったのが不幸と言える。大学に入る者は総じて、各地の学校で最優秀の成績を修めてきた学生ばかりだ。つまりそれまで競争で負けたことが無い、いや、周りと差がありすぎて競争なんて風にさえ思いもしなかっただろう。だが大学には自分の才能を大きく上回る学生も入学する」


 聞きながらハインは徐々に複雑な顔を見せ、隣のハーマニーは今ひとつ理解ができないと言った様子で目を細めて茶のカップに口を付けている。


 そしてナディアは一言一句聞き漏らすまいと、鬼気迫る表情で教授の話に耳を傾けていた。現在彼女は学科トップの成績であるが、当然ながら地元でも同様学業においては敵無しだった。普段は飄々としているナディアだが、それはたゆまぬ努力の賜物であり、首席入学生としての自負もある。これは彼女にとって実に聞き逃せない問題なのだ。


「20になってから人生で初めての敗北を知るんだ、初めて経験するやり場のない想いを、うまく処理することのできない学生は多い。今まで築き上げてきた人生を否定されたように思うのだろう、これをきっかけに大学を去る者もいる。パーカース君の研究内容は自然科学の理論を大いに取り入れたもので、魔術理学としては如何せん正当性に欠ける論旨だった。おかげで評価は散々たるもので、すっかり打ちのめされてしまった。なんとか卒業まではこぎつけたものの、結局彼女は研究員を志望せずに就職した。大学にいるのが辛かったのだろう」


 そして教授はお茶をすする。ハインもナディアも、じっと聞き入ってしまったせいでせっかくのお茶もすっかり冷めてしまっていた。


「でも変ですね、そんなに大学が嫌ならもう研究を続けなければよいのに。昔の嫌な思い出なんてきれいさっぱり忘れて、今の仕事に打ち込めばよいのではないでしょうか」


 空っぽになったカップを弄りながら、ハーマニーが不意に尋ねる。彼女は先日の酔っ払い事件のおかげで、パーカース先生が大学を去り学園の教員になった後も、学会で研究を発表していることを知っていた。


 聞くなりルソー教授は「いや違う」と首を横に振る。


「彼女は研究についてはどこまでも直向きだ、本心では大学に戻りたいと思っている。ただ皆に認められるか、学会の常識を外れた自分の研究が大学の名を汚さないか、その点で自信を失っているようだ」


「そういえばパーカース先生、前の論文をまだまとめていないみたいだな」


 先日のヘルバール先生との会話を思い出しながらハインが言う。これも自分の理論に自信が持てない表れだろうか。


「複雑ですね大人の世界は。もっと白か黒か、はっきりしてくれればわかりやすいのに」


「何も彼女が異端児などではない。自然科学と魔術理学の融合を目指したものの、学会で認められず潰れてしまった者は多い。市井の職人でも、王立大学を卒業した者は何人か知り合いがいるよ」


「あれ、それって鍛冶屋のヴィーネさんのことですか?」


 意外なところで反応したハーマニーに、ナディアが「知ってるの?」と驚いて尋ねる。


「はい、3年前に大学の魔術工学科を卒業されたのですが、それ以降嫁にも行かず、家にこもって変わった研究に没頭しているって、鍛冶屋の旦那さんが愚痴こぼしていました。最近ではお兄さんも一緒になって研究にのめり込んでいるって。近所では有名ですよ」


「ああ、魔動機械専攻のあの娘か。たしか熱力学を応用した『ジョウキキカン』というものの開発に勤しんでいるそうだが……専門外なので詳しくはわからないな」


 教授は再びお茶をすすろうとするが、すっかりカップが空になっていることに気付き、また新しく瞬間沸騰魔術でお湯を沸かしたのだった。


「鍛冶屋の兄妹か……」


 目の前で淹れられる異国の茶の香りに包まれながら、ハインは腕を組んで考え込んでいた。

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