暗がりの城
サレアは悲鳴を上げると、エリザベータに近付くこと無く後ずさる。
「誰か! 城壁に侵入者です!」
但し視線は黒ずくめの侵入者と、抱えられ意識の無いエリザベータから動かさない。程なくして、サレアの元へ走り寄る複数の足音。
「何処ですか!」
「彼処に……!?」
駆けつけた衛兵達の問いかけに、サレアは一瞬だけ彼らを振り返った。顔を確認すると、彼女は再度エリザベータの方へ視線を戻して指で指し示す。けれどそこには誰の姿も無く、サレアは目を見開き言葉を失った。
「そんな、彼処に」
衝撃を受けるサレアとは裏腹に不審な顔で首を傾げる衛兵達。彼女は呆然と崩れ落ち、青ざめた顔色でエリザベータが居た場所を見つめる。慌てる衛兵達の向こう側、サレアの後ろから一人の男が姿を現した。衛兵達は彼に気が付くと、こちらも慌てて道を開ける。
「侍女殿?」
難なくサレアの背後にたどり着いた男は、未だ反応を見せない彼女の肩を叩いた。促されるようにサレアが上を仰ぎ見るとそこには。
「リューン様」
掠れる声で呟かれた名前。いつになく冴えないサレアの様子に、リューンは眉根を寄せた。
「何があった」
自失しているサレアの背を励ます様に軽く叩き、リューンは周囲に立つ衛兵達に状況報告を求める。その厳しい声音はサレアの正気を取り戻し、彼の問いに周りが答える前にと、彼女は足を震わせたまま、けれど力強く立ち上がった。
不躾ながらリューンの服の袖を掴み、サレアは彼の注意を引く。彼が再度彼女を見下ろすと、サレアは手を離し唇を開いた。
「彼方の城壁の上に突然侵入者が現れたのです、魔の者かもしれません。私はその場に居合わせて。詳細をご報告申し上げたいのですが、恥ずかしながら恐ろしさのあまり立っていることもままなりません」
まるで勝負でも仕掛けているかの様なサレアの強い眼差しに、リューンは僅かに目を細める。
「そうか、では私の執務室へ。此処から近い」
その場での問答を止め、リューンは二・三の指示を衛兵達に残しサレアだけを連れ歩き出した。人の気配が途切れた刹那、彼は一つだけ彼女へと質問を投げかける。
「エリザベータ殿に、何か?」
「魔族に、誘拐された可能性があります」
殺されたかもしれないという言葉はどうしても言えず、サレアの胸の奥深くへと仕舞われた。
***
大きな階段を前方に抱える大広間、髑髏が彫り込まれた黒く艶やかな柱の側で二人の男が向かい合っていた。
間にはエリザベータ。無造作に床へ横たえられた彼女は呼吸音も微かなもので、まさに死んだように眠りに落ちている。
エリザベータの意識は魔の海を揺らいでいた。今までに彼女が感じたことのない密度のそれは、身体を暗い水底へと引きずり下ろす。
何一つ自由にならない、その事実さえ知覚が叶わず時間は止まる。それでもやがて、意識だけが辛うじて浮き上がった。
――生きている。
エリザベータはそれ故の身体の重さに安堵したが、視覚と触覚はまるでない。香るものが無いのか嗅覚が失われているのか、彼女自身には判別がつかないが臭いを感じることもなく。せめて聴覚は、とエリザベータが耳をすませると、彼女を挟んで立つ二人の話し声が聞こえてきた。
「意識を失っているだけカイ、つくづく人間とは思えないネェ」
「色々法具を持っとるけど、魔力を防ぐような物は無さそうやな。やっぱり人間や無いんやないか?」
「どうだろうネェ、聞いてみないと分からないヨォ」
「それもそおか。ま、その為に連れてきたんやし」
男の一人がエリザベータを蹴飛ばす。起きているかを確かめる為なので力は入っていないが、それにしても彼女の反応がない。それもそのはずで、エリザベータは蹴られた事に気付かず、聞き覚えのある声の主を思い出していた。
一つは意識を失う直前、つまりエリザベータを誘拐した人物の声だ。もう一方にも話し方に既視感を感じ、彼女は過去を振り返る。
――シュルイドの時の。
一度相見えた幹部の一人である。エリザベータの意識があるとは思わず、堂々と交わされる話。お互いに畏まった様子は無く親しげに話しており、誘拐犯もやはり幹部の一人なのだろうとエリザベータは推察した。そこまでを現状として把握すると、彼女は会話の内容へと思考をのばす。そして、笑った。勿論意識の上だけで実際の表情は動かない。
エリザベータが人間か否かなど、彼女には論議するまでも無いことである。仮に人間では無いと言われたところで生き方を変える気もない。
エリザベータは人間として生まれ、人間として生きているのだ。
けれど、そこでエリザベータは思考を揺らす。この誘拐の理由に彼女が人間か否かが関係あるというならば、エリザベータは彼らにとっての仲間、つまり魔族であると認識されているのだろうか、と。
エリザベータは酷く気持ちが悪くなるのを感じた。
「しかし随分と顔色が悪いネェ」
そのせいなのか、元々の気だるさのせいなのか。傍目にも体調不良が見て取れるらしい。幹部の一人がエリザベータの顔をのぞき込む。
「そうか?」
けれどもう一人はすげない返事で早々にこの話題を断ち切った。
やがて彼らの話が取り留めもない雑談になり、エリザベータは誘拐された時のことを思い起こす。
城壁の上でエリザベータが一人息抜きをしていたら、城の結界内への進入を知らせる耳飾りが光った。彼女がそれを受け取ってから、初めてのことである。
フィルディガンテの王城は神の技術によって造られたという伝説を持っていた。通常の法術とは違い、直接城に練り込まれた結界は特殊で、非常に強固なものである。壊す為には城自体を破壊しなければならず、それは結界の影響下ではほぼ不可能だと言われていた。但し通常の法術による結界と違い、実は壊さずとも押し入る事が出来なくはない。けれど許可なく入ったが最後、言葉の通り身を切り裂く苦痛が待っている。進入者は総じて虫の息になるのだが、それでも念の為だと用意されているのがエリザベータが付けている耳飾りだった。
エリザベータだけでは無く、これは将軍や近衛・衛兵の一部が万が一に備えて携帯している法具である。彼女が誘拐された折りにも一斉に閃光を放ったはずで、無事に逃れたであろうサレアの証言と合わせて、非常事態は伝わるとエリザベータは信じて心を落ち着ける。
――ラクセル兄様は御無事でしょうか、城壁とは違い奥まった場所にいらっしゃるはずですから大丈夫だとは思いますけれど。
思考の流れでエリザベータは従兄の顔を頭に浮かべた。意識を失った後どうなったのかが何一つ分からない為に、彼女の心臓は重々しく鼓動を刻む。内心で、ため息を吐いた。
今まで城への侵入者と言えば馬鹿な盗賊か迷い込んだ頭の弱い魔物くらいで、まさか幹部が城内へ侵入するなどエリザベータに限らず、人間達にとって思いもよらぬ事である。気が抜けていた事は認めれど、過去を遡ってもエリザベータはそんな史実を聞いたことがない。今回の襲撃期はイレギュラーがあまりにも多くないだろうかと、彼女は憂いを抱いた。
「取り合えず、隔離部屋に行くかネェ」
と、会話を終えた幹部の一人がエリザベータを小脇に抱える。どうでもいい荷物のような持ち方だったが、彼女には触れられた感覚さえ無い。
けれどそれを区切りとする様に、エリザベータは王城について考えることを止め再び心を落ち着かせた。
幹部達はエリザベータが“人間かどうか聞いてみなければ分からない、その為に連れてきた”と言ったのだから、その問答が出来る程度には彼女を回復させるはずである。エリザベータはその後の事をこそ考えなければいけない。
何故なら濃密な魔が揺蕩うこの場所は、始まりと終わりの地。五感の殆どを閉ざされたエリザベータでも想像するにたやすい、魔王を頂く魔族の本拠地、魔界だからだ。
魔王に爪の先程でも血を流させれば、人間達の勝ちである。
味方は誰一人無く、周囲の状況を把握することもままなら無い。加えて身体の自由も利かないエリザベータだが、極めて低い可能性でも命を懸ける覚悟を決める。
意識が沈む直前、頭の中を占めていたジオリスの事。幹部の言葉をすっかり忘れて、エリザベータは長い廊下を運ばれていく。
再会は近い。
******
エリザベータが連れてこられた“隔離部屋”は正方形の小部屋である。灰色の壁に黒い扉。加えて一番の特徴は、魔の希薄さ。エリザベータを運んだ幹部が部屋を出て暫くすると、彼女の身体は徐々に軽くなっていった。同時に、背中の柔らかな感触も分かるようになる。
エリザベータは部屋の中央に鎮座する寝台へと横たえられていた。上掛けなどは無くただ乗せられているだけだが、先程まで床に放り出されていた事を鑑みると随分と待遇が良いと言える。但しそれを知らないエリザベータにとっては、素直に荒っぽい扱いだと思われていた。寝台の長方形に対して斜めに置かれた為に頭と足先が飛び出しており、特に頭は血が上る程なので当然である。
すぐさま直したい気持ちを抑え、彼女は静かに目を閉じていた。身体の調子が完全に戻るまでは、気を失ったそぶりが良いだろうと緩やかな呼吸を繰り返す。
懲罰用か、人間用か。いっそ身体から抜けていく感覚をもたらす魔の密度が、エリザベータを束の間の安らぎへ誘った。
力が抜けきり肌に触れる感触がはっきりしてくると、エリザベータは法具の有無を確かめていく。両耳の耳飾り、首もとを彩る首飾り。右腕の腕輪、左手の指輪。繊細な細工物は感覚が上手く伝わらず、目を閉じたエリザベータには分からなかったが概ね揃っている様だと彼女は胸をなで下ろし回復に努める。
やがて全身を縛る気だるさが消えた頃、エリザベータはそっと瞼を開いた。目だけを動かして素早く辺りの様子を確認する。見える範囲に人影は無く、身体を起こし死角も全て改めると、エリザベータは最後に自身の身体を見下ろした。腰に下がる色とりどりの法具を視界に収め、右手の人差し指を宙に立て唇を動かす。
「闇に灯るは焔の鮮紅、小さき炎を召還せよ」
蝋燭の様な火を呼ぶ法術である。常ならばエリザベータの指先に揺らめく赤が、今は無い。彼女は眉を顰め、今度は法具の一つを取り出した。左手で摘んだそれを、右手で強く弾く。けれどやはり反応が無い。
眼前へと持ち上げた純白の石を、エリザベータは覗き見る。術式は残ったままで、法具自体に不備は無い。つまり法術発動の起爆剤である精霊が居ないのだろうと、彼女は正確な予測を立てた。
法術は使えない。
魔術を使おうにも皮膚を裂いた瞬間、また魔にのまれる可能性がある。いよいよ魔王に相対する時ならばともかく、今それを試す事は躊躇われた。同じ理由で、道具を取り上げられては使えなくなる、法術に関する奥の手も頭の隅へと追いやる。
エリザベータは太股と背中のナイフを一撫でし、法具とは反対に提げられた黒杖を握りしめた。引き締められた表情とは裏腹に、彼女の背中には哀愁が漂う。姫術士と称されるエリザベータの攻撃手段が物理攻撃ばかりなのだから、不安が滲むのも仕様のない話である。
それでもこの状況下、運任せにせず助かる為には実のところ寝返る以外、魔王を倒すほかに無い。此処で助けが来るだとか逃げられるだとか、思ってしまえるのは現実逃避をしている人間だろう。エリザベータは立場としても、気持ちとしても、現状としても。やるしかないのである。
と、黒い扉の外、廊下を歩く足音が近付く。エリザベータは隠れ場所を探して辺りを見回したが、めぼしい物は何も無かった。室内には彼女が腰を下ろしている寝台のみで、まず物が無いのである。
エリザベータは寝台を見下ろし目を閉じて、すぐに瞼を開いた。立ち上がり、来訪者を待つ。
足音が止まり、扉が開いた。
「何や、法術を使おうとしたんか」
顔を出したのは髪の長い魔族である。シュルイドの襲撃時に、エリザベータと対峙した幹部の一人だった。竜の描かれた左目を眇め、彼女を見つめる。言い当てられたエリザベータは訝しげに男を見たが、彼は気にせず腕を組み佇んでいた。
「どうして」
エリザベータは思わず疑問を言葉にしかけて、無意味を思い出し口を噤む。
すると男は腕を解き、エリザベータへと近付いた。
勢いのまま手を伸ばす男。エリザベータは反射的に手で振り払おうと、右手をあげる。彼は危なげなくこの一振りを避けると、彼女に足払いをかけた。エリザベータも後ろに跳び回避しようとし、寝台にぶつかり僅かに態勢を崩す。この一瞬の隙を見逃さず、男は強い踏み込みで彼女の腹部を殴りつけた。
「い、けほっ」
遠慮のない一撃にエリザベータは寝台へと倒れ込む。
呻くエリザベータの襟首を掴むと、男は白銀に光る金属製の首輪を彼女の首へと填めた。途端に彼女を襲う鈍い倦怠感。腹部を庇うエリザベータを余所に、男は彼女の腕を掴むと鼻歌交じりに部屋を出ていく。男はエリザベータが遅れても気にせず引きずっていく為、彼女は自然と駆け足になっていた。
何処へ行くのか、何故連れ出したのか、当然の如く説明は無い。彼女も答えが無い事を見越し、ただ男の後を追った。
流されるままにエリザベータは腕を引かれる。足音は二つきり、城内は死の気配に包まれ静寂に淀んでいた。唾をのみこみ、彼女は眈々と機をうかがう。薄暗い廊下は闇に吸い込まれるように何処までも続いていた。
ふと、エリザベータは掴まれていない左手を見る。指先を動かし、動いた事実に驚く様に口元に手を当てた。歩みを止めぬまま視線を揺らす。部屋を出てから濃密な魔の気配は揺るぎ無く存在し、変わらず彼女を取り囲んでいる。先程までとの違いを探し、エリザベータは首を覆う銀色の拘束具へと手を伸ばした。
「これは、何ですか」
思わず唇から問いかけがこぼれる。すると間髪無く男がくるりと振り返った。
反応があったことに驚いたエリザベータの足が止まるが、男は引きずる様に彼女を前へと促す。よろめきながら、エリザベータは男に続いた。
器用にも後ろ向きに前を歩く男は、エリザベータの指の先を一瞥する。
「ああ、それな。前来た人間の……うん、形見? 魔の中でも活動出来る法具やよ。まぁ、そいつの場合。三日目には反発にあって狂っとったけど」
親切なまでにきっちりと答えた男を、エリザベータは呆然と見つめた。唇だけを押し開く様に、更に彼女は質問を重ねる。
「何故、私を此処に、魔界に、連れてきたのですか」
「わしらじゃ分からんでなぁ、見せとこ思てん」
エリザベータは何が、と音無く言葉を口にし、それを閉じた。
――私が、魔族かどうか? そう、そう言えばまだ、聞かれておりません。
それが誘拐の目的だと言うのならば、何故男はエリザベータに聞かないのか。そもそも尋ねるだけで良いのならば、この一連の御前立ては不必要である。
つまり、男はエリザベータに尋ねたい訳ではない。
「何を」
エリザベータはごくりと唾をのみ。
「誰に?」
か細い声で呟いた。
男は笑い、二人を挟む石壁が嗤う。
「お前を魔王に、見せとこ思てん」
これはチャンスなのだと、エリザベータは堅くなる身体を叱咤した。
***
短い問答の後、二人は魔の密度が大きい暗闇の奥へ黙々と足を進めていた。影は蠢き、怪物を象った彫刻が濁った眼差しで彼らを見送る。
エリザベータは平然を装い大凡成功していたが、心音だけは制御出来ない。耳元で響く早鐘に、否が応でも緊張感は高まっていった。
幾度目かの曲がり角を、右へと進む。男の肩越し、エリザベータの視線の先に現れたのは、あからさまにおどろおどろしさを主張する大きな一つの扉である。
エリザベータは魅入られた様に足を止め、男に腕を引かれ再び歩き出す。何処か熱に浮かされた気持ちを胸の奥に抱え、彼女の眼差しは扉の向こうを透かし見た。
男は扉の前へたどり着くと、ノックもせずに左足を宙へと浮かす。ついで、轟音。驚いたエリザベータが視線を移すと、王の居る部屋の扉を蹴破ったとは思えない飄々とした男がそこに居た。男はエリザベータの腕を更に引き自分の前へ出すと、遠慮も無しに彼女の背中を強く突き飛ばす。エリザベータはつんのめり、四歩五歩と多々良を踏むも態勢を持ち直した。廊下よりも一段暗い漆黒の室内で、彼女は顔を上げる。
そこには一際黒い霧を纏った、美しい男が佇んでいた。
「よぉ、魔王。連れてきたさかい、はよう見てくれや」
「……何故、入室の許可を取らない」
「言うたら入れてくれるんかいな」
「……入れない。我は一人が良い」
「そうやろ、そやし聞かないんや。こちとら用事があるんやからな。ほれ、こちらはんが例のお姫はん。関わりとおないならさっさと見いや」
二人のやりとりはエリザベータの耳を素通りしていく。彼女は目前の男、魔王を食い入るように見つめた。
夜を閉じこめた様な長い黒髪を一つに束ね、紫水晶よりも透き通るしめやかな双眸。身に付けた黒衣に混じる朱の紋様は、神代に使われていたという古代文字をエリザベータに思い起こさせた。
魔王は溜息を吐きながら、エリザベータに歩み寄る。それは彼女が隠し持ったナイフを振れば届く距離で、彼が鋭い爪を振るえば届く距離で。けれどエリザベータは魅せられた様に、身じろぎ一つ出来なかった。
魔王がゆっくりとエリザベータへ手を伸ばし、彼女は心の中でだけ一歩後ずさる。エリザベータを連れてきた幹部の男は扉の前で腕を組み、欠伸を一つこぼした。
「……やっ!」
魔王の手がエリザベータの額に触れた瞬間、漸く彼女の精神が拒絶を促す。エリザベータは短く声を上げ、魔王の腕を引っかく様に右手を振るった。けれど彼を囲う黒い霧が瞬時に深まり、彼女の抵抗は冷たく弾かれる。
魔王はエリザベータを気にすること無く彼女に背を向けると、背もたれの高い、やはり黒々とした椅子へ腰掛けた。幹部の男が魔王に目を向け、何かを促す様に首を傾げる。魔王は眉を顰め、面倒くさげに口を開いた。
「……人間だ」
そして口を閉じる。
幹部の男は唇を尖らせた。
「なんや、それだけかい」
その不満げな様子を一瞥すると、魔王は頬杖をつき言葉を続ける。
「……毒素を抜く魔力器官が体内にある、それ以外は人間だ。呼吸で魔を取り込めないから、器官を巡る血液に直接それをさせている。そして絶えずある飢えのせいで、魔族と違い自動的に魔を吸い込む」
魔王は言葉を止めた。
ナイフを手に滑らせたエリザベータを、魔術が絡め取り阻む。
「魔族の定義には当てはまらんか」
「……人間の定義に当てはまる」
エリザベータは残る左手で自身の首飾りを掴んだ。次の瞬間爆発的に、魔王の周囲に炎が広がる。彼女の背後から賞賛する様に軽やかな口笛が響き、エリザベータの右手が自由になった。再度自分を傷つけようとナイフを動かしかけて、彼女は炎の中揺らぐ黄金混じりの紫の眼差しに釘付けになる。幻だったと言わんばかりに燃え盛る赤が消失し、美しいその人の唇が動いた。
「……この場所で魔術は止めておけ。術を使う前に、飲み込まれ死ぬ」
「どう、して」
助ける様な事を言うのか、恐ろしい訳では無いのに身体が動かなくなるのか。エリザベータは混乱の中、力無く右腕を下ろす。魔王は彼女の疑問を意に介さず、一歩も動くことの無かった幹部の男を流し目に見た。男は両手を上げ降参を示すと、肩を竦め弁解を始める。
「まさか友好的なまま精霊を物に閉じ込めて持ち歩けるとは思わなかったんよ。わしは無実や」
叛意があってエリザベータを放置した訳では無い。内容の割に些か必死さの足りない、あっけらかんとした男の話しぶり。けれど魔王は興味が無いのか、すぐにエリザベータへと視線を戻した。
「……優秀な事だ」
そしてエリザベータに対してもすぐに興味を失ったのか、焼け焦げた椅子から立ち上がり奥の扉へと向かう。不思議と煤一つ付いていない後ろ姿を見送りかけ、ふいに我に返ったエリザベータは慌てて後を追った。けれどそれは間に合わず、魔王だけを内に入れ扉が閉まる。
エリザベータは失望を面に出す間も無く後ろを振り向き、傍観を貫いていたはずの男から伸びる手に鋭いナイフを突きつけた。いつの間にやら、二人の距離はあと一歩のところまで迫っている。
「触らないで下さい」
エリザベータは男を睨み、距離を取ろうと半歩下がった。
「断る」
但し、とても端的な否定の言葉で男はエリザベータを追い詰める。彼女の視界が粘り気のあるどろりとした闇に閉ざされると、あっと言う間にエリザベータの右手からナイフが消え、頭に痛みがもたらされた。
魔術が晴れるとそこにはエリザベータの長い髪を鷲掴みにして、二人が入ってきた扉へと向かう男の姿が現れる。
エリザベータは術士である。近接戦闘は嗜み程度、加えて魔術も使えない。法術の手段は奪われていないが、何をしようとしているのか先読みする相手。この状況下の抵抗は流石に無意味と、彼女は小走りで男の隣へ並んだ。何が何でもエリザベータの髪を引っ張りたい訳では無い様で、張り詰めていた鴇色が弛み余裕が出来る。
魔王の討伐に失敗し、直々に人間だと言われたエリザベータ。
――この上、何処に。
男の手の内にある物とは別に、エリザベータの太股に隠された白銀の刃がひんやりと存在を主張する。
「どちらへ、向かっているのですか」
「知れへん方が楽しいから秘密」
実りの無い返答にエリザベータは眉を顰めた。良い予感はしない。
――せめて、幹部の一人は道連れにしなければ。
エリザベータは新たな決意を抱え、開き直りで冴えた心と共に穏やかな鼓動を刻んだ。
***
下へ下へと幾つもの階段を二人は下る。魔王の元へ移動した時よりも長い距離、男自身も歩きにくかったのか途中で彼の手は髪から腕へと掴む場所を変えていた。
エリザベータは道すがら行きと同じ様に質問を並べ立てたが、先程とは違い男はすべて秘密の一点張りである。当然会話は止まり、足音だけが響きわたる寂しげな廊下を二人は黙々と歩いていた。
けれどそれも唐突に終わる。エリザベータの聴覚がくぐもったざわめきを捉えたのである。何故か生き物の気配がないこの城で初めてのことだった。変わらず隣を歩く男に注意を払いながら、エリザベータは音源に視線を向ける。
灰色や黒ばかりの城内で異彩を放つ大きな白。エリザベータが見たことのないその扉には、小さな黒丸の装飾が一カ所あるだけで取っ手らしい取っ手が無い。一歩一歩と近づくにつれ、中から漏れる音量が上がった。
男は扉の目の前までたどり着くと、ナイフを持った手を伸ばす。漸くの目的地である。彼は装飾部分に手を掛け、おもむろに横へとずらした。引き戸を初めて見たエリザベータが、動きに合わせて目を滑らせる。
人一人通れる程度に隙間が開くと、突如大きな人影が勢いよく二人へ迫った。室内へ入ろうとした男のすぐ横の壁へそれはぶつかり、派手な音をたて床へと落ちる。
「ああ、もう! お前等いい加減にしろよ!」
ついで聞こえた懐かしい声に、エリザベータは目を見開いた。にやにやと振り返る男の表情にも気が付かず、彼女は部屋の中央を見つめる。怒りに揺れる後ろ姿は、エリザベータにとって非常に覚えのあるものである。
「ジオ」
予想もしていない不意打ちに、エリザベータの口から思わず愛称がこぼれた。