第1話 勇者に一撃で負けたら、魔王軍が再結成された。
俺はかつて、魔王軍の総司令官だった。
今日、生まれて初めて冒険者試験を受けた。
落ちた。
敗因は、腕立て伏せだ。
……まさか、こんなに楽しいとはな!
───
「不合格だァァァッ!!」
冒険者ギルドに、試験官の怒号が響いた。
「腕立て伏せ四回!走れば転ぶ!剣を握れば落とす!お前、本当に冒険者になる気があるのか!?」
「もちろんだとも!」
「だったら何でそんなに嬉しそうなんだ!」
「昨日は三回だったからな!」
「……何?」
「今日は四回できた。一回増えたんだ!」
「不合格には変わらないだろ!!」
試験官ガルドが机を叩いた。
Fランク冒険者になるには、腕立て伏せ十回が最低条件らしい。
俺は四回。あと六回も足りない。
……何という伸びしろだ!
自慢ではないが、昔の俺は恐ろしく強かった。
魔王軍総司令官カイ・ヴァルグレイヴ。
数万の魔族を率い、剣を振れば城門を砕き、魔法を放てば大地が割れた。
そんな俺が今や、腕立て伏せ四回で息も絶え絶えだ。
素晴らしい!また、一から強くなれるのだからな!
「いいか、カイ。今のお前じゃ、その辺のスライムにだって負けるぞ」
「スライムに?」
「ああ!」
「この近くにいるのか!?」
「何で目を輝かせるんだよ!!」
いかんいかん。思わず興奮してしまった。
「とにかく!明日から共同訓練場に通え!」
「強い奴はいるのか?」
「いくらでもいる!」
「俺より強い奴も?」
「全員だよ!!」
全員。
全員が、俺より強い。
「……おぉ!」
「嬉しそうにするな!」
俺は不合格通知を丁寧に折り畳み、懐にしまった。
人生初の冒険者試験だ。記念に取っておこう。
そのとき、ギルドの扉が開いた。
燃えるような紅い髪。金色の瞳。
腰には、見覚えのある重厚な剣。
「勇者レオナじゃないか!」
───
「……誰?」
紅髪の女が振り向いた。
レオナ・アステリオン。
かつて幾度となく剣を交えた勇者だ。
いや、戦争が終わった今となっては、「元」勇者か。
最後に会ったのは五年前。戦争が終わる少し前だった。
「俺だ、カイだ!久しぶりだな!」
「……カイ?どうして私の名前を知ってるの?」
「何度も戦っただろう」
「…………は?」
そうか。無理もない。今の俺には角がない。
顔も身体つきも、魔族だったころとはまるで違う。
「そうだ。北の砦で――」
「ちょっと待ちなさい」
レオナが俺の腕を掴んだ。
「その話、ここでしないで」
彼女は俺をギルド裏手の訓練場へ連れていった。
「……さっきの話、続けて」
「雪の降る夜、お前の左の踵について話しただろう?」
「…………!」
「踏み込むときに踵が浮くから、切り返しが半拍遅れるって。俺がそう指摘すると『敵に剣術を教わるなんて、冗談じゃないわ!』と、随分怒っていたじゃないか」
レオナの顔色が変わった。
あの夜のことを知っているのは、俺と彼女だけだ。
「……まさか。魔王軍総司令官、カイ・ヴァルグレイヴ?」
「そうだ!」
……あ。
「いや、今はただのカイだ。冒険者志望のな!」
レオナの視線が俺の細い腕に落ちた。
「……剣を持ちなさい」
「おっ!稽古してくれるのか!」
「違う!あんたが本当に弱くなったのか、確かめるの!」
「なるほど。いいぞ!」
五年ぶりに、彼女の剣が見られる。
しかも、今の俺は昔のようには動けない。
……楽しみで仕方ない!
───
俺は木剣を一本借り、両手で構えた。
……重いな。
「……何、その構え」
「今の握力では、これが限界なんだ」
「ふざけてるの?」
「真剣だぞ」
レオナが木剣を構えた。
見事だ。
重心に無駄がない。
五年前より、ずっと強そうじゃないか!
「……行くわよ」
「あぁ!」
レオナが踏み込んだ。
速い。しかも、足音がほとんどしない。
……おぉ!
左の踵が、浮いていない。直したのか、あの癖を!
レオナの右肩が跳ねた。剣を握る両手が持ち上がる。
上からか!
……いや。
右肘が開き、剣先が横へ流れた。
なるほど、横薙ぎ!
頭を守らせて、脇腹を狙うつもりか。
待て、腰が回っていない。横へ振るなら、もう腰が動き始めているはずだ。
それどころか、左膝が沈んだ。両手が右腰へ下がる。
「本命は、下からか!」
「っ!?」
レオナの目が見開かれた。
直後、後ろ足が地面を蹴った。
沈んでいた身体が伸び、腰が回る。右腰から木剣が斜め上へ走った。
見事だ!
上からと見せて、横。横と見せて、下。
しかも、最初の二つは剣を振り出す前の誘いだ。
こちらが反応していれば、その瞬間に本物の斬撃へ変わっていただろう。
五年前のレオナは、剣を交えてから相手を崩した。
今は違う。剣を交える前に、こちらを動かそうとしている。
……強くなったな、レオナ!
だが、読めている。
一歩退いて切り上げを外す。剣が上がり切ったところで踏み込み、空いた胴を打つ。
間に合う。今からでも――。
……あれ?
足が動かない。
ぱしんっ!
レオナの木剣が、俺の木剣を下から打ち上げた。
握り締めようとしたが、指に力が入らない。
どさっ!
俺は尻餅をついた。
「…………」
攻撃は見えていた。二つの誘いも、最後の切り上げも、すべて読めていた。
避け方も分かっていた。反撃する場所まで見えていた。
なのに、身体がまったくついてこなかった。
……くそっ!
悔しい。本当に悔しい!
せめて半歩。
たった半歩、動けていたら!
「もう一回だ!」
立ち上がろうとした。……脚に力が入らない。
「すまん。手を貸してくれないか」
だが、レオナは動かなかった。
「……あんた、私の剣を読んでたわね」
「ああ。見事な技だったぞ!」
「だったら、何で避けなかったのよ」
「脚が動かなくてな!」
「…………」
レオナは俺を見下ろした。
「……本当に、弱くなったのね」
「ああ!」
「昔の力は、どこへ行ったの?」
「捨てたんだ」
「…………は?」
「戦争が終わったあと、古代の秘儀で肉体を作り直した。魔族から人族になった。もう元には戻れない」
「……何で、そんなことを」
「もう一度、最初から強くなりたかったんだ」
昔は、新しい技を覚えるだけで胸が躍った。勝てなかった相手に勝てた夜は、興奮して眠れなかった。
だが、いつしか強くなりすぎた。誰と戦っても、昔ほど心が動かなくなった。
「昨日できなかったことが、今日できるようになる。あの喜びを、もう一度味わいたくてな!」
「…………」
レオナは黙っていた。
「……あんた、私がこの五年間、何をしてたか知ってる?」
「……ん?」
「毎日、剣を振ってたのよ」
彼女が木剣を握り締めた。
「雨の日も、雪の日も。あんたの技を何度も思い出して、何度も練習して……」
声が震えていた。
「いつかもう一度会って、今度こそ倒してやるって……!」
「……そうか」
「やっと、追いつけるかもしれないって思ってたのに……!」
彼女は笑おうとして、笑えなかった。
「勝手に弱くなって、勝手に楽しそうにして……」
「こんなの、勝ったうちに入らないじゃない……!」
俺は何も言えなかった。
……そうか。
俺はもう一度、強くなりたかった。だが、レオナは昔の俺を倒したかったのだ。
五年間追い続けた相手を、俺は自分で消してしまった。
「……すまなかったな」
俺は頭を下げた。
「でも、レオナ。お前は本当に強くなった」
「…………」
「左の踵も直した。剣を振る前から俺を崩そうとした。お前の五年間が、あの一撃で分かったぞ」
「……当たり前でしょ」
レオナが俯いた。
そこまで俺との再戦を待っていてくれたのか。
「なら、今度は俺がお前を追いかけよう」
「……え?」
「今日の俺は一歩も動けなかった。だから次は一歩、その次は二歩。いつか、お前の剣を受け止めたい」
「…………」
「何年かかるか分からんが、もう一度、本気で勝負しよう!」
レオナはしばらく俺を見つめ、深いため息をついた。
「……ほんっと、馬鹿ね」
「よく言われる」
「褒めてないから」
彼女はまだ怒っていた。当然だろう。五年間の思いが、数分で消えるわけがない。
だが、俺に手を差し出してくれた。
俺はその手を借りて立ち上がる。
そのとき、思いついた。
「なあ、レオナ。俺の仲間になってくれないか?」
「…………は?」
「今の俺は弱い。だが、お前と一緒なら、きっといろいろ学べる」
俺は笑った。
「今の俺には、お前の力が必要なんだ!」
レオナが息を呑み、なぜか顔を背けた。
「……駄目」
「……そうか。残念だ」
「……ただし!」
「ん?」
「あんたが本当に何も企んでないのか、しばらく監視させてもらうわ!」
「監視?」
「そうよ!」
……なるほど。
「つまり、明日の訓練場にも来てくれるのか?」
「……は?」
「お前が一緒なら心強い!」
「だから仲間じゃないって言ってるでしょ!」
「分かっている。監視だろ?」
「そうよ!」
「なら、そのついでに剣を教えてくれ!」
「何で私があんたを鍛えなきゃいけないのよ!」
「いつか、もう一度勝負をするためだ!」
「…………」
レオナは何か言いかけ、諦めたように息を吐いた。
「……明日は行く。でも監視だからね!」
厳しい。
だが、なんていい日なんだろう。
冒険者試験には落ちた。レオナには一撃で負けた。
しかも、明日からは、そのレオナが一緒に訓練してくれる。
最弱生活、最高じゃないか!
───
そのころ。
ギルド裏手の屋根で、旧魔王軍の女斥候が震えていた。
元勇者レオナを監視していたら、行方不明の総司令官が現れたのだ。
彼女は緊急報告符を起動した。
『総司令官閣下、生存確認』
『自ら旧来の力と軍職を捨て、冒険者を志望』
『元勇者の剣筋を看破するも、一撃で敗北。自力での起立不能を確認』
『閣下、元勇者に「今の俺にはお前の力が必要」と告げる』
『元勇者、「監視」を条件に同行を承諾』
最後に、一文を付け加えた。
『なお、閣下ご本人は現在の生活を非常に楽しんでおられる様子』
旧軍の緊急報告網を通じ、各軍団へ一斉送信。
事実だけを報告した。
これなら、誰も勘違いしないはずだ。
───
「総司令官閣下が、勇者に一撃で敗北された!?」
魔族領の秘密拠点。
旧魔王軍の将軍ヴォルグは、届いた報告書を握り締めていた。
五年間、行方知れずだった総司令官。その生存を喜ぶ暇さえなかった。
「……自ら力を捨て、軍職も捨てた、か」
閣下が新たな人生を望んでおられるなら、そのご意思を尊重せねばならん。
何より、ご本人が楽しんでおられる。それは喜ばしいことだ。
ただ、元勇者に監視されているというのは心配だった。
「全隊に伝えろ。閣下のご意思が分かるまで、絶対に接触するな!」
「ヴォルグ様ッ!!」
副官が飛び込んできた。
「旧第二軍が、閣下の救出を決議しました!」
「……何?」
「力を失った閣下が元勇者に監視されている以上、直ちに救出すべきだと!」
「報告には、ご本人が楽しんでおられると書いてあるだろう!?」
「はい!敵の監視下でなお楽しむ余裕を見せられるとは、さすが閣下だと!」
「なぜそうなる!?」
「さらに旧第四軍からも連絡が!」
「……今度は何だ?」
「閣下が新たな軍略を開始されたと!」
「…………は?」
「力を捨て、勇者に敗北してまで接近し、『お前の力が必要』と告げられた!これは敵国最強戦力を懐柔する深謀に違いない、と!」
「閣下は冒険者になりたいと仰っておるのだぞ!?」
「はい!冒険者という立場を利用した潜入作戦であると!」
「……ただの冒険者になりたいだけでは?」
「そこまで平凡な目的に見せかけるのが閣下の恐ろしさだと!」
ヴォルグは天井を仰いだ。
……駄目だ。何を言っても深読みされる。
「旧第七軍からも報告がございます!」
「……聞きたくない」
「閣下が勇者と手を組まれた以上、人族と魔族の新たな時代が始まると!」
「……それは、悪くない考えだな」
「早速、両種族の融和を象徴する新軍旗を制作中です!」
「なぜすぐ軍旗になるのだ!!」
全員、同じ報告を読んだはずだった。
第二軍は救出作戦。
第四軍は潜入作戦の支援。
第七軍は新軍旗。
誰一人、閣下から命令など受けていない。
「全隊に通達しろ!絶対に動くなと!」
「……ヴォルグ様」
「何だ!?」
「旧軍は五年前に解散しております。現在、各隊は独立組織です」
「知っている!」
「我々に命令権はございません」
「…………」
ヴォルグは固まった。
「……では、どうすれば止められる?」
「解散時に全隊が結んだ、緊急再集結の約定がございます。主要三軍団の承認と暫定司令官の署名が揃えば、全隊への命令権が復活します」
「……全軍を止められるのか?」
「はい!全隊に統一指揮への服従義務が生じます!」
「それだ!すぐに承認を取れ!」
ほどなくして、通信石が光り始めた。
「第二軍、承認!閣下の救出には統一指揮が必要だと!」
「救出するなと言っておる!」
「第四軍も承認!閣下の潜入作戦を全軍で支援すると!」
「潜入作戦など確認できておらん!」
「第七軍も承認!新軍旗を全軍に掲げる準備を進めるそうです!」
「だから軍旗を作るな!!」
三軍団の承認が揃った。
「……よし。これで全軍を止められる」
「はい!あとはヴォルグ様の署名だけです!」
ヴォルグは筆を取った。
だが、差し出された書類の表紙を見て手が止まった。
『魔王軍再結成宣言』
「…………」
「…………」
「……これは、魔王軍の再結成ではないか?」
「はい」
「……軍を動かさないための措置なのだぞ?」
「ですが、制度上は再結成です」
「…………」
副官が気を利かせた。
「名称を変更いたしますか?旧軍平和維持連絡会、など」
「……それで、あの連中が命令を聞くと思うか?」
「……思いません」
「だろうな……」
ヴォルグは頭を抱えた。
いつか閣下のもとで再び全軍を束ねる。それは五年間の悲願だった。
だが、閣下のご許可もなく、和平を選ばれた魔王様のご意思に背いてまで再結成するつもりはなかった。
なのに。
閣下を守るために。戦争を防ぐために。
魔王軍を再結成しなければならない。
「緊急報告ッ!!」
伝令が飛び込んできた。
「第二軍の先遣隊、国境へ向けて進軍開始!」
「……何!?」
「第四軍も閣下の新戦略を支援すべく、部隊を動かしております!」
「……あの馬鹿どもが!」
ヴォルグは筆を握り直し、再結成宣言に署名した。
赤い紋章が浮かび上がる。
旧軍の指揮権、正式復活。
「全幹部に通達せよ!」
「はっ!」
「新生魔王軍、再結成!」
「はっ!!」
「第一命令!」
ヴォルグが拳を突き上げた。
「全軍、待機ィィィッ!!」
「「「了解ァァァッ!!」」」
こうして。
元魔王軍総司令官が、冒険者試験に落ち、元勇者に一撃で敗北したその日。
新生魔王軍は正式に再結成された。
───
「……これで戦争だけは防げたな」
各軍団の進軍停止を確認し、ヴォルグはようやく息を吐いた。
「次は閣下のご意思を見極めねばならん。明日の共同訓練場に、旧第三遊撃隊のベリクを送り込め」
「……ベリクを、ですか?」
「ああ。幸い、あの街は停戦後に築かれた人魔交流都市だ。魔族がいても怪しまれん。初心者冒険者に紛れ込ませ、閣下の様子を探らせろ。接触は禁止。危険が迫ったときだけ護衛しろ」
「ですが、元勇者も同行します。ベリクが旧軍の剣技を使えば、正体を見抜かれる恐れが……」
「…………」
ヴォルグは目を閉じた。
「……絶対に旧軍の剣技を使うなと伝えろ」
───
数時間後。
命令を受けたベリクは、共同訓練場の案内書を読んでいた。
『初参加者は、木剣による模擬戦を実施』
「…………」
続いて命令書を確認した。
『初心者冒険者として潜入』
『旧軍の剣技使用を禁止』
『元勇者に正体を悟られることなかれ』
「…………」
ベリクは考えた。
第三遊撃隊で十年。同じ剣を振り続けてきた。
模擬戦など、目を閉じていても勝てる。
問題はない。
ただ、一つだけ。
「……第三遊撃隊の剣以外、習ったことがないんだが」
しばらく考えた。
「……まあ、手加減すれば問題ないか」
───
「……よんっ!」
その日の夜、俺は宿の床で腕立て伏せに挑戦していた。
「……ごっ……!」
ぐぐぐっ。
両腕が震える。
……いけるか!?
どさっ。
顔面から床に落ちた。
鼻の奥まで痛みが響く。
「……惜しい!」
だが、さっきより長く耐えられた気がする。
確実に成長している。
明日は共同訓練場だ。
レオナも来てくれる。
楽しみだな!
俺はもう一度、拳を握った。
明日こそ。
「腕立て伏せ、五回だ!」




