命をいただく、という事
カオルの家のかまどには、すでに火が入っていた。
薪がぱちり、と弾ける音が、部屋の静けさをほどよく壊している。
作業台の上には、先ほど仕留めたダスクリットの肉。
赤身と白い脂が混じり合い、まだ光沢の残るそれは、見ているだけで現実感があった。
マナンは、その前で完全に固まっていた。
「……えっと……」
「……何から、やればいいんっすかね?」
包丁を持つ手が、微妙に震えている。
カオルは、その様子を見て一瞬だけ困ったように眉を下げ――すぐに、いつもの穏やかな声で言った。
「大丈夫です。まずは……深呼吸、しましょう」
「深呼吸……?」
「はい。料理は、急ぐと失敗しますから」
言われた通り、マナンは一度大きく息を吸い、吐いた。
それでも、心臓の鼓動は速いままだ。
(……命を、私が捌く……)
「じゃあ、包丁はこう持ってください」
カオルはマナンの横に立ち、ゆっくりと手本を見せる。
その距離が、近い。
「刃は寝かせすぎず、立てすぎず……指は、刃の外側に」
「こ、こうっすか……?」
マナンが包丁を構えると、カオルは思わず声を上げた。
「あっ、待ってください。少し……危ないです」
そう言って、そっとマナンの手首に手を添える。
「……っ!」
指先に、カオルの体温が伝わる。
それだけで、マナンの思考が一瞬止まった。
「えっと……ここ、力を入れすぎなくていいです」
カオルの声が、近い。
吐息が、頬にかかりそうな距離。
「……力、抜く……」
「はい。包丁は、押すんじゃなくて……滑らせる感じで」
マナンはごくりと喉を鳴らし、言われた通りに刃を動かす。
――すっ。
肉が、思ったよりも素直に切れた。
「……切れたっす……!」
「上手ですよ」
「ほ、ほんとっすか!?」
「ええ。初めてにしては、かなり」
マナンの顔が、ぱっと明るくなる。
その様子を、少し離れたところでウォルが腕を組んで見ていた。
「……ほぉ」
「どうかした?、ウォル」
「いやぁ……料理ってより、修行だな」
小さく笑いながらも、その目は真剣だった。
「マナンさん」
カオルが続ける。
「次は、火を通します。焼きすぎると硬くなりますから……音を聞いてください」
「音っすか……?」
「はい。『じゅうっ』って、強すぎない音です」
マナンは恐る恐る肉を鉄鍋に乗せる。
――じゅっ。
「……っ!?」
「今のは、ちょうどいい音です」
「ほ、ほんとっすか……!? 焦げてないっすよね……?」
「まだ大丈夫です」
カオルは鍋を覗き込み、少しだけ笑った。
マナンの頬を、カオルの獣耳が掠める。
ふわりとしたその毛先に、マナンの心臓がドキリと高鳴った。
「……カオルくんちょっと、近いっす……」
「あっ…… す、すみません……!」
二人の間に、変な沈黙が落ちる。
その空気を、ウォルがわざとらしく咳払いで割った。
「おいおい、料理は逃げねぇぞ」
「ウォルくん!!」
「ははは、悪い悪い」
マナンは頬を赤くしながら、再び鍋へ視線を戻す。
(……失敗したくない)
(この命……ちゃんと、美味しくしたい)
「……ひっくり返すタイミング、教えてくださいっす」
「はい。……今です!」
マナンは一瞬ためらい――思い切って、肉を返した。
焼き色が、きれいについている。
「……やった……!」
「ちゃんと、焼けてますよ」
カオルの声は、少しだけ誇らしげだった。
「マナンさん」
カオルが静かに言う。
「……ありがとうございます。ちゃんと、向き合ってくれて」
マナンは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「……こちらこそっす。ドキドキしたっすけど……ちょっと、楽しいっすね」
その言葉に、カオルは小さく息を吐いた。
「……ええ」
火の音が、ぱちりと鳴る。
料理は、まだ途中だ。
けれど――
この時間そのものが、もう“試験本番”のようだった。
─────
肉を返したあと、鉄鍋から立ち上る香りが、さっきまでの血の匂いをゆっくり塗り替えていく。
脂が溶け、ほんのり甘い香ばしさが部屋に広がった。
「……いい匂いっすね」
マナンが小さく呟く。
「でも、まだ終わりじゃありません」
カオルはそう言って、鍋の横に置いてあった小さな器を手に取った。
中には、刻んだ野草と、少量の塩。
「これ……調味料っすか?」
「はい。でも、入れすぎません」
「え? 少なすぎじゃないっすか?」
マナンが不安そうに覗き込む。
カオルは首を横に振った。
「この肉は、若いダスクリットです。脂が軽くて、癖も少ない。
だから、味を足すより……引き出すほうがいい」
ウォルが、ぴくりと眉を動かした。
「……ほう」
カオルは、鍋の中の肉を箸で軽く押す。
跳ね返る感触を確かめるように。
「……もう少し、火を弱めます」
薪を一本、そっと外す。
火が落ち着き、鍋の音も変わった。
「えっ、今弱めるんすか?」
「はい。ここで強い火のままだと、表面だけ焼けて中の水分が逃げます」
マナンは目を丸くする。
「そ、そんなこと……考えたこともなかったっす……」
「狩りと、同じなんです」
カオルは淡々と言った。
「相手が何を嫌がるか、何を残すか。
それを見て、無理をしない」
ウォルは腕を組み直す。
(……だから、カオルは外さねぇんだな)
「マナンさん」
カオルは、小皿に刻んだ野草を指した。
「これは、香り付けだけです。
焦がすと苦くなるので……鍋を一度、火から外します」
「……外す?」
「はい。余熱で、十分です」
言われた通りに鍋を下ろすと、
じゅう……という音が、ふっと静まった。
そこへ、野草を散らす。
――ふわり。
一段、香りが変わった。
「……わっ!」
マナンが思わず声を漏らす。
「さっきより……優しい匂いっす……」
「ええ。森の匂いです」
その言葉に、ウォルが小さく笑った。
「まったく……」
「狩り場を、そのまま皿に乗せる勢いだな」
「……そこまで、考えてないけど」
カオルは少し照れたように視線を落とす。
「僕、料理が好きってわけじゃないんです。
ただ……無駄にしたくないだけで」
「無駄……っすか?」
「えぇ。命も、手間も、時間も」
カオルは鍋の中を見つめる。
「だから、全部見ます。
肉の色も、音も、匂いも……それから、食べる人の顔も」
マナンは、はっとしてカオルを見る。
(……だから……)
(私の手が震えてるのも、ちゃんと見てたんっすね)
─────
「……マナンさん。盛り付け、お願いします」
「えっ、私っすか!?」
「はい。最後は、食べる人が触れる部分ですから」
マナンは戸惑いながらも、皿を手に取る。
教わった通り、肉を崩さないように慎重に置く。
「……できた、っす」
少し不格好。
でも、丁寧だった。
カオルは、最後にほんの少しだけ塩を振る。
「これで、完成です」
――沈黙。
ウォルが、ゆっくり皿を手に取った。
「……じゃあ、試食役だな」
一口。
噛んだ瞬間、ウォルの動きが止まる。
「……」
二口目。
「……ふむ」
三口目で、ようやく息を吐いた。
「なるほどな」
「派手じゃねぇ。
だが――文句のつけようがねぇ」
マナンが息を詰める。
「ど、どうっすか……?」
ウォルは皿を置き、はっきりと言った。
「これなら、満場一致だ」
「え……?」
「素材を知ってる。
森を知ってる。
命を軽く扱わねぇ」
ウォルはカオルを見る。
「試験で見るのは、料理の“腕”じゃない。
生き方だ」
「……」
「だから、あいつは合格したんだ」
マナンは、皿と、カオルを交互に見る。
(……だから、カオルくんは)
(あんなふうに、料理できるんっすね……)
カオルは少し照れたように頭を下げた。
「……ありがとう、ウォル」
ウォルは鼻で笑う。
「礼を言われる筋合いはねぇよ」
火は落ち、鍋は空になった。
けれど部屋には、まだ温かい匂いが残っている。
それは料理の匂いであり、
“生きる術”そのものの匂いだった。
─────
三人は、テーブルを囲んで黙々と料理を食べる。
気がつくと皿は、空になっていた。
最後の一切れを飲み込んだあとも、マナンはしばらくフォークを置けずにいた。
口の中に残るのは、強い味ではない。
けれど、確かに「残っている」ものがあった。
(……おいしい……)
そう思った瞬間、なぜか胸の奥が少し苦しくなる。
(でも……ただ、おいしい、じゃないっすね……)
噛んだ時の歯ごたえ。
鼻に抜けた、森の匂い。
それから――食べる直前に、カオルが手を合わせた姿。
全部が、ひとつの線で繋がっていた。
「……マナンさん、どう……でしたか?」
カオルの声が、少し控えめに届く。
マナンは顔を上げるまでに、一拍置いた。
ちゃんと言葉にしないといけない気がしたから。
「……正直に言うっすね」
「はい」
「すごく……静かな味だったっす」
ウォルが、ふっと鼻で笑う。
「悪くねぇ言い方だな」
「でも、それが……すごく、怖かったっす」
「怖い?」
マナンは自分の胸に手を当てる。
「食べてる間、ずっと……考えちゃったんすよ」
(これ、さっきまで生きてたんだな、とか)
(私、ちゃんと向き合えてるのかな、とか)
「……逃げられなかったっす」
カオルは何も言わない。
ただ、マナンの言葉を遮らずに聞いている。
「でも……」
マナンは、ゆっくり息を吸った。
「逃げなくて、よかったって……思ったっす」
胸の奥に沈んでいた感情が、少しずつ言葉になる。
「私、今まで……便利なものばっかりの生活を送ってきたっす」
「便利、ですか?」
「はいっす。すぐ治るとか、すぐ助かるとか……“結果”だけを見てたっす」
ウォルが、腕を組んだまま黙って聞いている。
「でも、この料理は……」
マナンは空の皿を見る。
「結果よりも、その前が全部、味になってたっす」
森に入ったこと。
獲物を見つけたこと。
仕留めたこと。
祈ったこと。
切ったこと。
焼いたこと。
迷ったこと。
震えたこと。
「……カオルくん」
「はい」
「この料理、作るの……怖くなかったっすか?」
カオルは少し考えてから、首を横に振った。
「……料理は、怖いですよ」
「え……?」
「今でも、慣れません」
その言葉に、マナンの胸がきゅっと縮む。
「でも……怖いから、ちゃんと見ます」
「……」
「見ないと、雑になりますから」
ウォルが、小さく息を吐いた。
「だから、こいつは”外さない”んだよ
弓も、料理も、な」
沈黙が落ちる。
かまどの火が、ぱち、と小さく鳴った。
マナンは、自分の手を見つめる。
さっきまで包丁を握っていた手。
少し、赤くなっている指。
(……私)
(この手で……何を作りたいんだろう)
試験。
評価。
合格。
それだけなら、もっと簡単な料理はいくらでもある。
派手で、分かりやすくて、褒められそうなもの。
でも――。
(それ、カオルくんの隣で作れるっすか?)
胸の奥で、答えがはっきりした。
マナンは顔を上げる。
「……決めたっす」
カオルが、少し驚いたように目を瞬かせる。
「私、試験で――」
一度、言葉を切る。
逃げ道を塞ぐみたいに。
「今日と、同じような料理を作るっす」
「同じ……?」
「はいっす」
マナンの声は、もう揺れていなかった。
「森に入って、素材を見つけて、
命をいただいて……それを、ちゃんと料理するっす」
ウォルが、にやりと笑う。
「ほぉ……」
「派手じゃなくていいっす。
でも……誤魔化さない料理」
マナンは胸に手を当てる。
「私が、怖いと思ったことも、迷ったことも、
全部そのまま出る料理にするっす」
「……それは」
カオルが、静かに言う。
「それは……かなり、勇気がいりますよ?」
「……解ってるっす」
マナンは、はっきり頷いた。
「でも……」
小さく笑う。
「カオルくんが、隣で教えてくれるなら……
私、逃げないっす」
一瞬、空気が止まる。
ウォルが、わざとらしく肩をすくめた。
「……やれやれ」
「こりゃあ、試験官泣かせだな」
マナンは照れたように笑い、でも目は真剣だった。
(これが……)
(私の“料理”なんだ)
空になった皿の上に、何も残っていない。
けれどマナンの胸の中には、確かな形が残っていた。
試験で作る料理。
それは――
命と向き合った、そのままの一皿。




