第三十九話 カオルの、狩り
翌朝──。
目を覚ました瞬間に、カオルははっきりと分かった。
(……あれ……?)
昨日まで体を包み込んでいた、鉛のように鈍く重い熱の膜が、すっと綺麗に剥がれ落ちた感覚があった。頭の芯を濁らせていた痛みも消え、呼吸が驚くほど軽い。
だが、起き上がろうとした彼の体に、別の柔らかな重さがのしかかっていた。
胸の上──正確には、肩から胸板にかけてのあたりに、じんわりとした温かい重みが乗っている。
不思議に思って視線を下ろすと、そこにはマナンがぴったりと寄り添うようにして眠っていた。
「すぅ……すぅ……」
窓の隙間から差し込む淡い朝光が、無防備な彼女の寝顔を優しく照らしている。
規則的で穏やかな寝息が、静まり返った部屋の空気に溶け込み、心地よいリズムで満たしていく。
カオルは、動悸が早くなりそうな自分の呼吸を、どうにか整えようと努めた。
けれど──息を吸い込むたびに、マナンの髪から漂う甘く清らかな香りが、胸のずっと奥深くまで染み込んでいく。
(……だめだ)
(このままだと……変に意識してしまう)
腕を少しでも動かせば、この穏やかで完璧な朝の静けさが、薄いガラスや泡のように簡単に砕けてしまうかもしれない。
そう頭では分かっているのに、どうしても動かずにはいられなかった。
カオルは、彼女の眠りを妨げないよう、息を詰めながらゆっくりと腕を伸ばす。
そして、マナンの頬にかかった髪に、そっと指をかけた。
──柔らかい。
まるで、夜空に浮かぶ星屑をそのまま掬い取って編み上げたみたいな、不思議で滑らかな感触が指先に残る。そして少し遅れて、その髪が帯びている独特のひんやりとした冷たさに気づいた。
彼は誘惑に抗えきれず、その髪を、壊れ物に触れるように、もう少しだけ優しく梳いてみた。
指先が髪を滑るたびに、マナンの寝息が、くすぐったそうなささやきみたいに小さく揺れる。
ただこうして彼女の存在に触れ、その温もりを感じているだけで、昨夜彼を苦しめた熱や、心の底にこびりついていた不安が──まるで最初から存在しなかったかのように、遠くへ溶けて消えていくのが分かった。
(……髪、こんなに柔らかいんだ)
その時、マナンの寝息が一瞬だけ不規則に乱れた。
「……ん……ふぁ……」
小さく唇を動かした彼女に、カオルはびくっと肩を震わせ、反射的に伸ばしていた腕を引っ込める。
しかしマナンは目を覚ますことはなく、寝返りを打つ拍子に、その体をさらにカオルへとすり寄せ、深く寄り添ってきた。
胸元に伝わる温かさが、さらに増す。
カオルはもう動くことを諦め、ただ夜空の星を数えるみたいに、ぼんやりと木組みの天井を見つめていた。
(今日も……)
(僕の隣に、マナンさんがいる)
ただそれだけのことで、特別な一日が始まってしまう。
この温もりに包まれたまま、ずっとこうしていたい。簡単に、それでいいような気がしていた。
けれど──。
(今日こそ、集落の案内をしないと……)
一昨日の、彼女との約束を思い出す。
「楽しみっす」と目を輝かせて笑ったマナンの顔が、鮮明に目の前へ浮かんだ。
カオルは決意を固め、ゆっくりと、本当にゆっくりと体を起こす。
マナンの頭をそっと枕へと移し替え、彼女を起こさないよう、限界まで息を殺した。
無理をして動けば、また昨日のような熱がぶり返してしまうかもしれないという懸念はあった。
それでも──
(約束は、守りたいんだ)
カオルは冷たい空気に触れるのを覚悟して、そっと布団から抜け出る。
床板を軋ませないよう、足音を立てずに部屋の隅へと移動した。
窓を開けると、朝特有の、少し湿り気を帯びた冷たい空気が心地よく流れ込んできた。
集落はまだ静寂に包まれている。けれど、すでに生活の営みを始めている誰かがいるのだろう──遠くの屋根から、朝餉の支度を示す煙が一本、細く白く立ち上っているのが見えた。
(いつもの、変わらない日常の風景)
(でも、僕の日常は……)
カオルは窓辺から振り返る。
布団の中で静かな寝息を立てるマナンの姿が、差し込む朝光の中で、まるで幻のように淡く見えていた。
(……彼女が来た日から、すっかり変わってしまった)
その事実が、心地よい戸惑いとともに、胸の奥で静かに重みを増していく。
それでも──
(今日も、こうして一緒に過ごせる)
その小さな、けれど確かな喜びが、戸惑いの重さの底で静かに、温かく輝いていた。
カオルは窓から目を離し、静かに、そして手早く自分の支度を始めた。
今日もまた、マナンと過ごす新しい一日が、始まろうとしていた。
─────
「はふぅ……んぅ……」
カオルが起き出して身支度を整えてから、そう間を空けずに、マナンは可愛らしい寝ぼけた声を立てながら、丸めていた体を布団からゆっくりと起こした。
目はまだ半分しか開いておらず、美しいはずの髪が、朝寝坊した子どものようにぴょこぴょこと乱れている。
「……おはようございます、マナンさん。よく眠れましたか?」
「おはよっす……カオルくん……んー……」
マナンは目をこすりながらカオルを見ると、現状を把握したのか、ふっと柔らかく笑った。
「もう起きてたんすね……起こしてくれればよかったのに」
「ええ……すみません。静かに起きたつもりだったんですが……起こしてしまいましたか?」
「気にしなくていいっすよ。それより……カオルくん、顔色、昨日よりずっとずっといいっすね。目に力があるっす」
マナンは掛け布団を跳ね除けてゆっくりとカオルに近づくと、背伸びをして、彼の額にそっと自分の手のひらを当てた。
前触れのない接触と、その手のひらの滑らかな温度に、カオルの肩がわずかに強張り、心臓が大きく跳ねる。
「熱、完全に下がってるっすね。本当によかったっす」
「……はい。マナンさんが看病してくれたおかげです」
カオルはそう言うと、真っ直ぐに彼女の目を見られず、少し視線を逸らした。
感謝の言葉を口にすると、どうにも胸の奥がくすぐったくて、落ち着かない気持ちになるからだ。
「で、でも、昨日のあの薬……一体どうやって……?」
「ああ、あれっすか? あれはウォルくんに教わって作ってもらったものっす。ギンヨウハとアオミコケを煎じたやつで、すごく効くって言われたっす」
「えっ!? アオミコケを取りに、森の奥まで行ったんですか!?」
カオルの顔に驚きと、それ以上の強い心配が浮かぶ。アオミコケが生えている場所は、決して安全な場所ではない。
カオルの指先が、無意識のうちに固く握り締められる。
「全然大丈夫だったっすよ。だって、ウォルくんが一緒だったっすから。彼、すっごく強かったっす!」
マナンは不安がるカオルをよそに、腕を組んで、自分が褒められたかのように誇らしげに胸を張る。
その危機感の薄い無邪気さが、逆にカオルの胸をひどくざわつかせた。
「強かったって……まさか、薬を探している途中で、魔物に襲われたりしなかったんですか?」
「ばっちり遭遇したっす。囲まれた時はちょっと焦ったっすけど、ウォルくんが全部一人でやっつけてくれたっすよ!」
マナンはまるで世間話でも語るような平気な顔で、さらっと恐ろしいことを言い放った。
「……えええええ!?」
カオルの素っ頓狂な声が、朝の澄んだ空気に満ちた部屋の中に、張り手をしたみたいに響き渡る。
「……ウォル、全部一人でやったのか……」
「やったっていうか……もう、本当にすごかったっす。剣を片手でくるくるって回して、あっという間に魔物を砂みたいにサラサラにしちゃったっす」
「……砂に……?」
カオルはごくりと息をのんだ。
(──ああ、そうか。あの辺りに出るならアッシュビーストの群れか……)
(それを、ウォルが一人で、しかもマナンさんを庇いながら全滅させた……?)
(……いや、ウォルの腕なら不可能じゃないけど……今は確かめようがない)
急に喉が乾くのを感じた。
アッシュビーストの群れ。少しでも運が悪ければ、熟練の自警団員でも命を落としかねない危険な相手だ。
「ウォルくんの剣の腕前、本当に半端ないっすね。風を切る音とか、まるで御伽噺に出てくる伝説の剣士みたいだったっすよ。かっこよかったっす」
「……そう、ですか」
ウォルの剣の腕──洗練され、迷いのない太刀筋。
血の滲むような努力の上で手に入れたその強さを、幼馴染のカオルはよく知っていた。
「それに……あっ、そうそう。戦いの後、ウォルくん、ちょっと怪我をしちゃってたんすけど……」
「怪我!? 大丈夫だったんですか!?」
「でも、私がちゃんと治したっすから、心配無用っす!」
マナンはにやりと、いたずらを成功させた子どものように笑う。
「……治した……?」
「そうっす! すごいでしょ? 私、こう見えてやる時は結構やるっすから!」
「……」
カオルは、ただ黙ってマナンを見つめていた。
彼女の明るい笑顔に、どうしても笑い返せない。心臓のずっと奥底に、冷たくて重い石がストンと落ちるような感覚があった。
「……魔法……ですか?」
「まあ……ちょっとだけ。でも大丈夫っすよ、ペンダントに溜まってたマナはほとんど使ってないっすから!! 節約ばっちりっす!」
マナンは得意げに、胸元で揺れるペンダントをぽんぽんと叩いた。
「……そう、ですか」
マナが減ってないと聞いて、カオルはほんの少しだけ安心した。
でも同時に、胸の奥に小さな、けれど無視できない棘が深く刺さったような感覚が残る。
──ウォルが怪我をした。
──その傷を、マナンが魔法で跡形もなく治した。
(まさか、な……)
「マナンさん……ウォルにあなたの正体や、魔法のことを明かしたんですか?」
その深刻な声色を含んだ問いに、マナンの体がぴくりと強張るように反応した。
星屑を散りばめたような彼女の瞳が、一瞬だけ不安げに揺らぐ。
そのわずかな反応こそが、カオルの胸に刺さった小さな棘を、もう少しだけ深く、ちくりと食い込ませた。
「……大丈夫っす。明かしてないっすよ」
「魔法を使う時は、『絶対に見ないで』って言って、ウォルくんに目を瞑ってもらったっすから。だからバレてないはずっす」
マナンは少し誤魔化すように笑って、それでこの話を終わらせようとする。
けれどカオルは、そんな楽観的な言葉でこの事態を終わらせることはできなかった。
(──本当に、気づかなかった……?)
ウォルは百戦錬磨の戦士だ。
彼が、本当に何の疑問も持たなかったのだろうか。
マナンの行った “治癒” が、薬草や包帯を使うこの世界の常識からかけ離れた、異常な速度と現象を伴うものだということに。
もし気づいていたなら──彼はその瞬間、何を思った?
もし百歩譲って気づいていないのだとしても──説明のつかない “不自然さ” だけは、確実に彼の記憶に残る。
マナンの持つ力が、この世界においてどれほど異端で、どれほど危険なものか。
その片鱗でも、秘密の端くれでも、自分以外の誰かに渡ってしまうことが、カオルはどうしようもなく怖かった。
「……そう、ですか。それなら、いいんですが」
カオルは、何とか言葉を選ぶように答えた。
喉の奥に、飲み込めない警告や忠告の言葉がいくつも詰まっているのが分かる。
「そ、それより!」
少し重くなった空気を変えるように、マナンは少し大きめで、努めて明るい声を出す。
「カオルくんの具合もすっかり大丈夫みたいだし、熱も下がったし! 一昨日約束した集落の案内、今日こそお願いするっすよ! 私、ずっと楽しみにしてたんすから!」
そう言って、マナンは勢いよく立ち上がった。
その元気いっぱいの姿を見て、カオルは心のどこかで、呆れと愛おしさが混じった小さなため息をついた。
(……止められないんだな、この人は)
誰かが困っていれば、それが危険なことでも平気で飛び込んでいく。
誰かのためになるなら、自分の身の安全や、この世界の常識なんて一切気にせずに、隠すべき魔法を使ってしまう。
そんな危なっかしくて、けれど限りなく優しい彼女が、今は自分の隣で笑っている。
(……僕が、守らないといけない。彼女の優しさが、彼女自身を傷つけないように)
その強い思いを胸の奥の深い場所へ押し込み、カオルは心配げな表情を切り替え、柔らかな顔つきに整えた。
「……はい。分かりました」
カオルもゆっくりと立ち上がる。
昨日の熱の重さや気怠さは嘘のように消え去り、体は羽のように軽い。
マナンがそばにいれば、この見慣れた世界の見え方が、まるで違うものに変わってしまう。
その事実と、これから背負うものの重さを受け入れる覚悟が、彼の背筋をぴんと真っ直ぐに伸ばさせた。
「まずは、ウォルに昨日のお礼をするのを兼ねて、自警団の集会所に向かいましょう。彼も心配しているでしょうし」
─────
二人は朝の冷気を抜け、自警団の集会所が建つ広場へとやってきた。
重みのある木の扉を開けると、中には武器の手入れに使う独特な油の匂いと、微かな土の香りが漂っていた。数人の団員たちが、談笑しながら剣や槍の手入れを入念に行っている。
「お、カオル! それにマナンさんも!」
部屋の奥で剣を磨いていたウォルが、二人の姿を認めて立ち上がり、大きく手を振った。
「ウォル、昨日は本当にありがとう。マナンさんを助けてくれたことも、薬のことも」
カオルが深く頭を下げてそう言うと、ウォルはいつものように豪快に笑い飛ばした。
「気にすんなよ! 水臭いお礼なんていい。それよりもお前の具合はどうなんだ? もう歩き回って平気なのか?」
「マナンさんが付きっきりで薬を作ってくれたんだ。おかげで、熱も下がってすっかり良くなったよ」
カオルがそう答えると、隣でマナンが「えっへん」とばかりに得意げに胸を張った。
「私、やる時はやる女っすから! でも、無事に薬草が採れたのは、ほとんどウォルくんが守ってくれたおかげっすよ! 本当に助かったっす!」
「はははっ、そうかそうか! そりゃ俺も体を張った甲斐があったってモンだ!」
ウォルは嬉しそうに笑い、マナンの肩を親しげにぽんと叩く。
その距離の近さと屈託のないやり取りに、カオルの胸の奥がほんのわずかにざわついたが、彼は決してそれを顔には出さず、静かに微笑んでいた。
「それで、マナンさんの “試験” の準備はどうなってるんだ? 何か作るものは決まったのか?」
ウォルのその問いに、先ほどまで元気だったマナンの表情が、一瞬だけしゅんと萎える。
「えっと……それが……」
「どうした? 行き詰まってるのか?」
「作りたいものが、全然決まらなくて……」
マナンは俯き、恥ずかしそうに足先でぐるぐると地面に円を描く。
「私、今までほとんど自分の手で料理とかしたことなくて……カオルくんみたいに、シンプルな素材の味を活かして素敵な料理を作るなんて……私には絶対無理っすよ。才能ないっす」
「まあまあ、そう慌てるなって」
ウォルはにやりと、悪戯を思いついたような笑みを浮かべる。
「マナンさん、料理ってのはな、皿に乗った最終的な形だけが全てじゃないんだ。その素材がどこで育ち、どうやって見つけ、どう扱うか……その “過程” を知ることも、料理の味を決める大事な要素なんだぜ」
「過程……っすか?」
「ああ。つまり、頭で考えるんじゃなく、“自然を感じる” ことだな」
ウォルは集会所の窓の向こう、鬱蒼と茂る遠くの森を指さした。
「例えば、ここにいるカオルなんかは集落でも指折りの狩り上手だ。こいつは森に入れば、木の葉が擦れる音を聞き、風に乗る獣の匂いを嗅ぎ、足元の土の湿り気を感じて獲物を見つけ出す。そういう自然との対話の感覚が、結果的にあいつの料理の “腕前” に繋がってるんだ」
「自然を感じる……っすね……」
マナンの瞳が、ウォルの言葉を咀嚼するように、少しだけ迷いを含んで揺れる。
「でも、いくら自然を感じるからって、私がいきなり森に入って獣を狩るのは難しいっすよね?」
「まあな。そりゃ無茶ってもんだ……なあ、カオル。ちょうどいい機会じゃないか。マナンさんの試験のこともあるし、これから森で獲物でも仕留めて、それをどう解体して料理するかってのを、実践して見せてやってくれないか?」
「実践……僕が?」
カオルの顔に、予想外の提案への驚きが浮かぶ。
「ウォルくん、それってつまり……今から狩りに行くってことっすか!?」
マナンの目が、期待にきらりと輝く。
ウォルはカオルの目を見据えて言った。
「ああ。マナンさんに、カオルの狩りの腕前ってやつを、特等席で見せてもらいたいしな。きっといい刺激になる」
「……」
カオルは一瞬、深くためらった。
──マナンには、なるべくこの世界の生々しく過酷な部分を見せたくない。
生きるために獣を狩ることの意味。温かい命をその手で奪う重さ。血の匂い。
それが、平和で優しい彼女の心を深く傷つけ、追い詰めてしまうかもしれない。
けれど、ウォルの言葉の持つ確かな重みも感じていた。
命を奪い、糧とする。これもこの世界で生きていくための “生きる知恵” の一部だ。
これを教えずして、遠ざけたままで、彼女に何を教えられるというのだろう。彼女がこの先一人で生きていくためにも、知るべきことなのかもしれない。
「……少しだけ、危険のない範囲なら」
カオルは迷いを振り切るように、静かに頷いた。
マナンはその頷きを見て、ぱあっと花が咲いたように瞳を輝かせた。
「やったっす! いざ、狩猟の時間っすね! カオルくんのすごいところ、しっかり目に焼き付けるっすよ!」
─────
三人は集落を抜け、外れにある、手つかずの自然と獣たちが棲む深い森へと向かっていった。
踏み固められていない道なき道を進むうちに、木々は高くそびえ、森の中はどんどん深く、静かになっていく。
外では聞こえていた小鳥の声さえも遠のき、やがて消える。
木漏れ日が斑模様を作る薄暗い空間は、まるで森全体が巨大なひとつの生き物で、彼らを観察しながら息を潜めているみたいだった。
「……カオル、あそこ」
前を歩いていたウォルが足を止め、声を潜めて指差す。
その視線の先、大きな木の根元で、小さな動物がせっせと地面を掘っていた。
全体が周囲の土に溶け込むような灰色の毛に覆われた、兎によく似た素早い獣。
──魔獣【ダスクリット】だ。
獲物の存在に気づいたマナンは、はっとして思わず息をのむ。
本物の野生の生き物を前にして、胸の奥が緊張できゅっと縮む。
ウォルはカオルへ視線を送り、「やれ」と小さく頷いた。
カオルは音を立てず、流れるような動作で弓を構える。
矢筒から引き抜いた矢を弦に番え、軋む音さえさせずに、じわじわと弦を引き絞り込む。
その一連の動きは、一切の無駄がなく、まるで神聖な儀式を行っているかのようだった。
マナンはそのすぐ横で、邪魔をしないよう息を殺し、無意識のうちに一歩後ずさりする。
(……すごい……)
カオルの静かだが力強い息遣い。引き絞られた腕の筋肉の張り。獲物の一点を見据える目の焦点の合い方。
彼の持つすべての感覚と肉体が、ただひとつの “目的” に向かって、恐ろしいほどの集中力で静かに収束していく。空気が張り詰めるのが分かった。
“ヒュンッ”
空気を切り裂く鋭い音とともに、矢が放たれた瞬間。
ダスクリットが危険を察知し、跳躍しようと動く。
──が、その野生の反射速度でさえ、カオルの放った矢の速度と正確さには及ばなかった。
ぷつっ、という肉を穿つ小さな、けれど重い音を立てて、矢はダスクリットの首筋の急所に深く突き刺さる。
獲物は地面に倒れ、少しの間だけ足をばたつかせてもがいた後、完全に動かなくなった。
「……」
カオルは弓を構えた姿勢のまま、張り詰めた残心を解かず、しばらく動かなかった。
その凛とした横顔と冷酷なまでの美しさが、マナンの目に深く焼き付く。
「……すごいっすね……あっという間だったっす……」
「ああ、言っただろ? カオルはこと狩猟の腕前に関しては、まさに “天才” なんだよ」
ウォルは自分のことのように誇らしげに言った。
「一発で確実に仕留める。動きに一切の無駄がない。だから獲物の苦しみも最小限で済む。それが、カオルの狩猟の腕前であり、あいつなりの思いやりなんだよ」
「……」
マナンは圧倒され、返す言葉を失っていた。
「さ、獲物の確認しに行こうぜ」
ウォルがそう促すと、カオルは肺に溜めていた息を静かに吐き出し、ゆっくりと弓を下ろした。
三人が落ち葉を踏みしめて獲物の周りに集まると、カオルはまだ温かいダスクリットの傍らに跪き、目を閉じて静かに手を合わせた。
「……ありがとう」
その短くも深い言葉が、森の重い静けさの中に溶けて消えるまで、ウォルもマナンも動くことができなかった。
静かで、祈るような声。
──その声の響きに、マナンは再び息をのむ。
(……ありがとう?)
今、自分たちはその命を容赦なく奪ったのに。
それでも、カオルのそのたった一言には、嘘偽りのない確かな敬意と感謝が込められていた。
「カオルが今、何をやっているか分かるか、マナンさん?」
ウォルが、戸惑うマナンに静かに問う。
「……えっと、神様への、お祈り、っすか?」
「少し違うな。あれは、奪った命に対する “感謝の祈り” だ」
ウォルは、祈りを終えて作業に取り掛かろうとするカオルの背中を見ながら続ける。
「俺たちは、この大きな自然の一部に過ぎない。生きていくために他の命をいただくことには、必ず感謝を捧げ、敬意を払う。それが、この過酷な世界で生きる俺たちの掟なんだ」
「……命を、いただく……」
マナンは、その言葉の重みを噛み締めるように、小さく呟いた。
カオルはゆっくりと立ち上がると、腰の鞘から鋭く研ぎ澄まされたナイフを抜いた。
躊躇うことなく獲物の腹を裂き、内臓を傷つけないよう慎重に取り出していく。生温かい血の匂いが立ち上り、森の澄んだ静寂の中で、その鉄の匂いが鋭く香り立つ。
その手つきは長年命と向き合ってきた熟練の職人のようで、一連の動きが川の水が流れるように滑らかだった。
マナンは思わず両手で口元を覆い、息をのみながら、目を逸らすことなくその血に染まる手元を見つめていた。
「これが、命をいただくということ……私が生きるために、何かが死ぬということ……」
マナンが、震える声で小さく呟くと、ウォルが腕を組みながら話を続ける。
「ああ、そうだ。命を絶対に無駄にしない。肉も皮も骨も、すべてを使い切る。それも、俺たちにできる感謝の形だ」
カオルは手早く血抜きと内臓の処理を終え、慣れた手つきで皮を剥いでいく。
その指先は獣の体の構造を熟知しているように骨や筋肉に沿って動き、切り落とす肉片に一切の無駄がない。
下処理を終えたカオルは、獲物を背負えるように手早く丈夫な紐で縛り上げ、ゆっくりと立ち上がった。
彼の顔には、無事に狩りを終えた達成感と、それと同じくらいの、どこか物悲しいような静かな感情が混じっていた。
「さ、新鮮なうちに早く家に戻って、料理しないとな」
「料理、っすか……この、さっきまで生きてたお肉を……」
「ああ。これをどういう形にして食べるか。それも、この世界で生きていくための “生きる術” の、大事なひとつだ」
マナンは何も言えず、黙って歩き出したウォルの大きな背中を見つめていた。
一歩一歩、森の土を踏みしめて歩くたび、彼女の胸の奥で、ただ漠然としていた “覚悟” というものが、明確な形へと変わっていくのが分かる。
「マナンさん」
先頭を歩いていたウォルが、不意に振り返った。
「今日、カオルが見事に取ったこの獲物を、アンタが料理してみろ」
「……えっ……私が、っすか?」
「ああそうだ。これをお前の試験の、最初の練習だと思え」
マナンは、驚いたようにカオルと、彼がその背に重く背負う獲物を交互に見た。
命を奪い、それを運ぶカオルの姿に、マナンの胸の奥で何かが強く、熱く動く。
(……私が、この命を……)
(……私の手で、いただく、っすか)
少しの沈黙の後。
「……分かったっす。やらせてほしいっす」
マナンは逃げることなく、静かに、しかし力強く頷いた。
そのまっすぐな瞳には、先ほどまでの迷いは消え、命と向き合う覚悟が入り混じっていた。
「おっ、いい顔じゃねぇか。やる気になったみたいだな」
ウォルが満足げににっと笑う。
「じゃあ早速、カオルの家に戻って、マナンさんの隠された料理の腕前ってやつを、特等席で見せてもらおうじゃないか!」
「はいっす! 私、精一杯やるっすよ!」
マナンはまだ少し自信なさげに、それでも決して折れない強い意志を込めて深く頷いた。
カオルは、そんな彼女の真剣な横顔を、歩きながら静かに見つめていた。
(……これで、本当に良かったのだろうか)
純粋な彼女に、血の匂いと、この世界の過酷な現実を突きつけ、見せてしまった。
けれど、それがこの先、彼女自身の身を守る盾となり、生きる術になるのなら。
カオルはそう、心の中で自分自身に言い聞かせた。
その彼らの選択が、次にどんな一日を連れてくるのかも、まだ知らずに。




