マナンの、看病
集落の中心――集会所の裏手にある井戸が、静かに水を汲む音を立てていた。
滑車がきしむ低い音。水が桶に満ちていく柔らかな響き。
冷たい朝の空気の中で、それらは不思議なくらい穏やかに溶け合っている。
ウォルが顔を洗い終えた、その時だった。
背後から近づいてきた軽快な足音が――ぴたり、と止まる。
「ウォルくん、ちょうどいい所に!!」
「……マナンさん?」
─────
「……カオルが、風邪引いたぁ?」
井戸の水滴が顎を伝うのも構わず、マナンの話を聞いたウォルは振り返った。
「えぇ、そうなんっす」
「そりゃまぁ、珍しい事もあるもんだ……」
ウォルは古びた井戸の縁に肘をついた。
集落の喧騒は、ここでは水面に広がる穏やかな波紋みたいに遠のいていく。
彼はそのまま、どこか懐かしむように薄く笑った。
「カオルのことは小さい頃から知ってるけどよ……あいつが風邪引いたなんて、聞いたことねぇぞ」
井戸の水面に映るウォルの顔が、ゆらりと揺れる。
その眉間に、わずかな皺が刻まれた。
「いやまぁ……マナンさんが来てから、あいつなんだか……変わってきちまったみたいだけどな」
「……?」
ウォルは聞こえないほどの声で呟き、横目でマナンを見る。
その視線には、探るというより“確かめる”ような色が混じっていた。
「もしかしたらよ、マナンさんに気を遣わせないように、気ぃ張ってたのかもしれねぇな」
「……やっぱり、気を使わせちゃってたんっすかね?」
マナンの声が少しだけ細くなる。胸の奥が、ちくり、と痛む。
自分が来たせいで――もし、彼が無理をしていたのなら。
「昔からカオルは、頑張りすぎるとこがある。無理してたんじゃねぇか?」
その言葉を受け、マナンは申し訳なさそうに視線を落とした。
(カオルくん……)
「ま、別にマナンさんのせいじゃねぇよ。気に病むな」
ウォルはそう言って、穏やかに笑いかけた。
その笑顔が、やけに頼もしく見える。
「風邪引くってのは、悪いことばっかじゃねぇ。身体が『休め』って言ってるサインだ」
「サイン……」
「おう。休める時に休んで、また頑張れるようにな。だから、そんな顔すんな」
そう言って顔を拭き終えると、ウォルはふと思い出したように尋ねた。
「……で、何か聞きたいことがあって、俺の所に来たんだろ?」
「あ、はいっす……実は、カオルくんの風邪に効く薬草とか、栄養価の高いものが手に入らないかと思って……」
「なるほどな。薬草か……確か森に行けば、“ギンヨウハ”って白い綿毛みたいな葉を持った草が生えてるはずだ」
ウォルは森の入り口を指さした。
指先の方向が、朝の光の中で少しだけ鋭く見える。
「咳に効く。煮出して飲ませてみろ」
「なるほど……」
マナンは星空のような瞳を輝かせ、頭の中で必死に刻み込むように頷いた。
「他には……森の小川なんかに生えてる“アオミコケ”って苔も、熱に効く」
「苔……っすか?」
「ああ。味は良くねぇが、効き目は確かだ」
「了解っす! “ギンヨウハ”と“アオミコケ”……すぐ行って取って――」
「まぁまぁ、慌てるな」
ウォルはそう言い残すと、集会所の中へ入っていった。
――しばらくして、愛用の剣を携えて戻ってくる。
「俺も行く」
「えっ? でもウォルくん、今日は忙しいんじゃ……」
「仕事がどうこうじゃねぇ。仲間の具合悪くしてんだ。そっちが大事だろ」
その言葉には、長年の友情が滲んでいた。
言葉数は少ないのに、妙に重い。
「それに、マナンさん一人で森に行くより、地理に詳しい俺が一緒の方が安心だろ?」
そう言って剣を軽く掲げる。
マナンは、その姿に安堵したように頷いた。
「……ありがとうっす、ウォルくん」
「ああ」
ウォルはにっこりと笑い、マナンの背中を軽く叩く。
「じゃ、行くか!」
「はいっす!」
二人は、集落外れの森へと向かっていった。
─────
森の中に入ると、そこはまるで別世界のようだった。
うっそうと茂る木々が昼でも薄暗い影を落とし、葉を撫でる風の音が、静かな囁きのように耳に触れる。
地面は湿っていて、足を踏み出すたびに枯れ葉が小さくざわめいた。
「すごいっすねぇ……木が高くて、見上げてると首が疲れそうっす」
マナンがきょろきょろと辺りを見回す様子は、宝探しの最中の子どもみたいだった。
ウォルは苦笑しつつも、足取りは軽い。森に慣れた者の歩幅と呼吸だった。
「ああ。でも、ここはあくまで『外れの森』だ。奥はもっと深ぇし、もっと危険だ」
その言葉の瞬間、ウォルの表情がほんの一瞬だけ曇る。
マナンはその気配を察して、喉まで出かけた質問を飲み込んだ。ただ頷く。
「ま、でも『外れの森』くらいなら、魔物がいるっつっても大したもんじゃねぇ」
「へぇ〜……」
マナンは感心したように頷き、また森の中へ視線を泳がせる。
木の根、苔、倒木。小さな生き物の気配。すべてが新鮮で、目が追いつかない。
「そういえば、この森って、何て呼ばれてるんっすか?」
「名前はねぇよ。ま、俺たちはただ『森』って呼んでる」
「森……なんだか、壮大っすね」
「で、だ」
ウォルはマナンの前に立ちふさがるようにして、指を一本立てた。
その仕草が妙に真面目で、マナンは背筋をぴんと伸ばす。
「マナンさん。森に入ったからには、守ってほしいことがいくつかある」
「……っ! なんと、ウォルくん、先生役に!?」
「先生じゃねぇ。先輩だよ、先輩」
少し照れたように笑いながら、ウォルは手短に続ける。
「まず、音を出しすぎない。森の中には、俺らより耳のいい魔物がいる。騒げば、簡単に位置が割れる」
「なるほどっす……」
マナンは小さく頷き、無意識に足音をさらに殺す。
「次。むやみに草藪に入らない。毒蛇もいるし、刺さると厄介な棘の植物もある」
「毒蛇……!?」
「ああ。噛まれたら面倒だ」
「ひぇ……気をつけるっす……!」
「そして、俺から離れすぎないこと。
特に、俺が『危険だ』って言った場所には、絶対に近づくな。いいな?」
「はいっす! 心に刻むっす!!」
マナンは胸を張って頷く。猫耳のカチューシャの耳まで、ぴんと立っているように見えた。
ウォルはその様子に、ふっと息を吐く。
「いい顔してるな……あんたといると、カオルの顔がなんだか生き生きして見えるんだよな」
「カオルくん、普段から元気じゃないんっすか?」
「……いや、元気だよ。あいつは強い。けどな」
ウォルは森の奥の暗がりを見つめる。
その目が、笑いでも怒りでもない、静かな現実を映していた。
「強いだけじゃ、生き抜けねぇこともあるんだ」
その言葉の重みが、マナンの胸にゆっくり染み込んでくる。
マナンは、ただ小さく頷いた。
「……そうなんっすね」
それ以上何も言わずにいると、ウォルは歩き出した。
「さ、行くか。目的は薬草だ」
「はいっす!」
二人は森の中を静かに進んでいく。
ウォルはまるで森の一部になったみたいに、音もなく足を運ぶ。マナンも遅れて、足音を殺すように慎重に歩いた。
木々の間から差し込む陽光が、舞台のスポットライトみたいに地面に模様を描いていた。
「おっ」
ウォルが立ち止まった。
「どうしたんっすか?」
ウォルは静かに指差す。
その先――足元に、白い光があった。綿毛のように柔らかく、月光を集めてきたみたいにほのかに輝いている。
「それが、ギンヨウハだ」
「おぉ……! 綿みたいで、綺麗っすね……」
「ああ。あれを根ごと採って、煮出して飲ませれば、カオルの咳に効くはずだ」
「わかりましたっす!」
マナンは喜び勇んで近づこうとした。
――その時だった。
「……待て! マナンさん!!」
ウォルの低い声。
同時に、彼はマナンの腕を強く掴み、自分の背後へ引いた。
「えっ? な、なんでっすか?」
「見ろ」
囁くような声に促され、マナンは指先の方向へ目を凝らす。
――そこには。
白い綿毛の陰で、ぴく、と動く影があった。
最初はただの小さなしみだと思った。だが、それはゆっくりと、確かな意志を持って動き出す。
─────
小型の四本脚の魔獣が数匹、ギンヨウハの茂みの中から姿を現した。
岩みたいな灰色の体。背中には棘のような突起が列を成し、地面に擦れるたびに乾いた音が鳴る。
やがてそれらは、ひとつの群れとして立ち上がる。
高さはマナンの膝ほど。
そして、それぞれの頭部に、小さな赤い目がきらりと灯った。
――魔獣【アッシュビースト】。
「……!」
マナンは思わず息をのむ。喉がからからに乾く。
「これが、ここの魔物っすか……?」
「ああ。見ての通り、あんたがギンヨウハに触ろうとしたのを、縄張りへの侵入だと判断したらしい」
ウォルは冷静だった。声も呼吸も、乱れない。
「こいつらは集団で動く。厄介だ。一匹ならどうにでもなるが、群れになると手に負えねぇ」
「群れ……」
マナンは数えようとした。
十、二十……数え切れない赤い点が、こちらを見つめている。
獲物を見定める、あの目で。
「……チッ、面倒だな」
ウォルは唾を吐くように言った。
「ここまで多いのは想定外だ」
「どうするんっすか……?」
「引くのはあくまで最終手段だ」
ウォルの声が、わずかに硬くなる。
「あいつらは執念深い。一度ターゲットにしたものを追う。
ここで逃げれば、集落の方へ向かうかもしれねぇ」
ウォルは腰の剣に、静かに手をかける。
鞘に触れた指先が、鋼の冷たさを確かめるように滑った。
「でも、な」
ウォルが、にやりと笑った。
「俺の相手は、あの程度じゃ務まらねぇよ」
「ウォルくん……!」
「少し下がってろ、マナンさん。これから見せるのは、俺たちの”生きる術”の一つだ」
剣が静かに鞘から抜かれる。
刃が森の陽光を一瞬だけ飲み込み、銀の線としてきらめいた。
「行くぞ、アッシュビーストどもめ!」
ウォルの掛け声。
群れはそれを合図に、一斉に走り出す。土煙を上げ、一直線にウォルへ迫る。
――その時。
ウォルは地面を蹴った。
重力を無視するみたいに軽やかに宙へ舞い、空中で予期せぬ回転を始める。
「なっ……!?」
マナンが驚いて見上げる。
剣が銀色の円軌跡を描き、光が刃の稜線を滑った。まるで夜空の星が一瞬だけ流れ落ちたように眩しい。
――ブォン!
風ではない。空間そのものが刃に裂かれるような鋭い音。
森の静寂が、その一撃だけで粉々に砕け散る。
ウォルが着地した瞬間。
アッシュビーストの群れが一斉に立ち止まる。赤い目に、恐怖と、理解のような色が浮かんだ。
そして――ばたばたと倒れ始めた。
だがそれは、ただの切断ではない。体が砂時計みたいに崩れ、微粒子となって地面へ落ちていく。
各部位が三つ、あるいは四つに分割されている。切断面は鏡みたいに滑らかで、一滴の血も流れない。
熟達した彫刻家が一瞬で彫像を完成させたかのような、異様な精密さだった。
血の匂いは立たず、代わりに乾いた匂いがわずかに鼻腔をかすめる。
マナンは言葉を失い、星空のような瞳を固めたまま、その光景を見つめていた。
――だが、終わりではない。
ウォルは一瞬も隙を与えない。体を低くし、地面を滑るように移動する。
剣が今度は地面に沿って水平に薙ぎ払われる。
――ザシュッ!
鋼と、鋼ではない何かがぶつかる音。地面に這う影が弾かれ、粉砕されていく。
水面の波紋が石で打ち消されるみたいに、敵の動きが消えていった。
ウォルの剣舞は、森の風のようだった。
強く、時に優しく――だが常に的確で、一切の無駄がない。
群れは数が減るにつれ、さらに狂暴になった。
赤い目は捕食の本能ではなく、絶望の炎のような色を帯びていく。
ウォルはその目を見て、微かに笑った。
「まだ、そんなに力が残ってるのか」
戦闘の中とは思えないほど穏やかな声。
マナンは息をのむ。剣は生き物のように敵の動きを予測し、迎撃する。
その一振り一振りが、見る者を圧倒する。
「すごいっす……」
無意識に漏れた声。
――だが、その裏で。
最後の一匹が、不意打ちを狙っていた。
群れの中でも特に狡猾な個体。
ウォルが他の個体を仕留めている隙に、地面を這うように背後へ回り込む。
――狙いは、ウォルではない。
(……こっち!?)
マナンが気づいた時には、赤い影が自分へ突進していた。
(ヤバッ……)
「そこまでだ」
静かだが確かな声。
その瞬間、ウォルの剣がマナンの目の前を横切った。
――シュッ。
小さな、乾いた音。
目の前にいたアッシュビーストが固まり、ゆっくりと二つに割れて倒れた。
「ウォルくん……!」
「……マナンさん、怪我はないか?」
振り向いたウォルの顔に、動揺は一切ない。まるで最初からこうなると分かっていたみたいに。
「は、はいっす! 助かったっす……」
「そうか。なら良かったぜ」
ウォルは剣を鞘に納めた。その動きも、呼吸みたいに自然だった。
「……まったく、油断させねぇな、こいつらは」
「ウォルくん、すごかったんすよ! あんなにたくさんいたのに、全然平気な顔して……」
「ははは、親父はもっと凄いけどな!!」
豪快な笑い声が、森に軽く反響する。
その場の空気が、少しだけ緩んだ。
「さ、とっととギンヨウハを摘んで、アオミコケ探しに行こうぜ」
マナンは、ウォルの背中を見つめたまま、しばらく呆然としていた。
(……カオルくんが、生きてるこの時代も……)
(やっぱり、生きづらいっすね……)
─────
ウォルの導きで、二人は森の奥深くへ進んでいった。
道のない森だというのに、ウォルは何度も来たことがあるかのように迷いなく歩く。
「……ウォルくん」
「ん? 何だマナンさん」
「こんな森の奥の事まで、よく知ってるっすね」
「ああ。子どもの頃の遊び場だったんだ。親父に連れられて来て、木登りの練習させられたりな」
「そうなんっすか? カオルくんとか、一緒に来たりもしたんすか?」
「ああ、もちろん。カオルは俺より木登りが上手かったなぁ……」
ウォルは、ふと遠い目をする。
森の匂いと湿り気が、過去の記憶を引き寄せたみたいだった。
「……でも、ある時から、あいつは来なくなったんだ」
「えっ……?」
「ある日、俺たちが木登りの競争をやってた時のことだ。
カオルが……高すぎる木に挑戦して、落ちた」
言葉が、重く落ちる。
「……! 大丈夫だったんすか?」
「ああ、命に別状はなかった。でも、あの時の音は忘れられねぇ。
枝が折れる音と、あいつの体が地面に打ちつけられる音が……」
ウォルは苦いものを飲み込むように喉を鳴らした。
「その時、カオルは何も言わなかった。ただ泣いてたんだよ。
俺が駆け寄っても、親父が叱っても……黙ったまま、涙だけ流してた」
マナンは息を呑む。
目に浮かぶ少年の姿が、胸の奥を締め付ける。
「その日から、カオルは森に来なくなった。俺たちと遊ぶのも避けるようになった。
どうやら、あの落下がトラウマになったらしい」
「……」
「俺は何度も誘った。『もう大丈夫だ』って、『低い木なら登れるだろ』って。
でも、あいつは頑なに拒んだ。だから俺も……無理に誘うのをやめたんだ」
ウォルは静かに続ける。
「あの時、俺はもっと何かできたんじゃねぇかって……今でも思うよ」
マナンは黙ってその言葉を受け止めた。
普段のカオル――少し不器用で、優しくて、どこか孤独な少年の輪郭が、よりはっきり浮かび上がる。
「……」
何も返せないまま、マナンは歩く。
背中を丸め、ただ泣いていた少年の姿が胸に残って離れない。
「おっと。この話をカオルにしたってのは内緒にしといてくれよ」
ウォルは過去の重みを払うみたいに、さっと自分の背中を叩いた。
「了解っす……」
返事の声に、いつもの元気はなかった。
「ま、昔話はこれくらいだ。目的はアオミコケだな」
ウォルは先へ進み、マナンは少し遅れてついていく。
森の奥はさらに暗く、湿っぽい空気が肌にまとわりつく。
─────
やがてウォルは、小さな川のほとりで立ち止まった。
清らかな水が石の上をさらさら流れ、細い光を反射している。
「……お、あれだ」
――ウォルの指差す先。
水辺の石に付着した、緑色の苔のようなものがあった。
きらきらと微かに光り、どこか不思議な気配を纏っている。
「あれがアオミコケっすか?」
「ああ」
ウォルはひょいと小川を飛び越えると慎重に石から苔を剥がしていく。
マナンはその手元を黙って見守った。
水の音だけが、静かに二人の間を満たす。
「よし。とりあえずこれで、カオルの薬は揃ったな」
布の袋にしまい、満足げに頷くウォル。
「はいっす」
マナンも帰り支度を始める。
――その時だった。
「うわっ!?」
足が滑った。
苔むした石に立ったマナンの足がぬかるみに踏み込み、体のバランスが崩れる。
「危ないっ!」
ウォルは即座にマナンを抱きとめた。
だがその勢いで、ウォルの体が斜めに傾き、川の浅瀬へ腰から突っ込む。
”ビシャァァァン!!”
「ぐぅっ!」
「ウォルくん!?」
マナンが慌てて彼を起こす。
「大丈夫……だ……たぶん……」
苦笑しながら言うウォル。
だが――
「っ!! ウォルくん、腕が……!!」
「えっ……?」
ウォルの腕には深い切り傷が走っていた。
流れの速い川底の鋭い石にぶつけたらしい。赤い血が、じわりと滲み出している。
「ま、まあ……こんなもん……」
「大丈夫じゃないっす! 血が止まらないっす!」
「大丈夫だ、集落に戻って治療すれば――」
「……」
マナンは少し考え込み、決然と顔を上げた。
迷いの影が、すっと消える。
「……任せてくださいっす!」
「え?」
「ウォルくんの怪我、私、治すっす!」
「おいおい、マナンさん、冗談は――」
「冗談じゃないっす!」
マナンはウォルの腕へ近づき、傷をじっと見つめた。
その瞳は、ふざけた冗談の光ではなく――古い治癒師のように深く、静かだった。
「……これからやるのは、“古代研究機関”の秘術っす」
「古代研究機関……?」
「ええっす。私がいた組織っす。そこで開発された、究極の治癒技術っす」
「はは……はは、は……そんな……」
「ウォルくん、腕を伸ばしてくださいっす」
落ち着いた声。
ウォルはその声音に、不思議と逆らえなかった。真剣さが、言葉の奥で確かな“何か”として響いている。
「……なら、マナンさん。頼んでいいか……?」
「任せてくださいっす!! ウォルくん、目をつぶってて欲しいっす」
ウォルは言われた通り、目を瞑る。
マナンは傷の上にそっと手をかざした。
(魔法を使うつもりはなかったっすけど
ウォルくんは、私を庇って怪我したっす。だから――)
――手の平から、淡い光がゆっくり滲み出る。
(癒やしの力を、光に……
――レストア・ライト)
心の中で呪文を詠唱する。
光が静かに発動し、ウォルの腕を包んだ。
傷口の血が吸い込まれていくように引いていく。
肉が再生し、皮膚が縫い合わされるように元へ戻る。
――まるで時間が逆行するみたいだった。
ウォルは腕を走る不思議な感触を感じる。
ぬくもり。優しい微かな振動。春の陽だまりに触れているような、柔らかな感覚。
(……なんだこれ……)
言葉にしようとしても、掴めない。ただ、胸の奥が妙に静かになっていく。
――やがて、マナンの手から光が消えた。
「……よし、もう大丈夫っすよ」
マナンの言葉で、ウォルはゆっくり目を開ける。
そこには、もう傷がなかった。
最初から何もなかったかのように、腕は滑らかな肌を取り戻している。
「……まじかよ……完璧に治ってやがる」
信じられないように腕を撫でるウォル。
「どうっすか!? 私、結構やるじゃないっすか!」
マナンは得意げに胸を張った。
だがウォルの顔は笑いではなく、ただ呆然としている。
「いや……すごい……ってレベルじゃねぇ気がするが……」
「……ウォルくん、何か、おかしいんすか?」
少し不安そうに問うマナン。
ウォルは首を左右に振ると一拍置き、まっすぐマナンの瞳を見つめた。
「……いや。何でもない」
そして、短く。
「マナンさん……ありがとう」
「……! どういたしましてっす!!」
マナンの表情が、ぱっと明るくなる。
その反応があまりにも素直で、ウォルは少しだけ目を逸らした。
「ま、まあそれはともかくとして、早くカオルの所へ帰って薬を飲ませてやろうぜ」
「はいっす!」
ウォルは立ち上がると、マナンを軽く抱き上げた。
「えっ?」
「マナンさん、さっき川で滑っただろ。服、泥でぐちゃぐちゃだぜ?」
「いや、それはウォルくんも同じっすから……」
「まあいい。俺が背負ってやる。遠慮すんな」
ウォルはマナンを背負うと、森を駆け出した。
「うわっ!?」
マナンは慌てて背中にしがみつく。
「わ、わたし、結構重たいっすから!」
「マナンさんくらい、軽いほうだよ!」
ウォルは軽やかに森の中を駆けていく。
まるで風のようだった。
「待ってろよ、カオル!」
ウォルの高らかな声が、森に響いた。
─────
マナンはウォルに背負われ、カオルの自宅へと急いだ。
背中から伝わる体温と、速いながらも確かな足取りに、マナンはすっかり安心していた。
背負われているという感覚が、久しく忘れていた“誰かに守られている”という安心を呼び覚ます。
胸の奥が、じんわり温かい。
そうして日が傾き始めた頃、カオルの家が見えてきた。
家の輪郭が近づくにつれて、マナンの鼓動は高鳴りと不安が入り混じった複雑な音を奏で始める。
(カオルくん、どんな顔してるっすかね……)
(熱、下がってるかな……)
(泥だらけの私の事を見たら、どう思う……?)
ウォルがカオルの家の前に立ち、そっとマナンを下ろした。
「ありがとうっす、ウォルくん」
「ああ。カオルには”お大事に”って言ってたって伝えておいてくれ」
そう言い残すと軽く手を振り、ウォルは自分の家へ帰っていった。
――マナンはカオルの家の扉をそっと開ける。
木の扉が、きし、と小さく鳴った。
─────
「ただいま……っす」
その声が、部屋の静寂に小さな波紋を広げる。
マナンは部屋の隅に敷かれた布団へ目を向けた。
そこに、カオルが寝ている。
呼吸は少し速く、浅い。熱が抜けきっていないのが、遠目にも分かった。
マナンはそっと近づく。
カオルの顔は赤く、眉間には薄い皺。思わず手を伸ばしかけ――すぐに引っ込めた。
(触れたら、起こしちゃうかもしれない……)
「カオルくん……」
小さく囁く。届かないかもしれない。
それでも届いてほしい、と心の中で願っていた。
恐る恐る額へ手を当てると、朝よりずっと熱い。
心臓がひやりとした。
「ん……マナン……さん……?」
「……あっ 起こしちゃったっすか……?」
カオルの目が細く開いた。
熱の霧でぼんやりと揺れる瞳が、それでも確かにマナンを捉えている。
「薬取ってきたっすよ、具合はどうっすか?」
「……大丈夫……です……」
掠れた声。言葉の終わりが咳に引かれて震えた。
(大丈夫じゃなさそうっす……)
マナンは胸の内でそう呟きながら、決然と立ち上がる。
不安のままでは終わらせない、と決意が目に宿った。
「よし、急いで薬を作るっす! ちょっと待ってるっすよ」
ウォルに教わった通り、薬草を準備する。
ギンヨウハとアオミコケを小鍋に入れ、水を注いでかまどに置く。
火打ち石を手に取り、何度もこすり合わせると、
散った火花が薪へ移り、小さな炎がゆっくり育っていく。
(……これで、いいんっすよね?)
湯気が立ち、部屋に薬草の匂いが広がる。
少し苦く、それでいてどこか懐かしい匂い。
その匂いが、まるでカオルの熱を和らげる魔法のように感じられた。
「カオルくん、起きてるっすか?」
布団のそばへ戻り、声をかける。
「……はい……」
かろうじて聞き取れる返事。
「薬、できたっすよ」
器を持ち、カオルの頭をそっと起こす。
火傷をさせないように慎重に器を運び、唇へ寄せる。
「すみません……マナンさんを、心配かけて……」
「そんなの、気にしなくていいっす!」
マナンはにっこり笑った。
言葉は明るく。けれど胸の奥は、少しだけ震えている。
「その、病気になったら、心配するのは当然っすから。
――大切な人が……」
最後の言葉は、カオルに届かないくらい小さな声で零れた。
「さぁ、飲んでみてっす。ウォルくんが、すごく効くって言ってたっすよ」
カオルは弱々しく頷き、支えられながら一口飲む。
「……!」
「どうっすか?」
「……苦い……」
「薬って、大体そうじゃないすか!」
冗談めかして、マナンは笑う。
その笑いが、部屋の空気を少しだけ軽くした。
カオルは何も言わず、器の中の薬をすべて飲み干した。
汗ばんだ額を見て、マナンは自分の袖でそっと拭う。
「ウォルくんに聞いたっすけど、カオルくんが具合悪くなるなんて、珍しいらしいっすね」
マナンはカオルの横に座り、声のトーンを落とす。
「……そうかも、しれません」
「カオルくん、自分の体、大事にしないタイプっすか?」
「……そんな……」
「カオルくん、すごく頑張り屋さんだって、ウォルくんが言ってたっすよ」
「……」
「だからこそ、たまには休まないと」
「……はい」
「私がいるから……無理しなくていいっすよ」
その言葉が、カオルの胸へ静かに刺さった。
胸の奥で、何かがほどける感覚があった。
(……無理してた……のかな?)
自分では、ただ日常を過ごしているだけだと思っていた。
けれどマナンが来てから、ずっと緊張が続いていたのかもしれない。
「……」
カオルはマナンの顔をじっと見つめた。
星空のような瞳が、心配そうに揺れている。
「さぁさぁ、薬を飲んだらすぐ寝るっすよ!!」
「……あの、マナンさん……」
「なんっすか?」
「………………ずっと、隣に、いてくれますか?」
小さく、しかしはっきりとした声。
その言葉に、マナンの呼吸が一瞬止まった。
「……うん」
頬を赤く染めながら、マナンは静かに頷く。
「ずっと、一緒にいるっす」
「……ありがとう」
カオルはそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。
その呼吸は、少しずつ、確かに穏やかなものへ変わっていく。
─────
寝息が、規則正しく部屋に満ちる。
その静けさに、マナンはしばらく身動きできずにいた。
彼の寝顔には、まだ熱の赤みが残っている。
けれど、眉間に刻まれていた皺は、いつの間にか消えていた。
――眠っている。
それだけで、今は十分だった。
マナンは、そっとカオルの隣に腰を下ろす。
起こさないように、呼吸の音さえ整えながら。
「……無理、してたんっすね」
返事はない。
けれど、カオルの指先が布団の中でわずかに動いた。
それが夢の中の反応なのか。
それとも、彼女の声に無意識に応えたのか。
マナンは、確かめることをしなかった。
「……魔法でも」
声が、自然と小さくなる。
「……魔法でも、私の病気は治せないっすね」
自嘲気味に、けれどどこか優しく、そう呟く。
視線を落とすと、眠るカオルの顔が、すぐそこにある。
熱に浮かされた頬。
無防備なまぶた。
それらを見つめている自分の胸が、
どうしようもなく、じんわりと痛むことに、マナンは気づいてしまった。
「――私の恋の病、は……」
言葉は、最後まで形にならなかった。
けれど、胸の奥に落ちた感情だけは、
――はっきりと、確かな重さでそこにあった。




