マナンと、添い寝
「あ、あの……ところでマナンさん……?」
カオルの声は、興奮の余熱と戸惑いが絡み合ったまま震えていた。
握り締めた銀色の杖――その先端から、七色に輝く炎がなおも止まらず噴き上がっている。
さっきまで胸いっぱいだった高揚感が、いまは別の感情に侵食されつつあった。
――止められない。
その事実が、彼の喉をひりつかせる。
かまどの中の小枝は、すでに燃え尽きて形すら残っていない。
黒い灰がわずかに渦を巻き、甘い焦げの匂いが夜気に滲み出していく。
(……燃えすぎ、では?)
カオルは杖を離すことも、どう扱えばいいのかも分からず、
ただ目の前の異様を見つめるしかなかった。
本能が、危険を告げていた。
炎は“必要な分だけ”でいい。火は育てるものだ。
なのにこれは――育てるどころか、勝手に膨らんでいく。
胸の鼓動は、達成感と恐怖がぶつかり合って、どこか狂ったようなリズムを刻む。
「なんっすかぁ~、えへへ?」
マナンの返事は、まだ余韻に浸っている。彼女はにんまりした表情でカオルを見つめていた。
月明かりに縁取られた横顔には、教える側としての満足と自信が浮かぶ。
視線はカオルの顔に固定されたままで、杖の異変には気づいていないらしい。
(あれ!? 気づいてない……!?)
このままでは、本当に家が燃える――いや、森が燃える。
風が少しでも吹けば、火の粉は外へ散る。枯れ葉に移れば――。
――まずい。
「ま、マナンさん!!」
カオルの声に切迫が混じる。
彼は杖を軽く振ってみた。だが炎は消えるどころか、
いっそう強く脈打ち、熱がじわりと手のひらへ染みてくる。
「これ……止まらないんですけど……どうすればいいんですか……?」
「……えっ?」
ようやくマナンの視線が、カオルの握る杖へ移る。
その瞬間、彼女の表情が劇的に変わった。
「……ええっ……?」
楽しげな笑みが凍り、青い瞳が大きく見開かれる。
七色の炎を見て、息を呑む音さえ聞こえた気がした。
「と、止められないんですけどぉ……」
カオルの声はかすれていた。杖から手が離れない。
自分が何を放ってしまったのか――その感覚だけが、骨の内側まで冷やしてくる。
かまどの底は赤く熱を帯び、地面が焦げる匂いが強くなる。
(僕が……やった……?)
(僕が、火を……止められない……?)
指が震える。
このまま燃やしてしまったら、まただ。
また、大切なものを守れない。
「ええええーーーー!!!!」
マナンの絶叫が、静かな森を切り裂いた。
「ちょ、ちょっと待つっす! えっと……落ち着くっす、カオルくん! まず深呼吸っす!!」
「む、無理です!! 熱い!!」
「熱いのは分かるっす! でも焦ると余計にマナが暴れるっす!!」
マナンは慌てて距離を詰め、カオルの手元を覗き込む。
彼女は一度、深く息を吸うと、カオルの手に自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、熱と同時に“安定した重み”が伝わる。
「……一回、私に渡すっす。いいっすね?」
「は、はい……」
言われた通りに力を抜くと、杖がするりとマナンの手へ移った。
――その途端。
杖はマナンの手に戻るや否や、嘘のように静まった。
七色の炎は跡形もなく消え、銀色の棒はただの道具の顔をしている。
「……え……」
消えた。
あれほど暴れていた炎が、まるで最初から存在しなかったみたいに。
残ったのは焦げの匂いと、かまどの赤い余熱だけ。
「いや〜、初めてなのにこんな風に魔法が暴走するなんて、びっくりっすねぇ〜……」
「……はい」
カオルの返事は、情けないほど小さい。
“びっくり”で済ませていい現象じゃない。
でも彼女は、恐怖で動けなくなりそうなカオルを、軽口で繋ぎ止めようとしているのが分かった。
(……僕のせいだったんだ)
(僕が握ってたから……)
「う〜ん……」
マナンは腕を組んで考え込む素振りを見せ、ふいにポンと手を叩いた。
「とりあえず、細かいことはお風呂に入ってから考えましょう!!」
「……え、今それ言います……?」
カオルが思わず口にすると、マナンは「今言うっす」と胸を張った。
「こういうの、悩んでも汗かくだけっす。汗かいたなら洗うっす。理にかなってるっす!」
「……理屈が変です……」
「変でも合ってるっす!」
その勢いに、カオルの肩から少し力が抜けた。
笑う余裕なんてないはずなのに――マナンの軽さが、ぎりぎりのところで恐怖を押し留めてくれる。
─────
幸い、その後あらためてマナンが火起こしをしてくれたおかげで、
風呂釜はすでに十分な湯加減に達していた。
今度の火は、必要なだけ、静かに燃えた。
それが逆に、さっきの暴走が“異常”だったと痛感させる。
「……すいません……」
カオルが頭を下げると、マナンは「大丈夫っすよ」と言って、彼の頭を軽く撫でた。
「謝ることじゃないっす。初めてであそこまで出たのがむしろおかしいっす。
普通はちょびっと出て終わるっすよ」
「……ちょびっと……」
「うん。だから、カオルくんのは“すごすぎた”ってことっす」
その“すごすぎた”が、褒め言葉なのか脅しなのか分からず、カオルは唇を噛む。
「私も最初の頃はよく魔法を暴走させたっすよ〜。
力加減を間違えて、危うく街中の民家を消し炭にしちゃうところだったっすからね。
まぁ、幸い学校のみんなと協力して何とか抑えられたんっすけど……」
「えっ、街中が消し炭に……?」
さらりと言われた内容が、遅れて胸に落ちてくる。カオルは唖然としたまま、マナンを見つめた。
「さっきの魔法、ネオン・フレイムの炎って七色に光って綺麗だったじゃないっすか?」
マナンは星空を仰ぎながら言う。月明かりが彼女の瞳に宿り、先ほどの炎の余韻と重なって見えた。
「……ま、まぁ……言われてみれば」
「私、あの魔法が大好きなんっす。キラキラしてて、
炎そのものに魔法の不思議さが映ってるみたいで」
両手を胸の前で丸くする仕草は、なにか小さな光を抱きしめるようだった。
カオルは思い返す。
杖から噴き出した七色は、雨上がりの葉に残る雫のように煌めいていた。
森に浮かんだそれは、自然の光とは違う――世界の外側から来た輝きだった。
「それでっすね〜……昔、街の空をあのキラキラした炎で輝かせようって思ったことがあって」
夢を見る声だ。思い出に浸る笑みが、その無邪気さを裏付ける。
空が七色の炎で満ちる光景――それは美しいというより、恐ろしくもある。
星を覆う炎など、彼の常識では祝福と災厄の境目が分からない。
「それは……とても……凄そうですね……」
呆然とした声が漏れた。獣耳がわずかに震える。
「でもまぁ、予想外のことが起こっちゃってっすね……」
マナンは苦笑いし、少しだけ視線を逸らした。
「予想外のこと……?」
「上空じゃないと危険なのは分かってたんすけど、その……まさかの低空で暴走しちゃって。
炎が街中に降り注いじゃって……」
後頭部をかく仕草が、ひどく子供っぽい。だからこそ、語られる内容が余計に怖い。
「え……?」
「まぁ、幸い怪我した人はいなかったっすし、セーフっすよ、セーフ」
マナンは胸を撫で下ろす。だがカオルは、笑って流せない。
(セーフ……?)
(それ、運が良かっただけじゃ……)
魔法とは――美しさと同じくらい、簡単に世界を壊すものなのかもしれない。
止められなくて、熱くて、怖くて、ただ助けを求めた自分。
今回はマナンが助けてくれた、でも、もし自分一人だったら。
森が燃え、集落が焼け、人々が焼け……
――かつての人間たちのように、力の使い方を誤れば……
「……それ、笑い話なんですか……?」
「笑い話っすよ。だって今こうして生きてるっすから」
「でも……もし……」
「もし、って考えると夜眠れないっす。だから今は、お風呂っす!」
「とりあえず頑張ったカオルくんが、お風呂に先に入るっすよ!!」
マナンは肩を叩き、強引に背中を押すようにして風呂場へ促した。
─────
「ふぅ……」
湯船に沈んだカオルは、天井をぼんやり見つめる。
石鹸の香りがほのかに漂い、張り詰めた心を少しずつほどいていく。
湯が肩の力を抜き、胸の奥の痛みをゆっくり溶かす。
(……僕にも魔法が使えた……あの瞬間は、本当に……夢みたいだったなぁ)
右手を見つめる。あの時、杖が炎を生んだのは紛れもない事実だ。
しかし同時に、その力が溢れ、制御できなかったのもまた事実。
(僕が……魔法……かぁ……)
胸の奥で、憧れと恐れが絡まっている。
憧れは甘い。恐れは冷たい。
どっちも本物だから、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
(制御できなかったのは、僕の……想像力が足りなかったのかな……)
もう一度手を握りしめる。
さっきマナンが触れた温度が、まだ皮膚の奥に残っているようだった。
(それとも……僕の中の何かが、多すぎるのかな……?)
考えたくないのに、考えが止まらない。
湯の中で目を閉じても、七色の炎がまぶたの裏に揺れる。
─────
湯から上がり、体を拭いて部屋へ戻る。
着替えを終えた頃、マナンが陽気な鼻歌を歌いながら風呂場へ入っていく姿が見えた。
その音が朽ちかけた家の壁に反響し、異世界の調べのように響く。
(やっぱり、不思議な人だ……マナンさんは……)
カオルは武器の手入れをしながら、明日への不安を思わずにはいられなかった。
(明日、万が一マナンさんが人間だと……魔法を使うと知られたら……)
集落の空気が凍る光景が、容易に想像できる。
よそ者は忌避される。魔法は禁忌。人間は伝説。
(そうなれば……マナンさんは追放されて……一人で彷徨って……)
(もし……万が一そうなったら……僕はどうすればいいんだ?)
(集落とマナンさん……どっちを取ればいいんだろう……)
孤独を知っているからこそ、一人にされる恐怖が痛いほど分かる。
答えが出ない。
答えを出した瞬間、何かが壊れる気がして、怖い。
(……でも、マナンさんがいなければ、僕は今頃あの魔獣に食い殺されてただろうし……
マナンさんの為なら、何だって……)
その時――。
「カオルくーん、お風呂上がったっすよー」
「ひぁっ!! ひゃい!!」
マナンが部屋の奥から現れた。濡れた髪が肩に張り付き、湯気の香りがふわりと漂う。
「ややっ、また難しそうな顔して考えてたっすね〜?」
マナンは笑っているのに、どこか心配そうだ。
カオルの耳が、その声色の違いを拾ってしまう。
「もしかして、明日、私がよそ者だからって追い出されたりしたら……
とか考えてたとかじゃないっすよね〜?」
「うっ……!」
図星を突かれ、カオルは思わず手に持っていた短剣を落としかける。
「あっ、やっぱりっすねぇ〜」
マナンは苦笑しながらも、優しく微笑んだ。
その表情は、怯える子供を落ち着かせる母親のように柔らかい。
「……すみません」
「謝らなくていいっす。考えるのは悪いことじゃないっすから」
「でも……もし、追い出されたら……」
「追い出された時の事は、追い出されてから考えるっす!」
「それに、カオルくんが明日側にいてくれるだけで安心っすから!」
その言葉は、カオルの心に僅かな安堵と不安をもたらした。
「大丈夫っす!! ”なんとかなる時はなんとかなる、なんとかならない時はなんとかならない”。
とりあえず明日は、団長さんに嫌われないようにいろいろやってみるのがいちばんっすよ」
そう言ってマナンはパチリとウィンクする。
「ちなみに今のは、私の座右の銘っす」
「ざ……ざゆう……?」
「あっ、座右の銘ってのはっすね〜、人生に役立つ言葉を手元に置いとくといいっていう習慣が――」
「まぁ、そんなのはいいっす!!」
マナンは勢いよく言い切り、自分の胸をぽんぽん叩いて笑った。
「うまくいかない時は諦める、うまくいけば何でもできる! とりあえず、明日も頑張るっすよ!!」
その明るさが、カオルの胸の重さを少しずつ溶かしていく。
無責任に聞こえるのに、なぜか背中を押される。
“完璧じゃなくていい”と言われた気がするからだ。
――カオルは、これまでの孤独な日々を思い返した。
生きるために働き、深く誰かと関わることもなく、ただ日々をやり過ごしてきた。
明日なんて、今日の延長でしかなかった。
「明日も頑張る……」
その言葉が胸に染みる。
閉ざされた暮らしの中では育たなかった何かが、心の底で芽を出しかけている。
「明日、とりあえず頑張ってみましょう。きっと大丈夫っすよ」
マナンの声は穏やかで、古い友人みたいに響いた。
カオルは小さく――だが確かに頷いた。
それが、未来へのほんの小さな一歩だったのかもしれない。
─────
「それじゃあ、今日はそろそろ寝ましょうか!」
マナンは伸びをし、ランプの明るさを少し整えた。
柔らかな光が二人を照らし、朽ちかけた壁の傷が歴史の皺のように浮かぶ。
「あ、僕は別の部屋に寝ますので……」
カオルが立ち去ろうとすると、マナンの表情が一変した。
「だ〜め〜っす!! 私と一緒にベッドで寝るっすよ!!」
両手を腰に当て、ふくれっ面で言い切る。
「いや、さすがに……」
カオルの顔がかっと熱を帯び、獣耳がぴくりと震える。
希望と混乱が入り乱れ、思考がまとまらない。
心臓が、さっきの魔法よりうるさい。
「なら、私が一人で寝て風邪ひいてもいいんっすか!?」
「えぇ!? そんな無茶苦茶な……」
――結局、カオルとマナンは一緒のベッドで眠ることになったのだった。
カオルの背中にマナンの”柔らかさ”を感じる。
頭が沸騰しそうになり、何も考えられなくなる。
「じゃあ、明かりを消すっすね」
そう言ってマナンがランプの火を消すと、部屋は静寂に包まれた。
闇の中で、二人の呼吸だけが近くにある。
(この状況で、眠れるわけ無いよ……)
――カオルの意識が夢の中へ沈んだのは
東の空が白み始めてからのことだった。




