第二十一話 魔法との、遭遇
「おっ、やるんすね〜、カオルくん!!」
カオルが杖を受け取った瞬間、ぱっと花が咲いたみたいにマナンの顔が輝いた。もともと大きな瞳がさらにきらきらと光って見えて、その反応の大きさに、カオルは思わず肩を揺らす。
「マナンちゃん感動っす……! まさか、今日初めて魔法を見た子が、魔法を出してみたいって思ってくれるなんて……すっごく嬉しいっすよ!!」
「……は、はい」
「いやほんと、これは嬉しいっす。めちゃくちゃ嬉しいっす」
「そ、そんなにですか……」
マナンは満面の笑みだった。
夜風に揺れる長い青髪が、まるでその喜びをそのまま映したみたいにふわりと舞う。帽子の影から覗く青い瞳は、まっすぐカオルの手元──銀色の杖へ向けられていた。
その視線は、品定めをするようなものじゃない。
ただ純粋に、期待している目だった。
「失敗を恐れないで、気楽にやれば大丈夫っす!!」
「気楽、に……」
「そうっすそうっす。深呼吸して、肩の力を抜いて、まずは『やってみる』でいいんすよ」
「で、でも……」
「大丈夫っす。最初から上手くやれなんて言わないっすから」
その笑顔の眩しさに、カオルの胸がきゅっと締まる。
──期待されることに慣れていない。
誰かに「やってみて」と明るく背中を押されることも。
失敗してもいい、と先に言ってもらえることも。
ましてや、“魔法”なんて伝承の中の呪いの力だと刷り込まれてきたのに、今はそれを「楽しいこと」みたいに扱われている。
それが恐ろしくて、でも同時に、少しだけ羨ましいとも思った。
「それじゃ、ちょっとこっちへ来てくださいっす〜」
そう言うや否や、マナンは足元に置いてあった細い木の枝を一本取り上げると、くるりと身を翻してカオルを軽やかに手招きした。
「こっちっす、こっち。まずは小さいところから練習するっすよ」
「……はい」
─────
小枝をくるくると指先で回しながら、かまどの前にしゃがみ込むマナン。
月明かりが枝の乾いた表面をわずかに照らし、かまどにこびりついた煤と、端に生えた苔の黒緑をぼんやりと浮かび上がらせていた。夜の空気はひんやりとしているのに、そこだけは少しだけ火の気を待っているように見える。
「え……えっと……」
カオルは杖を握ったまま立ち尽くし、マナンを見つめる。
「その辺に立ってもらえれば大丈夫っす。そうそう、もう少し前でもいいっすよ」
「こ、これくらいですか?」
「はいっす。ばっちりっす」
(うぅ……凄いキラキラした目で見られてる……)
視線を外したいのに、外せない。
嬉しそうにしてくれているのは分かる。分かるのに、その期待がまっすぐ向けられると落ち着かない。
カオルの胸の奥では、不安と期待がせめぎ合っていた。
自分が今、どれほどとんでもない場所に立たされているのか。それを理解しているからこそ、足がすくむ。
魔法。
さっきまで、自分とはまるで関係のないものだった力。
触れることすら恐れるべきものだったはずなのに、今はその入り口に立たされている。
「緊張しなくても大丈夫っすよ〜」
マナンは上半身をくるりとこちらへ向けて、にこっと満面の笑みを向けた。
その姿は、これから始まる遊びを心から楽しみにしている子供そのものだった。
「難しく考えすぎると、逆にぎゅーって固くなっちゃうんで」
「ぎゅーって……」
「そうっす。カオルくん、今ちょっとそうなってるっすよ?」
「う……」
「でも、それだけ真面目ってことでもあるんすよ。悪いことじゃないっす」
その無邪気さと、ぽんと気軽に認めてくれる言葉が、カオルの緊張を少しだけほどく。
──怖いのに、逃げたくない。
怖いからこそ、確かめたい。
「まず、杖の使い方っすけど」
マナンは自分の手を握り、まるでそこに杖があるかのような仕草をする。
手首の角度、指の置き方、力の入れ具合。わざとゆっくり見せてくれているのに、その動きだけで彼女が“慣れている”のがよく分かった。
「そんなにぎゅーっと握らなくても大丈夫っす。落とさない程度で」
「こう、ですか……?」
「そうそう。いい感じっす」
褒められるたびに、少しだけ肩の力が抜ける。
それでも、杖の冷たい感触はまだどこか現実味がない。
「次に、杖の先から炎が出るのを、頭の中でイメージするっす!!」
「……え、それだけですか?」
思わず、声が裏返りそうになる。
魔法って、もっと複雑な操作が必要なんじゃないのか。紋様をなぞるとか、石をはめるとか、何か儀式めいたことがあるんじゃないのか。
「そうそう。ただそれだけっす。魔法はイメージなんで」
「そんな……そんな簡単そうに言われても……」
「簡単“そう”に見えるだけっすよ。実際は、そのイメージが一番大事で、一番難しいところでもあるんす」
「……」
マナンは、カオルの手の中の杖を指差した。
「魔法の力は、使う人の想像力に左右されるっす。どんなふうに出したいか、どう動いてほしいか、どれくらいの強さか。そこが曖昧だと、魔法も曖昧になるっす」
「想像力……」
「だから、想像力が豊かな人ほど、魔法は上手く扱えるんすよ。もちろん慣れもいるっすけどね」
カオルは杖を見つめる。
(僕の想像力は……豊かなんだろうか)
火花が散る瞬間の眩しさ。薪に移る熱。煙の匂い。ぱちぱちと小さく鳴る音。
それなら、いくらでも思い出せる。
それは“想像”というより、“経験”だ。
(火を起こすのは……生きるための技だった、けど……)
(それを、“想像”でやれって……?)
頭の中で分かっていることと、身体で覚えていることが、うまく一つにならない。
火は道具で起こすものだ。手順があって、時間がかかって、慎重に育てるものだ。
何もないところから、いきなり生まれるものじゃない。
「ほらほら〜、早くっすよ〜」
マナンは、かまどに置かれた小枝を指差した。
「ここに向かって、炎をつけるイメージっすよ! 小枝に燃え移って、ぱちって音がして、ちゃんと火がつくところまで」
「そこまで、ですか?」
「そのくらいのほうが分かりやすいっす。ぼんやりより、はっきりのほうがいいっすから」
そう言って、彼女はカオルの背にそっと手を添え、杖の先端が火口に向くよう導いた。
小さな手なのに芯があって、迷いなく方向を決める。
「……こう、ですか……?」
「はいっす。うんうん、角度も悪くないっす」
月明かりが杖に刻まれた文様を照らし、揺らめく影がカオルの不安を映し出していた。
(えっと……イメージ……イメージ……)
(炎……炎……)
彼の脳裏には、これまで幾度となく行ってきた火起こしの光景が浮かぶ。
火打石を打つ音。散る火花。枯れ草に移る熱。小さな炎が息を吸うみたいに揺れて、やがて確かな熱になる感覚。
手のひらに残った、あの熱さまで思い出せる。
煙で目がしみたことも。
寒い朝に、火がついた瞬間だけ胸が緩んだことも。
「イメージしたら、あとは杖を振るっす!!」
「は、はい! えいっ……えいっ……!」
カオルは力を込めて杖を振る。
しかし、何も起こらない。
夜風が、乾いた枝をかすかに揺らすだけだった。
「ありゃ? 出ないっすね……」
「……」
「あっ、でもでも、そんな一回で気にしなくていいっすよ?」
「……はい」
──沈黙が、妙に重い。
かまどの前にいるのに、寒さが増した気がした。
自分だけが取り残されたみたいな、嫌な静けさだった。
「……惜しいっすね。もう少しだと思うんすけど」
「惜しい、ですか?」
「感覚は悪くないっすよ。たぶん、ちょっと力が入りすぎてるっす」
マナンは隣にしゃがみ込み、軽く肩を叩く。
「力まないで、炎の熱とか、枝が燃える感じを、もっと膨らませるイメージっす! 火を“出す”っていうより、そこに“ある”のを引っぱり出す感じでもいいかもっす」
「ある、のを……」
「そうっす。カオルくん、火そのものはちゃんと知ってる顔してるっすから」
その声は優しく、責める色は一切ない。
むしろ──一緒に成功を待ってくれている響きだった。
(惜しい……?)
(今、何か起きたのか……?)
何も見えないのに、“惜しい”と言われるのが怖い。
自分には見えない何かが見えているのかもしれない、という恐怖。
でも同時に、見えないなら見えるようになりたい、という欲も湧く。
「もう一回、やってみるっすか?」
「……はい」
「今度はもっと、ゆっくりでいいっす。焦らなくていいっすから」
「えいっ……えいっ……えいっ……!」
カオルは目をつぶり、杖を振る。
何度試しても、杖は沈黙したままだ。
空気は動く。
袖が揺れる。
けれど、それだけだ。
(できない……?)
胸がじわじわと焦りに締め付けられていく。
手のひらが汗で滑りそうになる。
耳の奥で、自分の鼓動がうるさい。
(やっぱり僕には……)
失敗の記憶が、いつもより鋭く刺さる。
両親を失ったときも、魔獣から逃げたときも、“できなかった”が重なってきた。
守れなかった。間に合わなかった。何もできなかった。
ここでも同じなのか、と。
唇がかすかに震える。
うまくできないことより、また“自分には無理だった”と思い知らされることのほうが、ずっと怖かった。
─────
「……あの……」
思い切って、カオルは口を開いた。
このまま黙って何度も振るより、聞いたほうがいい。そう思った。
「僕も……マナンさんみたいに、何か言ったほうがいいですか?」
「へ?」
マナンは一瞬、きょとんとした顔をする。
「あの……何か、呟いたりしてたので……」
「ああ、詠唱のことっすか?」
「え、詠唱……?」
カオルが頷く。
「あれは、魔力──マナを安定させるための補助みたいなものっす。気持ちを定めたり、イメージを形にしやすくしたりするための言葉っすね」
「じゃあ、ないと駄目なんですか?」
「別に、絶対必要ってわけじゃないんすよ?」
マナンは気軽に首を振った。
「詠唱を省略して、直接発動させることもできるっす。短縮魔法、とか言うんすけどね」
「そんなことまで……」
「慣れてる人はそっちのほうが早かったりするっす。でも最初は、言葉があったほうがやりやすい人も多いっすよ」
確かに、彼女は先程水を出した時、短い言葉しか口にしていなかった。
それでも水は溢れた。止まることなく、滾々と。
「高度な魔法は詠唱が必要っすけど……」
マナンは、ふっと悪戯っぽく笑う。
「でも、折角っすから……カオルくんにもやってほしいっすね〜、是非是非」
「え、僕がですか」
「そうっす。言葉にすると、気持ちも乗せやすいっすから。たぶん、今のカオルくんなら、そのほうがやりやすい気がするっす」
「……分かりました」
不安と期待が、胸の中でせめぎ合う。
それでも──彼は頷いた。
言葉を口にすることで、自分の中の恐れを越えられる気がする。
ただ黙って振るより、ずっと前に進めそうな気がした。
ここで逃げたら、きっと一生“魔法”が怖いままだ。
─────
「じゃあ、合図に合わせて言うっすよ。『ネオン・フレイム』!」
マナンは立ち上がると、カオルの杖を持つ手を両手で包み込んだ。
彼女の指先が温かい。
その温度が、妙にカオルを現実に引き戻す。
「もう少し上っす! そうそう、そのくらい」
「こ、こうですか」
「はいっす。いい感じっす。杖先がちゃんと前を向いてるっすよ」
肩を支えられ、体が自然と引き寄せられる。
近い。息がかかる距離だ。
でも今は、それが不思議と心強い。
「炎が出るのを、はっきり想像するっす!!」
「は……はい……先生!!」
その言葉に、マナンがぴたりと固まった。
「……先生?」
「……あっ……ダメでした……?」
カオルの耳がぴくりと震え、焦って視線が泳ぐ。
何かまずいことを言った気がする。
でも、出てきたのがそれだった。
教えてくれる人に、つい言ってしまった。
「いや、その……ダメじゃないっすけど……」
「す、すみません。何となく、そういう感じがして……」
「そういう感じ……」
一瞬の沈黙。
「………………まぁ……いいっすけど……えへへ」
マナンは視線を逸らし、頬をかいた。
耳元が、ほんの少しだけ赤く染まっている。
けれど次の瞬間には、こほんと咳払いをして、いつもの調子に戻った。
「と、とにかく集中っす!! 今は魔法っす!」
「はい!!」
「いいっすか、カオルくん。炎の色、熱、揺れ方、ちゃんと浮かべるっすよ」
「はい……!」
「じゃあいくっす。ネオン・フレイム!!」
「も、もう少し、お腹の中から!!」
「お腹の中……!?」
「声もイメージの一部っす! もう一回っす!」
「は、はい!」
息を吸う。
杖を握る手に、マナンの手の温かさが重なる。
火を思い浮かべる。
暗い夜に灯る火。
凍えた手をあたためる火。
生きるために必要だった火。
怖くて、でも頼もしい火。
「ネオン・フレイム!!」
「ネオン……フレイムっ!!」
叫んだ瞬間──
杖の先に、赤い光が灯った。
「──っ!!」
カオルの息が止まる。
目の前に“生まれた”。
──何もなかった場所に、確かに光がある。
それは最初、小さな火種のように震えていた。
けれど、次の瞬間にはふっと揺れ、膨らみ、確かな炎へと姿を変える。
ぱちっ、と小さな音。
熱が、夜の冷たさを押し返した。
鼻先に、燃える木の匂いが届く。
懐かしくて、でも全然違う。
今まで知っていた火は、自分で起こすものだった。
けれどこれは、自分の手から生まれた火だった。
「わぁ……」
言葉が震える。
嬉しいのに、怖い。
自分の中から出てきた力が、嬉しくて怖い。
「やったっすよ、カオル君!! ほら、出たっす、ちゃんと出たっす!!」
「で、でも、まだ……!」
「そうっす、だからもう少しっす! 今の感覚を忘れないうちに、もう一回いくっすよ!」
「は、はい……!」
マナンの声が弾んでいる。
それが嬉しくて、カオルの胸も熱くなる。
「さぁ、あともう一息っす。いっせーのーせーで……」
さらに二人で声を重ねる。
「「ネオン・フレイム!!」」
杖先から出た炎は七色の閃光を帯び、夜を切り裂いた。
一瞬、かまどの周りの影が虹色に揺れる。煤けた石も、枝も、二人の横顔も、刹那だけ別の世界のものみたいに照らし出された。
森の闇が、息を呑んだように静かになる。
「すごい……本当に……!」
自分の声なのに、どこか遠く聞こえた。
胸の奥が熱くて、うまく息ができない。
その瞬間、マナンは勢いのままカオルを強く抱きしめた。
「おめでとうっす〜!!」
「わっ……!」
「やったっすね、カオルくん! 初魔法成功っすよ! すごいっす、ほんとに!」
温かい体温が、胸いっぱいに広がる。
抱きしめられた瞬間、カオルの中の緊張が、糸が切れたようにほどけ、危うく膝が崩れそうになる。
カオルは杖を落としかけながらも、その腕を拒まなかった。
拒めなかった、というより──この温もりが、今の彼には必要だった。
胸に顔を埋め、込み上げる感情を必死に抑える。
(……出来た……)
ただ火を点けただけじゃない。
“自分でも何かができる”って証明が、胸の奥で燃えていた。
それだけじゃない。
それを目の前で喜んでくれる誰かがいる。
できたことを、自分のことみたいに嬉しそうに笑ってくれる誰かがいる。
そのことが、たまらなく温かかった。
マナンは、彼の頭を優しく撫でる。
「よくできました〜♪」
その声は、教師でも魔法使いでもない──
ただ、彼の一歩を心から喜ぶ声だった。
夜はまだ冷たい。森は暗い。
それでも今だけは、その腕の中と、かまどに灯った火の前だけが、ひどくあたたかく感じられた。




