マナンと、お風呂
「どこ行ったんだろう……」
カオルが家の前に立って待ってると、
数分後にマナンは小物を抱えて戻ってきた。
「おまたせっす!! 準備完了っすよ〜!!」
彼女が手にしていたのは、両側に取っ手の付いた小ぶりな鍋と、不思議な模様が刻まれた銀色の棒、
それから何本かの細い木の枝だった。
「……あの……それ、どこから……?」
カオルが恐る恐る問いかけると、マナンは得意げに胸を張った。
「ふっふっふっ……天才”魔法”少女、マナンちゃんに不可能はないっす!!」
「取り急ぎ必要そうなものは、ぜ〜んぶ私の帽子から出したっすよ〜」
マナンは、自信満々のドヤ顔で言い放つ。
(帽子から……? どうなってるんだろう……)
「……気になるっすか!? 帽子の中!!」
「……まぁ、少し……」
「なら、見ていいっすよ。はいどうぞっす!!」
カオルは、マナンに帽子を差し出される。
見た感じはただの円錐形の紫色の帽子だ。
帽子の裏側を見てみるが、特に何かが入っているわけでもない。
ーーただ、マナンの温もりが、少しだけ残っているのみだ。
「……何も入ってませんね……」
「ふふふ……カオルくんにだけ教えちゃうっすけど、
この帽子には特殊なルーン刺繍が埋め込まれてて、
魔力を流してそれを起動することで拡張空間に繋がるようになっててっすね
……って、聞いてるっすか?」
「るーん……かくちょう……くうかん?」
混乱するカオルをよそに、マナンは道具を抱えたまま踵を返す。
「まぁいいっす!! ではでは、さっそく火の準備をしましょうか〜」
「……あっ、はい!!」
カオルは目を丸くしながら、彼女の後を追った。
─────
「ここが、一応お風呂になってます」
「おぉ~……」
二人が辿り着いたのは、家の奥にある古びた風呂場だった。
土壁の匂い。湿った木材の匂い。
長く使われていない空気が溜まった独特の重さが、鼻の奥にまとわりつく。
「ほほぉ〜、これが風呂釜ってやつなんっすね!! 初めて見るっす!!」
マナンは円柱状の風呂桶を覗き込み、目を輝かせた。
子どもが秘密基地を見つけたときみたいに、表情が一気に明るくなる。
「ここに水を入れて、外から薪を焚べて沸かすんっすよね?」
「……たぶん……」
「おっと、自信なさげっすね……普段お風呂入らないっすか? ばっちぃっすよ?」
「いえっ! 体は洗いますけど……」
カオルの声は歯切れが悪い。
普段は川で体を洗うか、小鍋で湯を沸かして身体を拭くだけだ。
風呂釜を使うことなど、ほとんどなかった。
――“家族がいた頃”の道具。
今は、触れるだけで胸が痛むから、避けてきた。
「ふむふむ……なるほどっす!!
何事も挑戦っすから、とりあえずやってみますか〜」
マナンは軽やかな鼻歌を口ずさみながら、風呂桶の前に立つと、鍋を逆さに構えた。
ふっと目を閉じるマナン。
空気が、わずかに張り詰めた。
風呂場の重い匂いの中に、見えない線が一本、ぴんと張られる感覚。
「……ピュアリィ・ウォーター」
静かな呟きが響いた次の瞬間――。
鍋の中から、清らかな水が勢いよく湧き出した。
「わわっ、水が……!!」
まるで小さな泉が生まれたかのように、水は絶え間なく溢れ、風呂釜へと注がれていく。
水は透き通り、光を含んでいるように見える。
“川の水”とは違う。匂いがない。濁りもない。
音だけが、生々しいほど現実的だ。
「うわぁ……すごい……」
カオルの目が見開かれ、獣耳がぱたぱたと興奮気味に跳ねる。
水が桶に当たる音だけが、静寂の中で鮮明に響いていた。
(本当に……水が、出てる。これも”魔法”なんだよね……)
手で触れたくて、でも触れたら壊れてしまいそうで、指先が宙で迷う。
伝承の中の“魔法”が、今、目の前で風呂桶を満たしている。
あまりにも生活に直結しすぎていて、逆に怖い。
「ふっふっふっ! どうっすか!! 天才”魔法”少女マナンちゃんのマジックっすよ!!」
マナンは胸を張り、誇らしげに笑う。
その笑顔は無邪気で、魔法の恐ろしさを消してしまいそうな明るさだった。
「じゃあカオル君。この鍋、このまま持ってて欲しいっす。水が溜まるまで〜」
「えっ、あっ、はい。」
言われるまま鍋を受け取ると、鍋肌の冷たい水滴が指先に伝わった。
水は重い。冷たい。ぬるりとした質感がある。
――現実だ。幻じゃない。
カオルは鍋を必死に支えながら、桶に増えていく水位を見つめる。
同時に、胸の中の何かが、じわじわと形を変えていくのを感じた。
“怖い”が、“すごい”に押されていく。
─────
「さてっと。それじゃ私は、風呂釜の下のかまどに行って、火をつけてくるっす」
マナンがそう言って立ち去ろうとした、その時。
「あっ……あの」
カオルの声が、風呂場の空気を切り裂いた。
「ん?」
「……僕も……火起こし、見てみたいです……」
勇気を振り絞るような声だった。
濡れた鍋の取っ手を、指が強く握りしめている。
見たい。けれど、怖い。
怖いのに、目を背けたくない。
マナンの瞳が、ぱっと輝いた。
(おぉぉ……カオル君の方から……私の魔法を……!)
「そんなの……もちろんいいっすよ!! いいに決まってるっすよ!!」
その声は、弾むように明るかった。
褒められたみたいに、嬉しそうで。
(火起こし……)
火起こしカオルにとって、生きるための技だった。
薪を組み、火打石で火花を散らし、息を吹きかけて炎を育てる。
孤独な暮らしの中で、何度も何度も繰り返してきた作業。
炎が弱ければ凍える。火が消えれば死ぬ。
だからこそ、火は“奇跡”じゃなく“必死”だった。
だが、マナンは違う。
水を、魔法で生み出した。
ならば、火も――。
そんな期待が、カオルの胸の奥で膨らんでいた。
期待は、同時に恐れでもある。
――もし火まで簡単に出せるのなら、自分の“生きる技”は何になる?
─────
「大体これくらいでいいっすかね?」
風呂桶に溜まった水量を確かめ、マナンが尋ねる。
「はい……大丈夫だと思います……」
マナンは立ち上がり、鍋の縁にそっと指を置いた。
「止まれ」
囁くような言葉と同時に、水の流れがぴたりと止まる。
余韻の水滴だけが、ぽとん、と一つ落ちて終わる。
(……止まった)
“命令”で水が止まる。
それが当たり前みたいな顔で、マナンは笑う。
「じゃ、火起こしに行きましょうか〜」
二人は家の外へ出た。
─────
夜気は冷たく、月明かりが薪置き場の縁を照らしている。
風呂場の外壁に沿って回り込むと、風呂釜の下にあるかまどが見えた。
そこは長く使われていないらしく、苔が生え、蜘蛛の巣が張っていた。
灰は固まり、土は湿っている。
このまま火を入れても、上手く燃えるかどうか分からない――そんな状態。
「さて、それじゃあカオルくん。ここで問題っすよ」
マナンは楽しげに問いかける。
手には、あの銀色の棒が握られていた。
月光が複雑な模様をなぞるように滑り、表面が淡く輝く。
「私はどうやって火を起こして、お風呂を沸かすでしょ〜か?」
カオルは考える。
火打石、火口草、息遣い。
いつもの手順が頭に浮かぶ。
でも彼女は、魔法を使う。
「……その棒で、木の枝に火を……?」
「う〜ん……半分正解、半分不正解っすね」
マナンは指を唇に当て、意味ありげに微笑む。
「この銀色のおもちゃみたいな棒は『魔法の杖』。私の大事な相棒っす」
「おもちゃみたい」と言いながら、握る手は丁寧だ。
軽口の裏に、確かな愛着がある。
「でも残念。私がこれを使って火を起こすことはしないっす」
「……え?」
カオルの声が間抜けに抜ける。
“私が使わない”。その言葉が引っかかって、頭の中で転がった。
「フフン。今の言葉、違和感なかったっすか?」
「違和感……?」
「私は『私が』使わないって言ったっす。つまり……」
マナンの笑みが深まる。
夜の闇の中で、いたずらの火種みたいに。
「カオルくんが、この杖を使うんっすよ!!」
「……えっ?」
「え……えぇぇぇぇぇっ!!?」
叫び声が夜を裂き、森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
ばさばさと羽音が散り、闇が一瞬ざわついた。
カオルは後ずさりそうになって、必死に踏ん張る。
手のひらが汗で湿る。
獣耳が跳ね、心臓が喉まで迫る。
「大丈夫っす!!」
「ひうっ!」
マナンは、カオルの頭に”ぽん”と手を乗せた。
「子供は、最初はみんなこうやって魔法に触れるっすよ!!
魔法を使うための源……マナは杖に染み込ませといたから、
カオルくんは杖を振るだけで魔法が出せるっす!!」
宝物を渡すような瞳で、マナンは杖を差し出した。
「何事もチャレンジっす!!」
その差し出し方が、あまりに自然で、カオルは逆に怖くなる。
自分が“普通の子供”として扱われていることが、眩しくて、痛い。
カオルは、銀色の杖を見つめる。
それは未知で、恐ろしく――
それ以上に、心を強く惹きつけた。
もし、自分が火を起こせたら。
もし、魔法に触れられたら。
世界は変わる。自分も変わる。
そして――怖いほど、答えが欲しい。
「……やってみたいです」
震える手が、ゆっくりと伸びる。
指先が杖に触れる。
冷たい金属。模様の凹凸。
硬いのに、どこか脈打つような存在感。
そして――
彼は、差し出された魔法の杖を掴んだ。




