奇跡と、魔法
カオルは、理性で考えることをやめていた。
胸の奥に溜まった熱――怒りと悲しみが、身体を勝手に前へ押し出す。
涙はまだ乾いていない。喉は詰まったまま。視界の端は滲んでいる。
――それでも足だけが、勝手に進む。
進まなければ、ここに膝をついたまま壊れてしまう気がした。
─────
目の前の魔獣は、先ほど自分が対峙したものよりもなお巨大だった。
漆黒の体躯は洞窟の青白い光さえ呑み込み、輪郭だけが不気味に浮かび上がっている。
そこにあるだけで、空間の温度が下がるようだった。
赤い瞳が、獲物を見る色でこちらを見下ろしている。
――いや、獲物ではない。
“邪魔者”だ。さっき喰い終えたばかりの満足の余韻を残したまま、次の食事を楽しむような目。
(ウォルは……僕を逃がすために……自分から囮になった)
あの背中。あの声。
「行け」と言った瞬間の、迷いのない横顔。
(だから……)
(絶対に……仇を取る……!!)
「うらぁぁぁああ!!」
カオルは叫びとともに短剣を振り抜く。
浴びせた刃は、魔獣の脇腹を裂く
――はずだった。
手に返ってきたのは硬い手応えだけ。厚い皮膚の表面が、ほんのわずか削れただけだった。
刃が通らない。
金属が滑り、嫌な感触が掌に残る。
自分の腕力が弱いとか、そういう問題ではない。
相手の“格”が違う。
「グルゥゥゥゥゥアアアアア!!!!」
牙が襲う。
カオルは反射で跳び退いたが、避けきれない。鋭い先端が左腕をかすめ、皮膚が裂けた。
鈍い痛みが走り、熱い血が腕を伝う。
「ぐっ……!?」
思わず息を詰める。
痛みが遅れて広がり、腕が自分のものじゃないみたいに重くなる。
その瞬間にも、魔獣は止まらない。
血に濡れた顎を舐め、獣の喜悦を隠しもしないまま、じりじりと距離を詰めてくる。
床に落ちた血の匂いが、さらに濃くなる。
(これが……“魔獣”……!!)
逃げたい。
逃げれば助かる。
――でも、それはできない。
――逃げれば、ウォルの仇は取れない。
「グルゥゥゥゥゥ……!!」
低く響く唸りが、カオルの背骨を叩いた。
恐怖の奥から、別の感情が湧き上がる。燃えるような怒りが、震える膝を押し伸ばした。
「ウォルの……仇だぁぁぁぁぁあああああっ!!」
突き出した短剣が、今度は腹部の皮膚を貫く。
刃が入った――血が飛ぶ。
だが魔獣は怯まない。痛みを痛みとして認識していないかのように、巨大な牙が反撃の軌道を描く。
(この程度じゃ……足りない!)
「くそっ!」
退いても、追ってくる。
短剣で肉は裂けても、致命には届かない。
むしろ、自分の体力だけが削られていく。
「グルゥゥゥゥゥアアアアア!!!!」
咆哮。次の瞬間、巨大な前脚がカオルの脇腹を捉えた。
「うぐっ……!?」
衝撃が身体を持ち上げる。視界が一瞬で黒くなる。
耳の奥で轟音が鳴り続け、背中が岩壁に叩きつけられた。
肺の空気が一気に抜ける。
「ぐぁっ……ゲホッ、ゴホッ……!」
吐いたのは咳と、赤いもの。
喉が焼けるように痛い。
膝が崩れ、手から力が抜ける。
魔獣の影がゆっくりと近づき、その赤い瞳が、獲物の終わりを見定めるようにこちらを見下ろしていた。
(こんな……ところで……)
(ウォルみたいに……死ぬわけには……)
短剣の柄を掴もうとする。だが指先が痺れて動かない。
身体が鉛みたいに重い。視界の端が暗く滲み、意識が沈んでいく。
─────
――その時。
「レストア・ブレスッ!!」
マナンの声が響いた。
彼女の掌から淡い金色の光がこぼれ落ち、ゆっくりと川のようにカオルへ届いた。
光は粒になって舞い、血の匂いを押しのけるように、温かい気配だけを連れてくる。
カオルの身体に光が触れた瞬間、身体の奥に温かい風が吹き込む。
痛みが薄れ、痺れがほどけ、失った力が少しずつ戻ってくる。
裂けた皮膚は塞がり、血が止まっていく。
「無理に立ち向かってもジリ貧っす!! どうにかしてアイツの動きを鈍らせるっす!!」
カオルは息を呑んだ。
洞窟の青白い光の中で、マナンの姿だけが別の輝きをまとって見える。
命を引き戻す存在――そんな錯覚さえした。
「ダメージを与えるだけじゃダメっす!! 頭を使うっすよ!!」
その声が、カオルの耳の奥まで届く。
恐怖で曇っていた視界に、輪郭が戻る。
息が吸える。足が感じる。指が握れる。
カオルは立ち上がる。短剣を握り直す。呼吸は荒いが、足が――動く。
マナンは両手を胸の前で合わせ、ペンダントに触れた。宝石が脈打つように淡く光る。
「傷を癒やして体が軽くなる魔法をかけたっす!!
カオルくん!! もう少しだけ時間を稼いでくださいっす!!」
「っ……! わかりました!!」
声が出た。
それだけで、少しだけ自分が戻ってくる。
(ウォルの仇を取るんだ……!!)
(魔獣をここから、逃さない!!)
「グルゥゥゥゥゥオオオオオ!!!!」
魔獣が突進してくる。だが、さっきとは違う。視界が開ける。身体が軽い。
横へ跳び、すれ違いざまに短剣を振るう。
狙うのは硬い胴ではない。筋肉の継ぎ目、関節、薄い部分――。
「ガァァァァァッ!?」
魔獣の口から悲鳴が漏れた。確かに効いている。
魔獣の動きがほんの一瞬、乱れる。
カオルの視線が、広間に立ち並ぶ巨大な柱へ向かう。
石柱の列。狭い隙間。魔獣の巨体。
ひらめきが、脳裏を走った。
(逃げるんじゃない。戦うんじゃない)
(相手を……利用する!)
カオルは進路を変え、柱の間へ飛び込んだ。
石の森を縫うように走る。
軽くなった身体が、風みたいに動く。
「グォォォォォオオオオオ!!!!」
魔獣が追う。怒りに任せた巨体が、柱の間を強引に進もうとして岩壁を削る。火花が散る。
そのたびに地面が揺れ、柱の影が歪む。
「こっちだッ!」
カオルは声を張り上げ、さらに柱の間をくぐり抜けた。
赤い瞳はカオルだけを追い、周囲は見えていない。
(来た……!!)
中央の最も大きな柱へ向かい、直前で影に隠れる。
心臓が喉まで迫る。獣耳が迫る足音を拾う。
――重い。速い。近い。
(今――!!)
柱を過ぎる瞬間、飛び出す。
だが斬らない。
一撃を入れるより、今は“導く”ことが優先だ。
さらに奥の柱へ、走る。
魔獣が方向転換し、床の文様を踏み荒らしながら追ってくる。青白い光の脈動が乱れる。
足元の円環が、まるで怒っているみたいに明滅した。
カオルは広間を螺旋状に走り、柱と柱の配置へ魔獣を引きずり込んでいく。
そして――最後の誘導。
壁沿いへ回り込み、最も細い隙間のある柱間をすり抜けた。
人間の身体ぎりぎり。肩が擦れるほど狭い。
背後から迫る魔獣には――狭すぎる。
「ガキギィィィィィッ!!!!」
轟音。巨体が柱へ激突した。岩が砕け、床が震え、洞窟そのものが揺れる。
柱が軋み、粉塵が降る。
「グルゥゥゥゥゥアアアアアッ!!!!」
痛恨の咆哮。魔獣は柱に挟まれ、もがくことすらできない。黒い血が流れ、文様を汚していく。
「マナンさん!!」
「任せるっす!! カオルくん!!」
マナンが息を吸い、言葉を紡ぐ。
声の響きが変わる。洞窟の空気が、ひとつの“器”になる。
「原初の光……意志の元に……
星の瞬きに倣い……我が道を照らせ……
怒れ天光よ、光の巫女の名のもとに、罪を貫け!!
――シャイニング・アロー!!」
無数の光の矢が放たれ、束になって魔獣へ突き刺さる。
爆裂音。衝撃波。
漆黒の肉体が震え、ひび割れ、黒い粒子へ崩れ始める。
「ガァァァァァッ!?」
咆哮が空間を揺らす。だが逃げられない。柱が巨体を押さえつけている。
「カオルくん!! トドメっす!!」
背中を押す声。
「やああああああああああ!!」
カオルは最後の力を振り絞り、魔獣の首筋を切り裂いた。
刃が肉を裂き、黒い血が跳ねる。
巨体が一度だけ痙攣し――沈黙した。
漆黒の魔獣は、黒い煙のような粒子へ崩れていく。
煤のように散り、風に消える。
闇が、やっと終わった。
─────
「……倒した……の……?」
短剣を握る指が震えている。
腕が重い。耳の奥で、戦いの鼓動がまだ鳴っていた。
勝ったはずなのに、胸の穴は埋まらない。
その時。
「カオルくん……」
マナンが静かに近づいてくる。
さっきまでの戦闘の気配を抜き、いつもの軽い口調の影を取り戻しながら、それでも目だけは真剣だった。
「無事だったっすか?」
「あ……はい……」
答えた声はかすれ、嗚咽が混じった。
「ウォル……」
名前を口にしただけで、喉が詰まる。涙が勝手に出てくる。
勝ったのに。倒したのに。
いちばん守りたかったものは戻らない
――そう思った瞬間に、胸が潰れそうになる。
マナンが肩に手を置く。その温もりが、ほんの一瞬だけ、心をつなぎ止めた。
「……ごめんなさい」
カオルは小さく呟き、マナンの手を振り払う。
ウォルの遺体へ向かい、黒々と広がる血溜まりの前で膝が折れる。
声が出ない。
喉の奥で詰まり、嗚咽だけが漏れた。
マナンはその横に腰を落とし、ウォルの瞼へ手をかざす。
指先が微かに震える。
彼女もまた、“軽くないもの”を見ている。
「……勇敢な人だったんっすね……」
彼女は、言葉の後で沈黙した。
ただ、真剣な眼差しでウォルを見つめ続ける。
やがて――マナンの表情が変わった。
思いつきではない。計算でもない。
“何かに気づいた”目だ。
「……!! これなら、なんとかなるかもっすね……」
小さな呟き。
「ちょっとカオルくん!!」
「……?」
呼び声に反応し、カオルは顔を上げる。涙で視界がにじむ。
「親友くん、もしかしたら助かるかもしれないっす! 早く!!」
「……え? それって……ウォルが……生き返るかもしれないってことですか……?」
震える声。
希望という言葉を口にするのが怖い。
期待した瞬間に叩き落とされるのが怖い。
マナンはウォルの体を持ち上げ、傷口へ手を当て、ペンダントに触れた。
青白い光の中で、彼女の瞳には決意と不安が入り混じっている。
「このペンダントの中のマナを、ほぼ全部使えば、うまくいくかも……って話っすけどね……」
希望が差す。
胸の奥に、ひび割れたままの心へ、細い光が入り込む。
だが、次の言葉が、その希望に冷たい影を落とす。
「でも、もし無理だったとしても……せめて苦しんでいる彼の魂を、安らかな形であの世に送ってあげることはできるはずっすよ。」
「苦しん……でいる……?」
カオルは言葉の意味を飲み込めない。
目の前のウォルは明らかに死んでいる。息もない。冷たい。
なのに――苦しんでいる?
マナンは静かに続けた。
「魔獣や魔物に殺された魂って、自分が殺された無念さを持ったまま留まっていることがあるんっすよ……そういう魂は、自分が死んだ現実を受け入れられず、体と魂の間で引き裂かれたみたいな苦しみが続くらしいっす」
カオルの獣耳が震え、髪に隠れるように伏せた。
さっきまで立っていた怒りが、別の恐怖へ形を変える。
「特に、魔獣に喰われた場合は……魂の一部が闇に汚染されることもあるから危険っすね……」
ウォルを食い尽くした漆黒の影が、脳裏に蘇る。
咀嚼の音。血の匂い。
もし、ウォルの魂がまだ――あの闇の中で苦しんでいるなら。
「放っておくと、無念が膨らんで……悪霊になったり、復讐に飢えた魔獣に成り下がってしまうかもしれないらしいっす」
その言葉が、胸に沈む。
救ったはずなのに、救えていない。
死よりも長い苦しみがあるなんて――。
「そんなの、魂の牢獄から二度と抜け出せない輪廻の呪縛みたいなものっすからね」
カオルは目を閉じる。閉じても、ウォルの笑顔と惨状が交互に浮かぶ。
「だけど今なら――私が、まだ完全には離脱していない魂を浄化してあげられるかもしれないっす。どうかカオルくん、もう少しの間、力を貸してほしいっす!」
カオルは目を開け、涙のまま頷いた。
怖い。けれど、何もしない方がもっと怖い。
「力を……貸すって、どうすれば……」
声はかすれ、言葉は震える。それでも、希望の糸が切れない。
マナンは短く言う。
「私が体に手を当ててる間、ずっと親友くんに呼びかけてほしいっす。思い出とか記憶は、魂に直接届くから効くっす。魂が感じ取れなくなる前にやらないといけないっす。時間との勝負っすからね」
マナンはウォルに片手を添え、もう片方でペンダントを握った。
宝石が仄かに白く光り、その淡い輝きが血染めの衣服を透かすように揺れる。
光が、血の黒さを少しだけ薄める気がした。
「始めるっすよ。」
カオルはウォルの横に膝をついた。
冷たくなりつつある肩へ手を置く。粘つく血の感触と服の冷えが、心を刺す。
淡い光が粒子になって浮かび、ウォルへ注がれていく。
生き物のようにうねり、涙で滲む視界の中で幻想的に揺れた。
「ウォル!!」
嗚咽混じりの声。それでも、必死に呼ぶ。
「断たれし糸……光の源よ……再び息吹を……」
マナンの低い詠唱が響く。
彼女の額には汗が滲み、髪を伝い落ちる。
呼吸が浅くなるのが、横目でも分かった。
「ウォル!! だめだよ……僕、また魔獣で大切な人を……」
言葉が断片になる。涙が落ち、赤黒い濃淡を作る。
カオルはウォルの手を握り、冷たさに耐えながら、必死に呼び続けた。
─────
思い出が溢れ出す。
森で遊んだこと。焚き火の暖かさ。訓練で助けてくれた背中。両親を失ったあと、支えてくれた手。
怖い夜に、笑ってくれた顔。
“明日も一緒だ”と思わせてくれた声。
あの日、森で触手に捕まり、死を覚悟したとき――血相を変えて駆けつけた赤い髪。
(あの時も、ウォルは僕を助けた)
石柱の蔦がかすかに発光し、その光がマナンへ吸い込まれる。
空気がざわめき、風が吹き荒れ始めた。
洞窟の青白い光が、いっそう揺らぐ。
「お願いだ……ウォル……」
カオルの声が震える。
「君が僕の側にいてくれたおかげで、今まで生きてこられたんだ」
「君がいたからこそ、僕は今日まで生きてきたんだ!」
涙で喉が塞がる。それでも叫ぶ。
叫ばなければ、届かない気がした。
「だから!!」
「お願いだから……」
「生きててくれ!!」
叫びが洞窟に反響し、光の粒子が激しく揺れた。
それに引っ張られるように、風が一段強くなる。
マナンの拳が白くなるほど力が込められる。
「……!! ナイスっすよ、カオルくん。魂の形、確かに掴みましたよ!!」
その言葉に、カオルの心臓が跳ねた。
“掴んだ”。
つまり――そこにいる。
「迷えし魂よ……今一度肉体へと甦れ!!」
ペンダントが激しく輝き、風がさらに強まる。
ウォルの体から金色の光が立ち上り、渦を巻く。
それは魂の輪郭みたいに、かすかに人の形を描いた気がした。
「――リザレクション・ソウル!!」
光が爆ぜ、洞窟が一瞬昼のように明るくなる。
空気が震え、耳がきぃんと鳴る。
そして、唐突に風が止んだ。光も収まる。
沈黙。
カオルは息を飲み、ウォルを見つめる。
腹の裂け目は消え、血に染まっていた服は元の色に戻り、胸が穏やかに上下していた。
まるで眠っているだけのように。
(息……?)
震える指先が胸に触れる。
確かな鼓動。微かな温かさ。唇から漏れる息。
「息……してる……」
声が、かすれて震えた。
信じたくて、信じるのが怖くて、もう一度触れる。
鼓動は――そこにある。
「いやぁ~、最高等級の治癒魔法まで一発で成功させちゃうなんて、さすが私っすねぇ」
マナンは肩で息をしながら笑う。
だがその笑みは、無理に明るくしたものだった。
青い髪は少し湿り、肌は白く、ペンダントは微かに明滅している。
「もう大丈夫っすよ。魂を体に戻して、傷も完全回復させたっすから!!」
カオルは呆然としながら、ようやく言葉を吐いた。
「よかった……」
涙が溢れる。今度の涙は、落ちるたびに胸がほどけていく。
「……よかったよぉ……」
彼はウォルに顔を寄せる。胸の温もりが、凍りついた心を溶かしていく。
耳はまだ伏せているのに、少しずつ動き出す。
生きている温度が、何度も何度も“現実だ”と告げる。
マナンはそれを、静かに見守っていた。
だが――。
「っ……」
マナンが、がくりと膝から崩れ落ちた。
「マナンさん!?」
カオルが駆け寄る。
床に手をついた彼女の指先が震え、呼吸が苦しそうに浅い。
「大丈夫っすよ……」
無理に笑おうとして、息が途切れる。
「マナを一気に使いすぎた……軽いマナ窒息っすから……」
かすれた声。震える指先。明滅するペンダント。
カオルの胸に、新しい恐怖が生まれる。
――彼女は、ウォルのために、ここまで削ったのだと。
感謝と不安が、同時に押し寄せていた。




