第十三話 ウォル、散る
「ん〜っと、とりあえず、お互い自己紹介しないっすか?」
突然の提案に、カオルは数拍遅れて反応した。
さっきまで、自分は死ぬのだと思っていた。
扉が開き、光に呑まれ、理解不能な音声が響き、目の前に少女が“構成”された。
魔獣に追われ、息も絶え絶えで、もう駄目だと思っていたところへ、まるで空から何かが落ちてくるみたいに彼女は現れたのだ。
状況があまりにも現実離れしすぎていて、心も頭もまだ追いついていない。
助かったという安堵だけが遅れて押し寄せ、そのせいで逆に、思考はふわふわと空転していた。
「あ……はい」
呆然とした意識を無理やり引き戻されるように、カオルは少女の言葉に応えた。
声はまだ少し震えていたが、それでも先ほどよりはましだった。
「僕は……カオルって言います」
言った瞬間、ようやく自分の名前が“現実”に繋がった気がした。
自分がまだここにいること、生きていることを、その一言がかろうじて証明してくれたような気がしたのだ。
「カオルくんっすね。うん、覚えたっす」
少女はぱっと顔を明るくした。
「私はマナンっす。よろしくっす!」
少女──マナンは、屈託のない笑顔を浮かべながら右手を差し出した。
その笑みは、さっきまで洞窟を支配していた死の気配とはあまりにも場違いなほど明るい。
まるでここが血なまぐさい洞窟ではなく、どこか平和な道端であるかのような自然さだった。
「あ、えっと……よろしくお願いします……」
カオルはその仕草に一瞬戸惑いながらも、ぎこちなく手を伸ばす。
そっと触れた手は、思っていたより小さくて、柔らかかった。
握手を交わした、その瞬間。触れた指先から伝わる温度がやけに生々しく、彼女が“現実の存在”であることを否応なく突きつけてくる。
温かい。柔らかい。確かに生きている。
幻でも、夢でもない。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけ──
――そして次の瞬間、締めつけられた。
(何か……忘れている)
ひどく大事なこと。
今この場で、絶対に置き去りにしてはいけない何か。
心の奥で、警鐘のようなものが鳴っている。
けれど、それが何なのか、霧の向こうに隠れたみたいにはっきりしない。
(何か、とても大事なことを)
足音が、やけに遠く聞こえる。
頭の中では別の感覚が膨らんでいた。
「とりあえず、ここを少し調べるっすかね」
マナンは軽い調子でそう言い、手を離すと、部屋の中を見回し始めた。
「いやぁ〜、初対面でいきなり戦わされるとはさすがに思わなかったっすけど、こういう場所ってけっこう貴重っすからね。危険でも見ておきたいっす」
「み、見ておきたいって……?」
「だってまぁ、気になるじゃないっすか。どう見ても普通の場所じゃないっすよ、ここ」
まるで散歩にでも来たような足取りで、床の文様の上をひょいひょいと渡っていく。
「それにしても……こんな構造の遺跡? 初めて見るっすねぇ……」
マナンはしゃがみ込み、床の紋様に指先を這わせた。
「この円形配置……しかも術式の流れが片方向に偏ってるっす。これ、一方通行転移に特化した魔法陣っすか? 趣味悪いっすねぇ〜!!」
「いっぽう……?」
「一回飛んだら戻りにくいやつっす。使う側は便利でも、巻き込まれる方はたまったもんじゃないっすよ」
「そ、そうなんですね……」
「そうっす。しかも座標固定じゃなくて、かなり無茶な飛ばし方してる気配があるっす。いやぁ、設計者の性格が見えるっすねぇ……仲良くなれないタイプっす」
「あの、これが何か、わかるんですか?」
「なんとなくっすけどね、見たことある術式と似てるっすから。……でも微妙に違うっすね。古い型なのか、別系統なのか……」
独り言を並べながら、床を触り、壁をなぞり、部屋の奥へ進んでいく。
指先が水晶の縁をなぞるたび、かすかな反射が走る。
彼女はそれを観察しているようでいて、どこか“慣れている”動きだった。
壁に触れる指先は迷いがなく、視線は表面ではなく構造そのものを読んでいるようだった。
魔法陣だの術式だの、カオルにはよく分からない言葉を平然と口にするその姿は、年が近く見えるのに不思議と大人びて見える。
胸の奥のざわめきが、いよいよはっきりと形を成し始める。
(今すぐ、思い出さないと……)
自分はなぜここにいたのか。
何から逃げてきたのか。
誰と一緒にいたのか。
──その瞬間、胸の奥を締めつけていた不安が、鋭く輪郭を持った。
「……ウォル!!!!」
叫びは、洞窟の奥へと投げつけられた。
反響が遅れて戻り、空虚に散る。
「きゃっ! いきなり叫ばれると心臓に悪いっすよ! びっくりしたっす!」
「あ……す、すみません……!」
謝りながらも、カオルの視線は扉の外──崩れた壁の向こうに釘づけだった。
思い出した。
自分は一人じゃなかった。
あの時、ウォルがいた。自分を逃がそうとしてくれた。自分は走って、転んで、それで──
「ふぅ……別にいいっすけど……。ウォルって誰っすか?」
マナンが怪訝そうに首をかしげる。
カオルは息を詰めるようにして、必死に言葉を繋げた。
胸が痛い。肺が押し潰されそうだった。怖くて、言いたくない。でも、言わなきゃいけない。
「さっきみたいな魔獣が……もう一匹いて……」
「もう一匹?」
「僕の親友が……ウォルが、まだ向こうに……!」
言い終わる前に、喉が震えた。
“助けて”という言葉にならない悲鳴が、言外に滲む。
「もう一匹!?」
マナンの表情が変わる。軽さが消え、目の焦点が鋭く合う。
「それ、どれくらい前っすか!?」
「そんなに時間は経ってない……はずです……!」
「はず、でも十分っす。まだ間に合う可能性はあるっすね!!」
その言葉に、カオルの心がわずかに跳ねた。
だが、同時に最悪の想像も膨らむ。
「──とりあえず、急がないといけないっすね!!」
そう言って、彼女は迷いなく駆け出した。
「案内します!!」
「了解っす! 走りながらでいいんで、場所だけ教えるっす!」
カオルも後を追う。身体は重い。足がもつれる。
戦いの後で力は抜けきっているし、恐怖だってまだ消えていない。
それでも走る。走らなければならない。
「ウォル!!」
「親友くん! 聞こえてたら返事するっすー!!」
マナンまで声を張り上げる。
その声が妙に頼もしくて、余計に胸が苦しくなった。
─────
二人は崩れた壁を越え、広間へと飛び出した。
――そして、そこでカオルは“見てしまった”。
血塗れの顎を、満足げにぺろりと舐める漆黒の魔獣。
その舌がねっとりと動くたび、鉄の匂いが濃くなる気がした。
その足元。
腹部から引き裂かれ、内臓を食い荒らされ、
黒く濁った血溜まりの中に横たわる──
――ウォルの亡骸。
「……あ……」
声が、出なかった。
喉が開かない。肺は息を吸っているはずなのに、身体のどこにも空気が入ってこないような感覚だった。
洞窟を満たす青白い光が、あまりにも残酷なほど鮮明に、その光景を照らし出していた。影は逃げ場を失い、現実だけが剥き出しになる。
ウォルの顔は、驚きの表情のまま凍りついている。見開かれた瞳は虚空を映し、その奥にあったはずの光は完全に失われていた。
口元は微かに開いたまま。最後に何を言おうとしたのか、もう知ることはできない。
(……違う……)
頭の中で、必死に否定の言葉が回る。
(これは……夢だ……。さっきまで……一緒に……)
ついさっきまで、腕を掴まれた感触があった。
声があった。熱があった。
戻れ、と言われた。走れ、と言われた。
ぶっきらぼうな言い方をしながらも、いつだって自分を庇ってくれた。
少し先を歩いて、振り返って、早く来いよと笑っていた。
だが、鼻腔を突く鉄臭い血の匂いと、肉を引き裂かれた痕跡が、それを無慈悲に否定する。
「う……ぐ……っ……」
視界が歪み、音が遠ざかる。
耳鳴りがして、世界が薄紙の向こうに退いていく。膝から力が抜け、身体が前のめりに崩れ落ちた。
喉の奥から漏れた音は、もはや言葉ですらなかった。
嗚咽だけが、かろうじて生きている証のように震える。
ウォルの手は、何かを掴もうとするように伸ばされたまま。その指先は、偶然か、それとも最後の意志か──かすかに、カオルのいる方向を向いていた。
(……嘘だ……)
(助けるって……言ったのに……)
(僕が……戻ってこなかったから……)
罪悪感が、針のように胸に突き刺さる。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる感覚がした。
もし自分が逃げなければ。
もしもっと強ければ。
もし、あの時、別の選択をしていれば。
そんな“もし”が一瞬で無数に湧き上がり、その全部が自分を責め立てる。
マナンは、カオルの表情からそっと視線を逸らし、ゆっくりと魔獣の方へと顔を向けた。
その瞳からは、先ほどまでの軽さは完全に消え失せていた。冷たく研ぎ澄まされた殺意だけが、静かに燃えている。
魔獣は二人の姿を認めると、赤い瞳を細めた。
まるで食事の邪魔をされたことに苛立つように、喉の奥で低く唸る。
「……カオルくん。立てるっすか?」
問いかけは、返事を期待していなかった。状況を確認する言葉であり、同時に“命令の前触れ”でもあった。
カオルは、嗚咽を漏らすことしかできない。
小さな身体は喪失感に押し潰されていた。
洞窟の青白い光が揺れ、ウォルの凍りついた表情をさらに残酷に浮かび上がらせる。
そして──空気が変わった。
マナンの全身から、魔獣への殺気が立ち上る。
目に見えないはずの圧が肌を撫で、背筋を冷やす。
「カオルくんッ!! 立ちなさいッ!!」
怒号が洞窟を震わせた。
反響が重なって、まるで洞窟そのものに叱責されたように響く。
カオルは、はっとして顔を上げた。
マナンの瞳には、悲しみと同時に、必死の光が宿っている。彼女の手が胸元のペンダントに触れ、その宝石が鈍く輝いた。
その光は、さっきの軽い彼女を消し去る。
──ここにいるのは、“助けに来た誰か”ではない。
──“戦う者”だ。
「まだ終わってないっす」
「……っ」
「泣くのは後っす。悲しむのも、悔しがるのも、全部あとでいいっす」
「でも……ウォルが……」
「分かってるっす!!」
鋭い声が、カオルの言葉を断ち切る。
「分かってるから言ってるっす! 今ここで潰れたら、親友くんの死まで無駄になるっすよ!!」
その言葉には、怒りだけじゃなかった。
カオルを無理やり引き戻そうとする必死さがあった。
「さっきと同じっす。あなたは時間を稼ぐっす」
「……」
言葉が出ない。出るはずがない。
喉の奥が、泣き声で塞がれている。
「復讐しないと!」
「敵を取らないと!!」
「親友くんに、顔向けできないっすよ!!!」
その言葉が、崩れかけていたカオルの心に、無理やり杭を打ち込んだ。
(……ウォルの……仇を……)
仇。復讐。
その単語は本来、今の自分に似合わない。
けれど、似合うかどうかなんて関係ない。
今、立たなければ。
今、戦わなければ。
――ウォルの死は“そこで終わる”。
あまりにも一方的に奪われて、喰われて、地面に転がされたままになる。
そんなのは嫌だった。
怖い。逃げたい。泣きたい。何も見たくない。
それでも、それ以上に──このまま終わらせたくなかった。
マナンは一歩前に出て、魔獣からカオルを庇う位置に立つ。
だが完全に前へは出ない。
自分一人で突っ込むのではなく、カオルを立たせることを優先しているのが分かった。
「いいっすか、カオルくん。今の君は悲しい。苦しい。足も震えてるっす」
「……はい」
「それでいいっす。別に勇者みたいに綺麗に立たなくていいっす」
「……」
「でも、今だけは立つっすよ……歯を食いしばってでも、立つっす!!」
その声は、さっきの怒鳴り声よりも低く、真っ直ぐだった。
「君の親友くんは、君に生きてほしくて時間を稼いだんじゃないんすか?」
「……!」
「だったら、その時間を無駄にしちゃ駄目っすよ!!」
胸の奥に、何かが突き刺さる。
痛いくらいまっすぐで、だからこそ逃げられなかった。
─────
震える手で涙を拭い、短剣を引き抜く。
足はまだ重かった。
膝が笑い、腕が震え、視界の端が滲む。
喉の奥にはまだ嗚咽が引っかかっている。
それでも、立たなければならなかった。
ウォルのために。
自分のために。
ここで終わらせないために。
「うぁぁぁぁぁああああああああああ!!」
叫びとともに、カオルは走り出す。
涙で濡れた視界を、無理やり前へ固定する。
足元の血だまりが視界に入り、吐き気が込み上げる。
それでも止まれない。
止まったら、もう二度と前に進けなくなる気がした。
魔獣が、赤い瞳を細めた。
獲物を変えた、というより──邪魔者を排除する目だ。
「グォォォォォオオオオオ!!!」
唸り声が洞窟を裂き、
巨大な牙が剥き出しになり、影が跳ねた。
漆黒の巨体が宙を切り裂き、カオルへと襲いかかる。
「カオルくん、左っす!!」
「っ!」
反射的に体を捻る。
鼻先をかすめるように黒い爪が通り過ぎ、頬に熱い痛みが走った。
浅い。だが確かに裂けた。
「隙を与えちゃ駄目っす! 動き続けるっす!!」
「う、あああっ!!」
恐怖で足がもつれそうになる。
それでもカオルは短剣を握りしめ、魔獣の前を横切るように走った。
自分は勝てない。そんなことは分かっている。
それでも、今必要なのは勝つことじゃない。時間を作ることだ。
「こっちだ……! こっちを見ろぉぉぉ!!」
掠れた声で叫ぶ。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。情けない。格好悪い。みっともない。
それでも、その叫びには確かに怒りがあった。
ウォルを奪った相手への怒り。
何もできなかった自分への怒り。
全部を混ぜたまま、カオルは前へ出る。
魔獣が再び吠え、強靭な後ろ脚に力を溜める。
──来る。
そう思った瞬間、背後からマナンの声が飛んだ。
「そのまま引きつけるっす! 今、術を組んでるっす!!」
「はぁっ……はぁっ……わ、分かりました……!」
「今度は──さっきより容赦しないっすよ……」
その最後の声だけ、ひどく冷たかった。
カオルは短剣を構え直し、目の前の魔獣を睨み返す。
――親友の血がまだ冷えきらぬその場所で、
復讐の戦いが、今まさに始まろうとしていた。




