マナンと、魔獣
「全く……我ながら無理矢理が過ぎたっすかね。座標も入力せずに転移するなんて……」
ぼやき混じりの声が、静まり返った空間に落ちた。
先ほどまで吹き荒れていた暴風も、眩い光も嘘のように消え、
洞窟の奥は不自然なまでの静寂に包まれている。
その静寂の中心に――先の尖った大きな帽子を被った人影が、ぽつんと立っていた。
帽子の縁から覗く髪は、星空を閉じ込めたかのような深い青。
洞窟の青白い光を受けて、ところどころ銀の粒が混ざったようにきらめく。
瞳は空を映したように澄んでいて、まだ幼さを残しながらも、芯の通った凛とした顔立ちをしていた。
透き通るような肌には、統一感のある明るい紫色の衣装。
上半身を覆う衣は身体の線に沿いつつも、動きを妨げないよう計算された作りで、袖口や縫い目には細い装飾が走っている。
一方で腰から下を包むはずの布は驚くほど短く、まるで途中で役目を放棄したかのように脚の途中で途切れていた。
胸元で揺れるペンダントが淡く輝き、柔らかな輪郭が、彼女が少女であることをはっきりと主張している。
カオルは、その姿を前に言葉を失った。
――綺麗だ。
その一言で片付けてしまうには、あまりにも現実味がなかった。
見惚れてしまったかのように視線が外れない。
胸の奥が理由もなく熱を帯び、彼女がただ立っているだけなのに、心臓の鼓動が早まっていく。
(……なんだ、この感じ)
怖いはずだった。
魔獣に追い詰められて、泣いて、終わりだと思っていた。
なのに、目の前の少女を見た瞬間、体のどこかが――勝手に「大丈夫だ」と言い出した。
――この瞬間、運命の女性と出会ってしまったのだと。
そんな直感が、妙に確かな重みを持って胸の奥に落ちてきていた。
─────
少女はきょろきょろと辺りを見回す。
床の文様、壁の水晶、扉の向こうの暗がり
――視線だけで状況を測るように、落ち着きなく動く。
「あ……あの……」
カオルは、どうにか声を出した。
だが、続く言葉が喉の奥で絡まって出てこない。
自分でも何を言えばいいのか、分からなかった。
「ややっ? あなたは?」
少女がこちらに気づき、不思議そうに首をかしげる。
先ほどの独り言とは打って変わって、声の調子はどこか飄々としていた。
「そ、その……えっと……」
答えに詰まるカオルを一瞥すると、少女は興味を失ったようにふっと視線を逸らした。
「まぁ、誰でもいいっす。え〜っと……ここはどこっすかね?」
にこにこと周囲を見回しながら歩き出しそうになり、次の瞬間――
空気が一段、冷たく沈んだ。
少女の表情が一変する。
笑みが消え、目だけが鋭く細まった。
「あ……なんか、あっちからすごい気配がするっすね」
少女は部屋の入口へ視線を向ける。
その先で――
「グルゥゥゥゥゥ……」
魔獣が低く唸り声を上げ、突如現れた少女を睨みつけていた。
─────
洞窟の暗がりに浮かぶ漆黒の巨体。
油のような光沢を帯びた毛並み。
赤い瞳が、獲物を定めた獣の色で瞬く。
「……えっ?」
少女の口から、素の声が漏れた。
状況が理解できない、というより、今ここに「それ」がいること自体が想定外、と言わんばかりの顔だ。
魔獣は前足をゆっくりと踏み出し、地面を削る。
今にも飛びかからんと身構え、肩の筋肉が盛り上がるのが見えた。
「ええっっっ???」
少女の困惑が、悲鳴に変わるまでに時間はかからなかった。
次の瞬間。
魔獣は地を蹴り、少女めがけて勢いよく跳躍した。
「ええええええええええええっっっっっ!!!???」
洞窟に、間の抜けた悲鳴が響き渡る。
だが、その響きは冗談では済まない重さを伴っていた。
「あっ、危ない!!」
カオルは考えるより早く動いていた。
恐怖より先に、身体が勝手に反応した。
無意識に少女を抱き寄せ、間一髪で横へ飛び退く。
腕の中に収まった少女は驚くほど軽く、そして生きている温度があった。
魔獣の影が、さっきまで二人がいた場所に叩きつけられる。
岩が砕け、砂埃が舞い上がった。
「きゃんっ!! いきなり何するんっすか!! エッチ!!」
叫びが洞窟に反響する。
――今それを言うのか。
そう思った瞬間、自分の顔が熱くなるのをカオルは感じた。
だが、その言葉に動揺している暇もない。
カオルは少女を庇うように体を回し、腰の短剣を引き抜いた。
金属の冷たさが手のひらに伝わる。
それは恐怖で震える身体に、わずかな現実感と集中を呼び戻した。
魔獣は巨大な牙を剥き出しにし、もう一度、襲いかかる体勢に入っていた。
漆黒の影が二人の上に落ち、洞窟の闇をさらに濃くする。
「……ははーん。とりあえず状況は分かったっす。君は、あの獣に襲われてるんすね。」
少女はカオルの腕の中から振り返るように言った。
その声は、先ほどの動揺が嘘のように冷静だった。
「(コクコク)」
カオルは震えながらも、かろうじて頷いた。
「わかったっす。それなら少しの間でいいんで、あの化け物の注意を引きつけてもらえないっすか?」
「え? 引きつけ……?」
「大丈夫っす。そうしてくれれば、たぶん私がやっつけるっすから。」
「でも……僕一人じゃ……」
「三十秒くらいでいいっす。任せてほしいっすよ。」
反論する間もなく、
「とにかくやるっす!!」
少女はするりと腕を抜け、カオルの背中を叩いて前へ押し出した。
「うわっ!!」
――やるしかない。
――守るしかない。
短剣を構え、迫りくる魔獣の獣耳と赤く光る瞳を、必死に睨みつける。
「グルゥゥゥゥゥアアアアア!!!!」
巨大な咆哮が洞窟内を震わせ、音圧が肺を叩く。
鼓動が乱れ、手の震えが増す。
短剣が自分の意思とは無関係に跳ねそうになるのを、歯を食いしばって抑えた。
「わぁぁぁぁぁあああああ!!」
魔獣が飛びかかる。
カオルは紙一重で躱し、体勢を崩しながら床を転がる。
それでも、瞳だけは魔獣を追い続ける。
本能が、ほんの一瞬でも目を逸らしたら終わりだと告げていた。
――その一瞬、カオルは少女の方へ視線を投げた。
彼女は大きな帽子の下で目を閉じ、手を胸の中心に添え、静かに集中していた。
洞窟を満たす轟音の中で、星空のような青髪がわずかに揺れる。
その姿は、まるで古代の壁画に描かれた巫女が祈りを捧げているかのようだった。
少女は瞳を閉ざしたまま、長いまつげを微かに震わせている。
片手は胸の前で静かに組まれ、もう片方の手が、ゆっくりと魔獣へ向けて差し伸べられる。
不思議なことに――彼女の周囲だけ、空気が切り取られたような静寂に包まれていた。
魔獣の咆哮も、岩の崩れる音も、その領域を侵せないかのように、音が遠のいて聞こえる。
カオルの視界の端で、少女の胸元に下げられたペンダントが、かすかに輝き始めた。
洞窟を照らす青白い光とは異なる。
命を宿したような、金色の温もりを帯びた光だった。
「……すごい……」
思わず、言葉が漏れる。
恐怖を押し退けるのは、剣や勇気だけじゃない。
この場に――何かが「降りた」。そんな直感が背筋を震わせた。
「天より……注ぐ……清き……を照らし……退けよ……」
少女が紡ぐ言葉が、洞窟内に静かに広がる。
意味は分からない。だが、言霊の一つ一つに力が乗っていることだけは、肌で感じ取れた。
魔獣が体勢を立て直し、再びカオルへ飛びかかろうとする。
漆黒の巨体が闇の中で脈動するように揺らぎ、牙が光を反射して鈍く光る。
「我は……大いなる……に願う……」
その瞬間。
少女の指先が、爆ぜるように光を放った。
次いで、青白い光が掌から奔流となって解き放たれる。
洞窟内を一瞬で塗り潰す輝き。
壁に埋め込まれた水晶と同系色でありながら、比べものにならないほど密度が濃く、圧倒的だった。
「ソニック・レイ!」
叫びと同時に、少女の掌から幾筋もの光の矢が放たれた。
流星のような軌跡を描きながら、矢は魔獣の体へと吸い込まれていく。
――ズン、と空気が震えた。
肉を貫く音。
そして、魔獣の悲鳴が重なる。
「グルォォォォォオオオオオ!!!!!」
咆哮と衝撃が交錯し、洞窟が悲鳴を上げる。
音圧に耐えきれず、カオルは膝をついた。耳鳴りがして、世界が一瞬遠のく。
やがて。
光に照らされた漆黒の魔獣は、その巨体を床に崩し――ぴくりとも動かなくなった。
「……倒した……?」
信じられない思いで、カオルは魔獣を見つめる。
生きているはずのものが、急に「物」になったような静けさがある。
次の瞬間、魔獣の体が黒い粒子へと分解され始めた。
砂のように崩れ、煙のように舞い、風もないのに散っていく。
最後には跡形もなく消え失せた。
─────
洞窟には、静寂だけが残った。
さっきまでの死の気配が嘘みたいに、空気が軽い。
「……あ……ありがとうございました……」
カオルは、震える声で言った。
振り返ると、少女はわずかに肩で息をしていた。
乱れた髪の隙間で汗が光り、その表情には疲労と安堵が入り混じっている。
「いえいえ……なんとか上手くいってよかったっすね」
そう言って、少女は軽く笑った。
その自然な笑顔に、カオルの胸が熱を帯び、思わず顔を伏せる。
「あ……あの……本当に、ありがとうございました」
何度も頭を下げる。
手にはまだ短剣を握っていたが、握力が戻ってきたのか、震えは次第に収まっていった。
「お礼を言われるほどのことじゃないっすよ。助けられてよかったっす!」
「そ・れ・に~……」
ふいに、少女の指先が宙を滑り、カオルの頭へ伸びてくる。
何をする気だ、と問う暇もなかった。
「ひゃっ!?」
カオルの獣耳の根元に少女の手が触れた瞬間。思わず声が跳ねた。
そこは感情が直結するほど敏感な部位で、触れられた刺激が脊髄を駆け上がり、内側から熱が一気に広がる。
「おぉ……すごい。本物みたいにあったかい……っていうか……本物?」
少女は興味深そうに耳を撫でる。
そのたびに、カオルの体がびくりと跳ね、短剣を持った手が情けなく震える。
耳は彼女の指に反応するかのようにぴくりと動き、毛並みが逆立っていく。
恥ずかしい。むず痒い。逃げたいのに、逃げ方が分からない。
「すごい……ふわふわっすね。匂いは……」
少女が、顔を近づけた。
――その瞬間。
「ひゃぁぁぁ!! やめっ……!」
カオルが身を捩ると、少女はすぐに手を引いた。
「あっ、ごめんなさい。つい夢中になっちゃったっす」
照れたように笑う少女。
悪びれた様子はほとんどない。
カオルの顔は真っ赤に染まり、獣耳がぴくぴくと落ち着きなく揺れていた。
(な、なんなんだこの人は……!)
助かった安堵と、訳の分からない羞恥と、胸の高鳴りが混ざり合い、頭が追いつかない。
それでも――彼女がここに現れたことが「偶然ではない」気がしてならなかった。




