チャプター 17:「決断」
チャプター 17:「決断」
「買収、ね」
静まり返り、時計の秒針が刻む音が響くキクチレコードのオフィス。
久人は、社長用の机で手を組み、黙考する菊池社長を見下ろしていた。前夜のやり取り
を一通り説明し、閑葉の家庭問題が好転した事や藤堂東から持ちかけられた吸収合併の件
を全て話した。
しかし、藤堂東という人間と付き合いが浅い久人は、提案そのものの正誤が判断できな
かった。第一印象こそ人情味のあるブルースマンだが、大企業の社長を務める以上、その
程度の使い分けはできると見るべきである。
しかし、久人の憂慮を他所に、菊池社長は嬉しそうに目を開き、久人を見上げた。
「よし。俺はその話、乗ろうと思う」
経営者にとって即決即断は非常に重要な武器である。しかし、会社そのものを左右する
決断を即決で決めてしまう菊池へ、久人は不安を感じずには居られない。
「ちょっと、待ってくださいよ! 相手が何を考えているのかわからないのに、そんな簡
単に株式の売却を決めるのは危険です! 他にも候補を探して、それらと比較を――」
従業員が二人とはいえ、菊池社長は経営者兼大株主、久人は平の社員である。でしゃば
りである事を自覚しつつも口を出す久人だが、その口は持ち上がった菊池社長の掌によっ
て制止される。
「まあ、本当の所は俺にもわからないよ。ただ」
枯れかけた喉を潤すように緑茶を一口含んだ菊池社長は、嚥下しつつ、久人へ視線を戻
した。
「俺はパーティーで何度もご一緒させてもらったが、あの藤堂さんが、悪意を持って買収
を申し出てくるとは思えない」
「そんな事はわからないじゃないですか。社長に悟らせていないだけかもしれませんよ」
久人の切り返しに、菊池社長は目を伏せ、から笑いした。
「それは、まあ…………そうかもしれない。ただ、内藤君の話を聞いて、それは無いと判
断した」
自身の話した事を反芻しながら、久人は首を捻った。自分の持つ情報からは、東が本心
からアロイを思って買収を持ちかけていると確信できなかった。
尚も不信感を抱いた久人へ、菊池社長は苦笑を零す。
「以前藤堂さんに、期待できる新人が中々居ないと話したことがあるんだ。その時、彼は
自分の娘を音楽の世界へ連れて来たいと何度も話してた。豪腕、巨人と呼ばれた男が、娘
のプレイに魅せられたと言うんだぜ? まるで、夢を語る少年のような目で」
「それが、今回の買収が安全であると確信できる要素なんですか?」
「そう、だな。確かに言い切れない。だが、あのときのあの目は、決して嘘を吐けるよう
な人間の目じゃなかった。それに…………今の話で確信した」
穏やかな菊池社長の目が、一瞬で刃物のように鋭く細められる。
「今度こそは有り得ないと可能性から外してたが。藤堂柚姫ちゃんは…………藤堂さんの
娘だな?」
「は、はい」
菊池社長からの指摘に、久人は気まずさを感じながら肯定した。短期間であまりにめま
ぐるしく状況が変化したため、話すタイミングを完全に逸していたのである。
「だとしたら、俺達をどうこうするつもりは無いはずだ。藤堂さんは、内藤君に対して敬
意を持っていると言っていた。だからこそ、今回の買収を提案したんだろう? もしアロ
イだけを手に入れたいなら、ココが潰れてフリーになった魅音ちゃん達を引き入れれば済
む事だ。それを選択せず、実質融資とも言える提案を持ちかけてくれたのは、間違いなく
内藤君の功績だぞ? 娘を、柚姫ちゃんを預けるに足る男だと言ってくれているんだ。こ
んなに光栄な事はない」
「俺の…………功績?」
久人に実感はなかった。ただ必死に、魅音のギターを大勢に聴かせたい一心でやってき
ただけに、東に認められた実感は湧かなかった。
当惑する久人に、菊池社長は腕を組み、ニヒルに笑む。
「まあ、そういうわけだから、俺は藤堂さんへ株式の売却をしたいと考えている。あとは、
もう一人の株主がどう言うかだ」
視線を落としていた久人の双眸が、社長へと向き直る。
「…………えっ? 社長が全ての株を持っているわけでは」
「それが、な。実は一度、四割手放してしまっているんだ。六割は俺が持ったままだから、
俺だけでも応じる事はできるんだが…………藤堂さんの要望がどんなものなのか、現状で
はしっかりと把握できていないからな。もしも必要なら、残りの株をどうするのか、現株
主と相談しなければならないだろう」
菊池社長が椅子から立ち上がると、鞄も持たずに事務所から出て行った。
社長の行動が理解できず、久人はその場に立ち尽くしていたが、暫くして戻ってきた菊
池社長が連れている人物を見た途端、全ての思考が帰結する。
菊池社長の背後から姿を現したのは、割烹着を来た小川だった。
「どうぞ。入ってください」
「はい」
和菓子や洋菓子を持ってやってくる時のような柔らかな雰囲気はなく、静かに事務所へ
と入ってきた小川に、久人は静かに椅子を勧めた。
小川の正面に腰を下ろした菊池社長にあわせ、久人が腰掛ける。
二拍ほどの沈黙を経て、小川が口を開いた。
「菊池君。何か、大事な話があるのよね?」
年老いても、滑らかで柔らかい声色。
「はい。実は今回、会社の株を売る事にしまして。前回以上に、大きな規模で、です」
菊池社長を静かに見つめていた小川は、膝の上に手を重ね、目を伏せた。
「その言い方から、今回の売却先は、私ではないということね?」
「はい、その通りです。昨日、内藤君がレッドトラックスの代表、藤堂東氏から話を持ち
帰ってました。検討した結果、吸収合併の話を受けることにしたんです」
「そう」
小川の声には、嬉しさも、悲しさもなかった。ただ、それを受け止める強かさだけが声
になっていた。
目を閉じ、何度も頷いていた小川が、薄く目を開け菊池社長を見た。
「菊池君なりに、考えた上での決断なのね? 私を呼んだのも、先方が株式の七割を押さ
えたいと言ってきたから?」
「具体的には、まだ聞いておりません。ですが、もし企業としてキクチレコードを買収す
る事になれば俺の持ち株だけでは足りません。また、藤堂氏が良くとも、レッドトラック
スの幹部は首を縦に振らないでしょう。少なくとも、小川さんに株式の一割を売却して頂
きたく思い、お呼びした次第です。お忙しい中、大変恐縮なのですが…………」
言葉通り恐縮して見せる菊池に、小川は初めて明るく笑う。
「フフフッ。いいのいいの。菊池君が考えて決めた事なら、私も協力します。けれど」
小川の視線が、久人へ向けられる。
「内藤君は納得しているの? 確かに、経営をしているのは菊池君だけど、内藤君もそれ
に負けないくらい頑張っているのよ? 内藤君、貴方は、きちんと納得できた?」
「俺は…………」
久人は言い淀んだ。活動資金は喉から手が出るほど欲しいが、大企業の社長が一筋縄で
行く筈がないと言う疑念もある。
久人は二つを天秤にかけ、熟考した結果を正直に吐露する。
「正直、藤堂氏の腹の内はわかりません。ですが、魅音達が活動する為の資金が欲しいの
も事実です。本来なら、博打に出ず地道に知名度を上げてゆく手法が王道ですから。それ
が可能というなら、不安も飲み込みます」
偽りのない本音。
小川の目を見つめながら、久人は更に続けた。
「それに、藤堂氏が娘である柚姫ちゃんの活躍を願っている事は確かです。心許ない根拠
ですが、俺はそれを、信じます」
「そう」
久人の本音を受け取った小川は、視線を落とし、その後、菊池社長を見た。
「…………わかりました。私の持ち株が必要な時は言ってください」
「あ、ありがとうございます!」
膝に手をつき、深々と頭を下げる菊池社長に続き、久人も頭を下げる。
「さて、内藤君」
頭を下げていた菊池社長が姿勢を直すと、久人へ視線を移す。
「これで、またアロイが活動できる目処が立った。今まで本当に、よく頑張ってくれた」
感謝を表す菊池社長。
しかし、久人はそれに見合わないような表情で見返していた。
目を見開き、歯を剥く。
まるで、獲物を見つけた猛獣のような顔。
「社長、何を言ってるんですか。スケジュールの再構築、合併後の、この会社の立ち位置
…………これからですよ。俺達の反抗はこれからです」




