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チャプター 14:「巨人」

チャプター 14:「巨人」





 時計は、午後五時半を過ぎた辺りを指していた。夏至を過ぎて暫く経つとは言え、まだ

まだ日は高く、気温も高い。

 胸元を開けたい衝動を抑えつつ、スーツの襟をただし、ネクタイを整えて、目の前の巨

大な門へ目を向ける。

 久人がやって来たのは、藤堂家。魅音から連絡を受け、もう一度演奏を聴くためにやっ

て来たのである。

「何度来ても慣れないな…………ここは」

 緊張している理由は、自分に場違いな邸宅へやって来た事だけではなかった。この建物

には当然、柚姫の父である藤堂東も住んでいる。多忙であるレッドトラックスの代表は別

宅に住んでいるのかと楽観していた久人は、先日の邂逅によってすっかり身構えてしまっ

ていた。

 インターホンを押下すると、暫くして、聞き覚えのある声が応答した。

『やっと来たのね。今開けてあげるから、さっさと入ってきて』

 ふてぶてしい物言いは、家人である柚姫ではなくエリカだった。自宅ではないのに、何

故こんなに態度が大きいのか肩を竦めた久人だが、それがエリカという少女であると割り

切り、開き始めた門の隙間目掛け歩き始めた。

 玄関には、既にエリカが待ち構えていた。腕を組み、久人を睨めつけるその視線から、

『暑いから早くしろ』と、エリカの感情が滲み出る。

 年長者として情けないと思いつつも、招かれている事から強く出られず、足早に玄関へ

滑り込んだ。

「ふう…………」

 内部には空調が行き届いており、優しい冷気が額の汗を冷やす。

 自分の靴を揃えている間にも、エリカは我関さずといった様子で先に移動を始めてしま

う。

 そしてふと振り向くと、エリカが、垢抜けた中年の男が立っている。

 藤堂東。

 レッドトラックスの代表取締役にして、藤堂柚姫の父である。

 何かしらの問答を終えたエリカは、何度か首肯し、スタジオの方へ歩き始める。東へ一

言「お邪魔しますと」会釈し、通り過ぎようとする久人へ、東は微笑を浮かべた。

「内藤君、だったね。少し、僕と話をしないか」

 音楽界の巨人と呼ばれる、藤堂東に呼び止められた。久人の足は金縛りのように凍りつ

き、油の切れた機械よろしく、ぎこちなく振り返る。

 東は穏やかに笑っていた。威圧感を微塵も感じさせない、人当たりの良い顔に、久人の

緊張もいくらばかりかほぐれる。

「どうかな? エリカちゃんや柚姫には、もう伝えてあるから」

「は、はい。是非」

 口では肯定しつつ、逃げ場を塞がれた事に久人は焦った。いくら気さくに話しかけられ

ようと、相手が大企業の社長である事に変わりはない。その上、一般人には知られていな

い業界裏の大改革をした事でも有名であり、一企業の長以上の存在感を持つ男。

 萎縮しない理由がなかった。

「ここで話すのもいいが…………ちょっと来てくれるかい」

「はい!」

 歩き始めた東に続く。キッチンや客間に分岐する廊下を抜け、エリカ達が待つ防音ルー

ムを通り過ぎる。

 廊下の突き当たりに取り付けられた、木目調の厳かな扉を開け、内部へ入る東。そして、

内部から手招きされた久人は、室内へ入った。

「お、おお…………」

 背後でグレモンハンドルを閉じる音が聞こえ、部屋の気密が保たれると、久人にはそこ

が防音された部屋であると理解した。

 それもその筈。驚嘆の声を洩らした久人の目に映るのは、数々のヴィンテージギター。

室内は王宮のように装飾され、艶やかな飴色の家具や、本棚に整然と並ぶ音楽雑誌や、無

数のレコード。室内には、淡いウィスキーの香りが漂い、それを証明するように、棚の一

角には見たこともないような高級酒が並べられていた。

 そこは、音楽好きの男なら誰でもあこがれる、夢の部屋だった。

 立ち止まったままの久人避け、部屋の隅に移動した東は立てかけられたギターを手にし

た。弾き込まれた様子のそれは、飾られたどの楽器よりも、地味で安っぽい(・・・・)。

「じゃあ、早速やろうか。スリーコード、できる?」

「で、できますけど…………話ではなかったんですか?」

「そうだよ。僕はミュージシャンの人となりを知るのに、ブルースで語り合うのが一番い

いと思ってる。即興で鳴らされた音ほど、今までの経験や人間性を映し出すものはないか

らね。どうだい?」

「は、はい」

 困惑しながら、東へ近づく久人。そして、差し出されたギターを受け取ると、身震いし

た。

 半世紀前に生まれた、セミアコと呼ばれるエレキギターの始祖。復刻ではなく、オリジ

ナルモデルである事はヘッドに刻まれたロゴが物語っている。

 一本百万円はくだらない、高級ギターである。

「お、俺。こんなギター弾けません! もっと、普通の奴を――」

 動揺する久人を見た東は、カラカラと笑って見せた。

「生憎、この部屋で一番代えの効くギターがそれなんだ。僕が二番目によく弾く奴だから、

調整はきちんとしている。安心してくれ。ああ、アンプはそれを」

 感覚の違いに眩暈を感じながら、受け取ったシールドケーブルを繋ぎ、そっとスイッチ

を入れる。

 勧められた椅子に腰掛けた久人は、緊張した面持ちで東を見た。

「さて。それじゃあ、好きに始めてくれ。僕は内藤君についていくから」

「は、はい。では――」

 久人が演奏を始める。選んだキーはA。〝ラ〟から始まる、ブルースの中でも特にポピ

ュラーなキーであり、久人が好きなバンドが多用するキーでもあった。

 久人の提示したリズムに、東がソロパートへ合流する。

「あっ…………?!」

 驚愕。

 かなりのブランクを経ても久人はギターを弾けている自分に驚いた。そして自分以上に、

東のギタープレイは、老練のブルースマンを思わせる。突出した技術を披露しているわけ

でも、ユニークなフレージングを行っているわけでもない。

 そんな事がどうでも良くなる音が、東の弾くギターから発せられていた。

「さあ、内藤君」

 十二小節のソロパートが終わり、リズムとリードが入れ替わる。たっぷりと一小節拍を

測り、久人は落ち着いてリズムへ乗る。

 即興演奏ほど、当人の演奏技術が反映されるものはない。咄嗟に出るのは、手に染み付

いたものだけである。

 久人は迷わず、己の好きな手癖を披露する。フレーズの構成は決して複雑ではない。た

だし、幾度もかけられたチョーキングが、無機質に聞こえる音に感情を吹き込んだ。

 そして、久人のパートが終了すると、もう一度東へバトンが移る。

 やはり一度目と同じように、味のあるフレーズを好む東。久人には、相手の趣向が見え

て来た事を不思議に思う。

 自分へ返るソロ。東のリズムへ、もう一度ソロを刻む。今まで感じていた不安や緊張が

解け、耳へ届く音と、両手の感覚に全てを委ねた。

 お互いに二度、ソロを行き交わせた久人と東は、アイコンタクトを取りながらセッショ

ンを終了させた。

 東は、無邪気な子供のように笑い、手を叩く。

 ひとしきり笑った東は、息を落ち着けるとギターを置く。そして、椅子に腰掛け直しな

がら、久人を見つめた。

「実に、実に良い。もっと、前のめりで、無茶の過ぎる男かと思っていたんだが」

 アンプの電源を切り、ギターを差し出す久人に、東は歳に見合わない表情を向けた。

 それはまるで、初めて息子と音楽を楽しんだ父親のような顔だった。

「なかなかどうして。随分とどっしりとした音楽が好きなんだな。流行とも違う。内藤君

が本当に好きのは、八十年代の、あの頃か」

「はい!」

 それがわかっていたのか、東は背もたれへ身体を沈め、目を閉じ何度も頷いた。

「だから魅音ちゃんも、あの頃の音楽が好きなんだな。なるほど、君には…………芯があ

る。何にも流されない確たる芯が、ね。安心して娘を任せられそうだ」

 安心した様子の東に、久人は心苦しさを感じずには居られなかった。久人は今日、その

柚姫に脱退を宣告しなければならないかもしれない。

 しかし、久人の憂いは、突如放たれた強烈な圧力に押し流された。

 緊張が再び押し寄せる。

 久人の正面に座る東は、スイッチが切り替わったように精悍な顔つきになり、久人を見

ていた。

「ときに、内藤君。僕は、君の会社を…………キクチレコードの株式を取得したいと考え

ている」

 久人は目を瞠った。まるで、狙い澄まされたからのような機。

 不信感を抱きながら、勇気を振り絞り、正面の巨人へ目を向ける。

「弊社のような…………取るに足らない零細企業を、ですか?」

「ああ、そうだ。僕は個人的に、菊池君を好く思っている。そして今は、内藤君もだ。ど

うやらキクチレコードは、資金的にかなり苦しいそうじゃないか。レッドトラックスの傘

下に加われば、グループ企業としても支援しやすい」

 あたかもこちらにメリットが多いかのような言いようは、交渉の常套手段である。

「目的は、アロイですか」

「そうだよ」

 単刀直入な問いに、シンプルな回答。

 久人は歯噛みした。

「では、株式取得後に――」

「ああ、安心してくれ。キクチレコードの人間をどうこうするつもりも、娘達をどうする

つもりもない。ただ、ほんの少し経営に口を出させてもらうだけだ」

 東の言う、ほんの少しとは、どの程度のものなのか。

 久人の抱く不信感が強まっていった。

「俺にはわかりません。それによって、御社に、レッドトラックスにどのようなメリット

があるのですか?」

 久人が問うと、東はこれでもかと声高らかに笑う。

「会社にメリットは薄いかもしれないな。メリットは精々、キクチレコードから得られる

可能性のある配当と、経営に関する決定権を幾らばかりか握れる事だろうか」

「では何故?」

「君への、内藤君への敬意さ」

 あまりに突飛な発言に、久人の思考は混乱を極めた。

 大企業の社長に敬意を払われるような事をした覚えはない。それどころか、今まで碌な

接点がない相手に、どんな理由で敬われているのか。

 困惑する久人の思考を読み取ったのか、東は目を伏せた。

「娘が、ね。どうしても音楽をやりたいと言ってくれたんだ。僕は彼女を、何度もプロの

奏者にならないかと口説いてみたんだが…………これが、中々色好い返事を貰えなくてね。

ただの親バカだと思われているのか、それとも、人前に出るのが嫌だったのか」

 東の独白に、久人は黙って耳を傾ける。

「そうしている間に、娘が仲間とバンドを始めたと言うんだ。勿論、エリカちゃんが手を

引いてくれたんだろうがね。そうしている間に、君がやってきた。どんな魔法を使ったの

か、娘が舞台に上がりたいと言う。僕にできなかった事を、君はやってくれたんだよ。内

藤君」

「いや、俺はそんな……」

 久人が零した言葉は謙遜ではない。本当にそんなつもりはなく、ただ、魅音をステージ

に上げる過程で自然に成った結果である。

「内藤君がどんな風に考えていようと。娘を、柚姫をその気にさせてくれた事は感謝した

い。だからこそ、今回の話を菊池君に持ち帰って欲しい。頼む」

 頭を下げる東に、久人はただただ恐縮した。そして、今までの思考から、良心の呵責に

苛まれた。ますます、柚姫をステージから下ろす事が難しくなる。

 しかし、久人の腹は決まっていた。音楽界の巨人を前に、覚悟を決める。

「藤堂さん。俺は正直、今後柚姫ちゃんが活動する事に不安を持っています。先日のステ

ージで、俺の犯したミスが、結果的にあのような事態を引き起こしてしまいました。です

が、今後もし、同じような事が起これば。娘さんが…………柚姫ちゃんが無事である保障

はありません。それに、バンドの演奏レベルに関わらずファンは離れていくでしょう」

 正直に心中を告白した久人だが、東の反応は予想外だった。

「そうだろうな。一度ならず二度までも、となれば、期待したユーザーも離れていくだろ

う。柚姫にしても、また神経性のショックが起これば危ないかもしれない」

 東は、歳相応のニヒルな笑みを浮かべた。

「だからこそ。今回は、僕も柚姫の恐怖症を克服する為に、可能な限り手を打たせてもら

ったよ。娘が、柚姫が強く望んだんだ。そして僕も、娘の叩くドラムを、皆に聞いて欲し

いからね」

 熱を持って語る東に、久人はようやく気がついた。

 この男は、柚姫の父は、自分と同じなのだと。

 前方にそびえ立っていた見えない壁が取り払われ、親近感が湧き始める。

「そして、結果は十分出た。スタジオに行って、娘達の演奏を聴いてくれ。もし君が納得

できたなら、今の話を検討してくれと伝えてくれないか」

 ここまで言われてしまえば、久人も引き下がるわけには行かなかった。東の言葉を何度

も租借し、黙って四度、頷いた。

「わかりました。柚姫ちゃんが心配要らないと確信できたなら…………社長へ、今の話を

伝えさせて頂きます」

 椅子から立ち上がると、それに反応した東が立ち上がり、部屋の扉を開ける。そして、

廊下を先に進み、スタジオの前で立ち止まると、背後の久人へ視線を送る。

「さあ、聴いてくれ。宇宙で一番痺れる音楽だ」

 言い回しがエリカと同じ事に苦笑する。そして首肯し、スタジオの中へ入っていった。





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