チャプター 13:「虚空」
チャプター 13:「虚空」
久人の心は空っぽだった。
自分の事務机に置かれた一枚の書面に視線を落とし、事務所へ出勤してから一つも業務
をこなしていない。身体中の筋肉が弛緩し、思考は朦朧とし。
机の上に置かれた〝参加除名通知〟を指で撫で、静かに目を閉じる。
ようやく捕まえた光が、両手から零れ落ち、何処かに消えていった。
残された久人は一人、途方に暮れる。道程を照らす光を失い、前に進むことも、後へ引
き返すこともできない。
あまりにもあっけなく、夢は崩れ去っていた。
もしも、次のチャンスが存在していたならば、挫けず、前向きになれたのかもしれない。
しかし、社の運転資金が絶望的である事は、久人自身がイヤになる程判っていた。
最後の一滴まで使い切り、何とか取り繕う事ができた大一番での失敗。
久人の耳には未だに、救急車へ運び込まれる柚姫と、それを遠巻きに嘲笑する参加者達
の声がこびりついていた。
「…………クソッ!」
思い出し、机へ拳を叩きつける。今頃、あのステージで他のアーティストが観客を湧か
せているのかと考えると、空虚だった心に、悔しさがこみ上げて来る。
魅音達の音を聞いてもらえなかった。
階段の、最後の一段まで、手を引いてやれなかった。
「ゴメン…………ゴメンな…………ゴメン……」
自責の念に圧迫され、久人は皮膚が破れる程唇を噛んだ。
「内藤君」
頭を抱え視線を落とす唯一の社員へ、菊池社長が声を掛ける。直ぐに反応できなかった
ものの、社長が自分に話しかけている事に気がついた久人は、慌てて机の上を整理する。
出社してからまともに進んでいなかった仕事を必死に隠そうと。
久人の焦りとは裏腹に、菊池社長は歯切れ悪く頬を掻いてみせる。
「その…………本当にすまない。あれは俺のチェックミスだ」
「ち、違います! 俺が受け取りに行ったんです。俺がやらなければならなかったんです。
俺が……あそこで俺がきちんとしていれば…………?!」
途切れ途切れに、久人は後悔を吐き出した。自分がどんなに女々しくても、久人本人に
も抑えが利かなかった。
しかし、いくら悔いようと、流れ去った時間は取り戻せない。
「なあ、内藤君」
返事がなくとも、菊池社長は久人の横に椅子を引き寄せ、腰掛ける。
「もう一度、頑張ってみないか?」
社長の一言に、久人は今までにない、険しい視線で菊池社長を睨めつけた。無論、上司
に対する態度ではない。
それでも、久人には睨まずには居られなかった。社長が御人よしで気遣いができようと
も、嘘をついてまで励まして欲しくはなかった。久人はキクチレコードの金銭的な余裕が
どれほどあるのか、イヤと言うほど理解している。社員、たった二名の会社である。知ら
ない方が難しい。
そして、散々計算しつくした社の余力はほぼ全て、ニューウェイブコンサートと、それ
らで頒布する予定のCDのプレスに費やされていた。
最早、一度転げた会社が立ち直る余地はない。
それでも、菊池社長は久人の視線を受け、尚も言い続けた。
「内藤君。もし、もう一度…………内藤君とアロイの子達にその気があるのなら。俺には
活動資金を用意する準備がある」
半ば自棄になっていた久人は、社長の提案に冷たく笑った。
「どうやって資金繰りするんですか。うちみたいな零細に、追加で融資してくれる銀行な
んて、もうありませんよね?」
久人の言う通り、キクチレコードの経営状態が非常に危険な事は金融業者にも知れ渡っ
ていた。今回の資金も、菊池本人が何度も足を運び、粘った末での融資だった。地銀の担
当者も貸し渋っていたが、菊池に根負けしたのか、小額の貸し出しを承認してくれた事で、
今回の計画は実行に移すことができたのである。
どんな手段なのか、久人は生意気な目つきで菊池社長を眺めた。
それに対し、不敵に笑む。
「俺は、俺個人の持ち株を全て手放す」
「な…………?!」
馬鹿にした様子の久人の表情が、一瞬で驚愕に塗り替えられた。
今の今まで、散々無茶な経営がまかり通ってきたのは、菊池社長本人が自社株を半分以
上所持する株主だったからだ。それは設立時に掲げた、アーティスト本位の音楽事務所を
立ち上げたいという想いからの判断。それまで音楽業界で下積みを重ねてきた菊池社長は、
アーティストを使い捨てにする業界の実態に憤慨し、それに反抗する為に社を立ち上げた
のである。
菊池社長の放った一言は、キクチレコードのアイデンティティを全て放り投げる行為に
等しい。
「ちょ、ちょっと待ってください! それでは、もし敵意のある会社がここを買収しよう
と動いてきたら」
「勿論、そのまま喰い殺されるだろうな」
そして、発生した膨大な負債は、倒産後も菊池本人にのしかかる。
社の長として、それは底なし谷へ身を投じる行為に等しかった。
「何で…………どうしてそこまで!?」
「簡単さ。俺がそうしたいからだよ」
あまりにもシンプルな回答。しかし、そのシンプルを手に取れる人間は居ない。
「少なくとも、俺の首が挿げ変わるまでは、内藤君のやれるように活動できるだろう。ま
あ、大チャンスを逃した直後だ。小さな箱から始めることになるだろうがな。もし、この
会社が俺のものでなくなったときは…………アロイの子達を連れて、他の会社へ移る選択
だってある」
いくつもの反論を用意していた久人の言葉は、口にするよりも先に、菊池社長の、その
覚悟によって溶け落ちてしまった。
久人が吸い込んだ呼気をゆっくりと吐き出し、苦笑する。
「本当に、社長は」
「ふふん。カッコイイだろう?」
手を組み、得意気に笑む社長に、久人は救われた気がした。
もう一度、魅音達の手を引いてやれるかもしれない。
次こそは。
「うん? …………はい?」
事務所の扉がノックされる。
久人が急いで近づき、戸をあけた。
「み、魅音。お前…………どうした」
久人が扉を開けた先には、顔を真っ赤に泣き腫らした魅音が立っていた。顔を見た久人
は、俯いたまま黙り込む魅音に掛ける言葉を迷う。
それでも、やつれ、身動きしない魅音へ、兄としての気遣いが湧き上がった。
「立ってても、疲れるだろ? まあ、中に入れよ」
言葉は返らなかったが、目を伏せ、首肯した魅音は、久人に続き力なく事務所内へ入っ
た。
一言、「いらっしゃい」と歓迎の声色で迎えた菊池社長に一礼し、久人にすすめられた
応接用のソファに腰掛けた魅音は、やはり、一言も発しない。
明るさの戻り始めたキクチレコード事務所内に、重苦しい空気が漂う。菊池社長も、久
人も、魅音に言葉を掛けられず、その場で視線を迷わせた。
刻々と時が過ぎるばかりで事態が進展しない事から、久人は意を決し口を開く。
「藤堂さんは、どうだった? 多少は元気になったかな?」
魅音は、静かに頷いた。
「そっか」と一言返し、口を閉ざす。久人は、魅音が口を開く兆候を感じ取っていた。
「…………神経性のショックで。身体に深刻な問題、はない、って先生が言ってた。しば
らく安静にしていれば、また元気になる、って」
掠れた声で、懸命に言葉を紡ぐ魅音。投げられた言葉を、久人は静かに受け止め、頷い
て見せた。
「そっか。元気になるなら、よかった」
それは久人の本心だった。恐らくそれは、自分がトリガーを引いたものである事は容易
に想像がつく。元々人間恐怖症に近い挙動の柚姫が、人前で抑えていた緊張を限界まで押
し上げてしまったのは、久人の点検不足に他ならない。
しかし、快方へ向かっている柚姫の情報を知って尚、魅音は俯いたまま閉口していた。
久人は辛抱強く待ったが、それでも、口が動く事はなかった。
「魅音」
妹の名前。兄として表現できる、最大の柔らかさを込めて、名前を呼ぶ。
それが呼び水になったのか、魅音が顔を上げ、久人を見た。
息を呑む。
険しい視線とは裏腹に、魅音の双眸からは、真珠のような涙が滑り落ちた。
「お兄ちゃん…………」
掠れた声に溶け込む感情。
憤怒。
真意が判らないまま、久人は魅音の言葉を待った。
「もう一回、チャンスが欲しいです」
何の、とは聞かない。それが何を指しているのか、久人に判らない筈がなかった。
しかし、と久人は思う。
妹の性格はよく知っているつもりだった。臆病で、慎重で。前のめりになることが少な
かった魅音を見てきた久人は、その変化に疑問を抱いた。
久人より先に、菊池社長が口を開く。
「その事についてなんだが。ついさっき、内藤君と話していてね。俺は、もしアロイの子
達がまだやる気なら、また挑戦して欲しいと思ってるんだ。その意思が、バンドマスター
の魅音ちゃんから聞けて嬉しいよ」
「はい」、と、大げさに首肯した魅音は、目を強く瞑り、涙を零した。
嬉しいのか、怒っているのか探りながら、久人は慎重に言葉を選び、口にする。
「まだ明確なプランが出来上がっているわけじゃないけど、さ。社長がまだやれると言っ
てくれるなら、俺ももう一度、全力でやりたい…………だけど。魅音はどうして、リベン
ジしたいんだ? そんなに燃えてるお前、初めて見るから」
久人の質問に、魅音は見た事もないような目つきで久人を見た。しかしそれは、久人で
はない、誰かに向けられているような雰囲気があった。
「この間、柚姫ちゃんが運ばれていく時に、見えたの。聞こえたの」
魅音の言葉で、久人は全てを察し、視線を落とした。
「倒れた柚姫ちゃんを心配するどころか。『やっぱりか』、『所詮は』って……沢山の人
達が言ってた! みんな一生懸命頑張ってきたのに! 一つも音を聞いてないのに! 閑
葉ちゃんの、エリカちゃんの、柚姫ちゃんの、アロイの! 私達の音楽を…………決めつ
けられた」
吐露し、涙を流す魅音へ、掛ける言葉が見つからない。
「悔しくて…………悔しくてしょうがないの! 閑葉ちゃんのリード、エリカちゃんのベ
ース、柚姫ちゃんのドラム。本当に、本当に凄いから。だから!」
顔を上げた久人と魅音の視線が交わる。
妹を見つめる瞳は、優しく細まっていた。悔しさを感じ、憤っている姿は、ロックギタ
リストとして相応しい姿だ。しかしその怒りは、自分ではなく仲間を思う気持ちから湧き
出ている。
魅音らしいな、と久人ははにかんで見せた。
「そう、だな。身内贔屓じゃなく、皆本当に凄いと思うよ。だからさ」
久人は、泣き止まない妹の頭へ右手を乗せ、乱暴に撫でる。
「俺達を見下してる連中を、アロイを笑った奴らを。ぶっ飛ばしてやろうぜ!」
「…………うん!」
枯れた声に、初めて嬉しさが乗る。
それから久人は、魅音が落ち着くまで栗色の髪を梳き、頭を撫で続けた。
ふと気がつくと、魅音の頬が別の赤みを帯びている。
「あ、あの……その…………恥ずかしい所、見せちゃいました」
「ははは。今更だろ? そんなの」
精神的な余裕がないのか、反論する様子もなく、涙の乾いた顔を両手で覆う魅音。
もう大丈夫だと判断し、撫でる右手を引っ込める。
「よし。アロイの方もやる気は十分みたいだな。内藤君、また、頼む」
「はい!」
握手を求める社長の右手を力強く握り、再出発の決意を伝える。
そして、魅音を送ろうと立ち上がったその時。
一つ、どうしても伝えなければならない事を思い出す。
久人は中腰で立ち上がった体をソファへ戻し、慎重に言葉を選び始める。兄の様子が変
わったからか、魅音が久人を訝しげに観察し始める。
その視線に気づき、ある程度言葉も纏まった久人が、落ち着いた様子で口を開いた。
「なあ、魅音。藤堂さんの事なんだけど」
「うん」
短い応答に、不安が見えた。それでも尚、久人は用意した言葉を吐き続ける。
「次のステージは、大丈夫かな?」
久人の放った言葉が、緩んでいた魅音の双眸を鋭く煌めかせた。
「それは…………きっと大丈夫だよ」
「大丈夫、とは言い切れないぜ。今回は安静にするだけで済んだけど、次も無事である保
障はない。藤堂さんのお母さんにも、今まで以上に反対されるんじゃないのか?」
それが図星だったのか、魅音は肩を落とし俯いた。しかし、直ぐに視線を起こし、強い
調子で久人を見る。
「今、エリカちゃんと柚姫ちゃんが説得してるから。もう一回チャンスがあるって知った
ら、二人とも…………勿論閑葉ちゃんも、絶対やりたい筈だから。だから、大丈夫」
感情論で押す魅音に、久人は落ち着いた口調で切り返した。
「魅音。もし次に同じことが起こったら、今度こそ後がない。また馬鹿にされ、嘲笑われ
…………辛い思いをしなければならないんだぞ? 勿論、藤堂さんもだ。だから、アロイ
のドラマーを――」
「絶対に駄目!」
魅音の硬質な叫びが、事務所の壁を打った。声の枯れた小柄な少女が発したとは思えな
い、鋭い音。
「そんなの、絶対に駄目。アロイのドラムは、柚姫ちゃんじゃないと駄目なの。他の誰よ
りも上手で、私達の音をしっかり乗せてくれるのは、柚姫ちゃんだけだから。それに、何
よりも、柚姫ちゃん本人がやりたがってる!」
当人たちにしてみれば、信頼できるドラマーである事は間違いない。しかし久人には最
早、柚姫が不安定要素にしか見えていなかった。
また、上手いと評価する魅音の意見にも、首を傾げざるを得ない。
「魅音。言いにくいが、あえてはっきり言わせて貰う。藤堂さんのドラムが、四人の中で
一番厳しい。俺がスタジオで聞く限り、デモテープの、正確無比なドラムプレイとはまる
で別人だ。楽器が素人の俺でもミスが聞き取れるし、テンポも不安定だ」
タブーなのかもしれないと認識しながらも、久人はそれを口にした。
「あれは本当に、藤堂さんなのか(・・・・・・・)?」
その瞬間、魅音が青褪めた。
「なに、言ってるの? 決まってるよ! あんな凄いドラムを叩けるのが、柚姫ちゃん以
外に居るわけない! どうして…………どうしてそんな事言うの? 無責任だよ……あん
なに、無理を聞いてもらって、忙しい柚姫ちゃんのお父さんにまで助けてもらって。そん
なにしておいて、今更別の人に変えるなんて」
「それなら、魅音やエリカが一緒にセッションしてる時は、あのデモテープみたいなプレ
イだって言うのか?」
「そうだよ」
一片の曇りもない、即答が返る。その目には、疑いを持つ久人への怒りが燃えていた。
それでも尚、久人は引き下がらなかった。
魅音のギターを聴くために。聴いてもらうために。
妥協はできなかった。
「そう、言うならさ。せめて俺の前で、リアルタイムで。あのデモと同じ音を聞かせてく
れよ」
久人の威圧的な視線を受けても、魅音は目を逸らさなかった。
「…………わかった。でも、それなら約束して。お兄ちゃんが納得したら、絶対にメンバ
ーを変えないって」
決意に満ちた魅音の表情を、久人は観念した様子で見た。
「ああ、わかったよ。約束しよう」
約束を交わした途端、魅音が立ち上がる。身動きは俊敏で、徹夜の疲れを感じさせない。
社長へ一言謝意を伝えた後、無言で事務所の出入り口の扉へ向かう。
そして扉を開いた直後、久人へ振り返った。
「柚姫ちゃんの本気、見せてあげる」




