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 三年次へ進級して二か月が経った。新しい講義にも新しい訓練日程にも学院の生徒たちはすでに慣れ始めており、例年であればこの頃には進級直後の浮ついた空気も落ち着き、それぞれが自分の課題へ意識を戻しているはずだった。だが今年の三年次では、ある一人の生徒を巡る噂だけが日に日に勢いを増していた。


 アレクシス・フォン・ヴァルハルト。三年第二席。


 本来であればマギコアの成長がほとんど止まる時期に入っている。それにもかかわらず、二年次の終わりから増え始めた彼の魔力量は新学年になってからも伸び続けていた。


 その理由として学院内ではいくつもの憶測が飛び交っていた。ヴァルハルト家に伝わる秘術や禁書庫に記された古代の鍛錬法、高価な霊薬の常用、学院外から宮廷魔導士を招いた特別指導、ルカによる治療術を応用した施術、さらにはマギコアやマギベインを意図的に損傷させ、その修復過程で成長を促しているという危険な説まであった。どれも確証はない。だが一つだけ事実があった。他の生徒が成長の限界に達する中で、アレクシスだけが今もなお伸び続けているということだ。


 理由を知る者がいないからこそ噂は好き勝手に形を変えていった。初めのうちアレクシスは放っておいた。根拠のない話に反応する必要はない。何を言われようと積み重ねてきた結果まで変わるわけではなかった。だが噂は次第に日常へ入り込んできた。


 講義室へ入ればそれまで続いていた会話が不自然に途切れ、席へ着けば後方から視線が集まる。教官が黒板へ向いた途端、押し殺した声で自分の名が交わされる。食堂ではアレクシスが料理を口へ運ぶたびに近くの卓から視線が向けられ、霊薬を食事へ混ぜているという噂を本気で確かめている者までいた。廊下でルカと話していれば後ろを歩く生徒が不自然に足を緩め、旧研究棟へ向かう途中では一定の距離を空けて後をつけてくる者もいた。一度振り返れば逃げる。それでも翌日には別の誰かが同じことをした。


「今日は食事に混ぜてなかったのか?」


 昼食を終え食堂を出たところでルカが言った。


「何の話だ」


「霊薬だよ。随分熱心に見られていただろ」


「見れば分かることを聞くな」


「もしかすると食前に飲む種類なのかもしれない」


 アレクシスは足を止め、隣を歩くルカを睨んだ。


「面白いか」


「かなりね」


 ルカは悪びれもせず答えた。


「昨日まではヴァルハルト家の秘術だったのに、今は霊薬だ。禁書だの宮廷魔導士だの、次々と形を変えている」


「勝手に増やすな」


「俺じゃない。学院の連中は想像力が豊かだと感心してるだけだ」


「お前が面白がって広めているのではないだろうな」


「それはない。何もせずに次々と新説が生まれるんだ。観察するだけで十分面白い」


 新説という言葉にアレクシスの眉が動いた。ルカはそれを見逃さなかった。


「気に入らなかったか?」


「その言葉をくだらん噂に使うな」


「定説になる前に否定しておいた方がいいぞ。三年第二席は毎朝、魔獣の生き血を一杯――」


「黙れ」


 低い声で遮るとルカは喉の奥で笑った。


 噂の中にはルカ自身を怪しむものも少なくない。平民の医者の家系に伝わる秘密の治療術を用いている、アレクシスを実験台にしている、あるいは逆にヴァルハルト家から資金を受けているなど方向性も定まらない。だがルカには堪えた様子がなかった。むしろ毎日のように噂の内容を仕入れ、楽しげにアレクシスへ報告してくる。当事者でありながらどこか遠くから観察しているような態度だった。


 一方でアレクシスにとっては笑い事ではない。講義中も食事中も廊下を歩いている時でさえどこからか視線を感じる。以前なら気にも留めなかった小声が最近では嫌でも耳に入った。集中しようとするほど囁き声だけが鮮明に聞こえることさえある。何より不愉快なのは、この半年以上の積み重ねを何も知らない者たちが存在もしない秘術や道具によってその成果を説明していることだった。


 出力を調整し魔力の減少を記録し損傷が起きない限界を探り続けた。訓練を止めれば成長も止まり、再開すれば回復速度の上昇に続いてマギコアも再び成長した。一つの結果を得るために何度も条件を変え同じ現象が起きるか確かめた。その時間も失敗も知らず、家柄か薬か偶然のおかげだと片づけられる。腹が立たないはずがなかった。


 放課後の訓練場でも状況は変わらなかった。アレクシスは右手を掲げ弱い風を維持していた。床に置いた紙片が一定の間隔で揺れている。少し離れた壁際ではルカが帳面へ記録を書き込んでいた。


「今日の見物人は三人か」


「数えるな」


「昨日より一人少ない。人気が落ちたな」


「訓練に集中しろ」


「訓練しているのはお前だ。俺は観測している」


 風が一瞬だけ強まり紙片が床を滑った。ルカが顔を上げる。


「乱れたぞ」


「誰のせいだと思っている」


「見物人のせいじゃなかったのか?」


 ルカの口元には薄い笑みが浮かんでいる。アレクシスは舌打ちを堪え出力を抑え直した。訓練場の端にいる三人の生徒は先ほどから何度もこちらへ視線を向けていた。目が合いそうになると顔を逸らし、しばらくするとまた様子を窺う。小声で交わされる会話には時折アレクシスやルカの名が混じった。


「右端の奴は、お前の指の動きを真似してるぞ」


 ルカが小声で言った。


「実況するな」


「もう少し分かりやすい動きをしてやったらどうだ?」


「俺は見世物ではない」


「向こうはそう思っていないらしい」


 背後で小さな笑い声が上がった。アレクシスは魔法を止めた。紙片が床へ落ちる。


「ああ、行くのか」


 ルカは止めるどころかどこか期待するような声を出した。


「何だ」


「いや。今日はどんな言い訳をするのかと思ってな」


 アレクシスは答えず三人のもとへ歩み寄った。声をかける前から彼らの表情が強張る。


「何の用だ」


「何って?」


 一人がとぼけた。


「先ほどからこちらを見ていただろう」


「見てない」


 別の生徒が即座に否定した。


「では何をしていた」


「訓練しに来ただけだ」


「魔法を使っているようには見えなかったが」


「休んでたんだ。それに、俺たちが何をしていようと関係ないだろ」


 語気だけは強い。だが誰も目を合わせない。


「そうだな」


 アレクシスは冷たく答えた。


「だが、私が何をしているかも貴様たちには関係がない」


 三人は不満げな表情を浮かべたが何も言わず訓練場を出ていった。扉が閉まる。


 しばらくして背後から拍手が二度聞こえた。アレクシスが振り返るとルカが帳面を膝に置いたまま愉快そうにこちらを見ていた。


「何のつもりだ」


「見事だった。特に最後の一言は迫力があったぞ」


「黙れ」


「明日からは訓練場の外から覗くようになるかもしれないな」


「貴様は少しも腹が立たないのか」


「噂を信じる奴にか?」


「違う。この状況にだ」


 ルカは僅かに首を傾けた。


「面倒ではあるな」


「そうは見えん」


「面倒と面白いは両立するんだよ」


 ルカは笑いながら帳面へ視線を戻した。アレクシスは深く息を吐き再び訓練へ戻った。


 だがルカの予想は当たった。翌日には別の生徒が現れ、その翌日には訓練場の入口から中を窺う者がいた。声をかければ誰もが似たような言い訳をした。偶然そこにいただけだ。休憩していただけだ。共用の訓練場なのだからどこにいようと自由だ。自分は見ていない。隣にいた者が見ていただけだ。時にはアレクシスが近づいただけで逃げ出す者もいた。そのたびにルカは今日の逃げ足は速かっただの昨日の方が言い訳に工夫があっただのと評した。


 そうしたことが何日も続いた。訓練場に限った話ではない。講義中も食事中も移動中もアレクシスは自分へ向けられる視線を意識するようになっていた。学院内のどこにいても落ち着かない。視線を感じるたびに振り返る自分にも腹が立つ。聞こえてくる噂へ反応してしまう自分にはさらに腹が立った。


「最近、後ろを見る回数が増えたな」


 ある日の訓練を終えた後ルカが言った。


「誰のせいだ」


「俺は後ろをついてないぞ」


「面白がって逐一報告してくるだろう」


「知らないままよりいいと思ってな」


「余計な配慮だ」


「今日の新作も聞かないのか?」


「聞かん」


「残念だ。かなり良かったんだが」


 アレクシスはルカを睨んだ。


「何だ」


「お前はヴァルハルト家が秘密裏に作った人造魔導士で、本物のアレクシスは二年前に――」


「帰れ」


「まだ途中だぞ」


「旧研究棟へ行け」


 ルカは笑いを堪えながらまとめた記録を抱えた。


「先に行ってる。人造魔導士殿」


 ルカは片手を上げ訓練場を出ていった。


 アレクシスは一人で残りの片づけを済ませた。訓練場を出る頃には日が傾き廊下に人の姿はほとんど残っていなかった。


「あ、あの……ヴァルハルト様」


 背後から声をかけられた。アレクシスの眉間に皺が寄る。


 またか。


 振り返ると女子生徒が一人で立っていた。以前、公開戦闘訓練でアレクシスの魔力量が増加していることに誰より早く気づいた生徒だった。名はミナ。成績は下位に沈んでいるが他人の魔法を観察する目だけは妙に鋭い。もっとも人と話すことにはまるで慣れていないらしい。


 ミナは胸元で両手を握り口を開いては閉じていた。目が合うと視線を落とし何かを小さく呟いてから意を決したようにもう一度顔を上げる。


「何だ」


「その、少し聞きたいことがあって……いえ、変な噂を信じているわけではありません。霊薬とか禁書とか、マギコアへ直接術式を刻んだとか、それはさすがに理論的に無理がありますし、仮に可能でもマギベインへの負荷が大きすぎて、ヴァルハルト様の、あの、すごく綺麗な出力制御を保てるとは思えないので――」


「用件を言え」


「す、すみません」


 ミナは肩を跳ねさせた。


 また噂を確かめに来ただけだ。アレクシスはそう判断し、その脇を通り過ぎようとした。


「私も」


 背後から早口の声が追いかけてきた。


「私も、弱い魔法を使い続ければ成長しますか」

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