第十七話『イタズラ書きを気にしない』
書いた文字には人柄が出るだなんて言われがちだけれど、本当にそうだろうか。
自分は特段、字が綺麗な方ではないけれど、ふと見てみれば少しだけ丸い。
そう考えてみると、もしかしたらあながち嘘でもないのかもしれないな、なんてことを思ったりする。
綺麗に角張っている文字よりも、どちらかといえば柔らかくて丸い文字の方が見ていて気持ちが良い。
なら、人柄が出るというよりは、自分の好みの書き方が出るのかもしれない、なんてことを思いながら、俺はボウッとしていて取り切れなかった黒板の文字をノートに急いで書き写していた。
丁寧ではなくても、一文字ずつが、やっぱり丸い。
「あっ……まぁしょうがないか」
黒板に、スーッと白が混じった線が走る。
今日の日直は与田さんだったのかと、目の前にいない彼女の、黒板消しを持って、頑張って背伸びをしている姿を見つつ、俺はシャープペンを、ぎこちなく指で回す。
「誰かにノートでも借りるか……」
独りでそうゴチていると、ジャンプしても黒板の上まで手が届かない与田さんを見かねた時雨さんと、責務を実行しようとしている与田さんの黒板消しを奪う攻防が目に入った。
与田さんは与田さんで、責任感のようなものがあるらしい。
――いや、あれはおそらく意地だな。
確かに、こう見れば凸凹コンビというか、与田さんと時雨さんが並ぶと、与田さんには少し悪いけれど、時雨さんのスラっとした感じが際立つなぁなんてことを考える。与田さんも小さくて可愛らしいし、女子相手にそんなことを思うことすら失礼だとは思うけれど、決して太っているだなんて思うことはないけれど、やっぱり時雨さんは細い。
見ている感じだと、時雨さんは意外と色々食べている割に、細い。
いつの間にか時雨さんが勝利していた黒板消し争奪戦の一部始終をぼんやり見つめていると、時雨さんと目が合う。
というより、時雨さんは俺というよりも、机の上のノートを見ていたように思えた。
「っと……これは……」
これまでの経験から考えて、変に気を遣わせるのも申し訳ないと思って、ノートを仕舞おうとした時にはもう遅かった。
時雨さんが自分のノートを持ってこちらに駆け寄ってくる。
「糸杉くん、まだだった?」
時雨さんはそう言いつつ、仕舞いかけていた俺のノートに目をやる。
「あー……大丈夫だよ。あとで誰かに……」
言い終わる前に、目の前にノートが開かれる。
「うちのよだかちゃんがごめんね?」
「いや……俺が油断してただけだから、気にしないで……でも、助かる」
流石に目の前にノートを置かれてしまっては、断る方が気が引けるというものだ。
だから俺は仕舞いかけたノートを取り出して、該当ページを開く。
とは言っても、書き逃したのはほんの数行だ。休み時間の間にすぐに終わってしまう数十文字。
俺は時雨さんの柔らかくて、だけれど少しふにゃりとした、時々ミミズが泳いでいるようなノートから文章を拾っていく。
――時々寝そうだったんだろうな。
自分もそうだったから、気持ちは分かる。
だいぶ前に、時雨さんのノートを見せてもらったことはあった気がするけれど、しかしあの時よりはマシのように見えた。流石に、あの時の感じだと人には見せられなさそうだけれど、今回は自信があるようで、少しだけ目の前でフフンという感じでドヤ顔をしている。
思えば随分彼女の印象が変わった気がする。
「時雨さんってイタズラ書きとかするんだね」
出会った頃は、もっとクールで、遊びのない人のように見えていたのだ。
「するよー、眠気覚まし! 糸杉くんの字は丸文字でかわいいねぇ」
褒められているのか、褒められていないのか。ただなんだか嬉しそうに笑っている顔が印象的だった。
実際、時雨さんはクールに見えるし、時々芯を食ったようなことも言うけれど、なんだか見ていて放っておけないような、そんな雰囲気の方が、俺の中では強くなっていた。
この、鳥のような、妙に上手い落書きからも、なんとなく可愛げと、それと同時にその真剣な筆跡から真面目さが見えるような気がする――授業中のイタズラ書きは真面目ではないけれど。
「ん、かわいいよね。よだかちゃん」
「んん?! ……あぁ、鳥の方か」
当の与田さんは、黒板消し争奪戦に負けて、時雨さんに黒板消しを奪われたのに、それを返されて今もピョンピョンと黒板の前で跳ねている。
そんな風景を時雨さん越しにチラリと見てから、俺は自分のシャープペンを筆箱に閉まった。
「終わったよ、ありがと」
「どういたしまして……。んー、まだよだかちゃん頑張ってるね。ちょっとノート貸して?」
時雨さんは与田さんの席に座って、気づけば鉛筆を握っていた。
――筆跡が違ったのは、鉛筆のせいか。
彼女は俺のノートの隅に、サラサラと何かを描き始めているようだった。
「いつかさぁ? 何か描いてあげるってお話をしたの。覚えてる?」
「あー……いるような、いないような?」
時雨さんは、少しだけ膨れた顔をしながら、シャッシャッと鉛筆を走らせる。
「したの。したんだけど……なんだか糸杉くんのこと、上手に描けなくてさぁ」
それは、自画像ということなのか。それとも、与田さんのようにモチーフ的なものなのかは分からない。
だけれど、ノートの逆側から見える絵は、自画像ではないように思えた。
「だからね、ありきたりなの。いつかいっぱい考えたら、ちゃんとしたの、書くね」
ノートが返されたそこには、一本の細くて黒い木が濃淡で描かれていた。
これが何の木だなんてことくらいは、すぐに分かる。
だけれど、その上に書かれた文字は、良く分からなかった。英語の連なりではあっても、英単語には見えない。
「えと、時雨さん、これは……?」
「つぃぷれっせん~、はるのいちれつ~」
「つぃぷ……んん……?」
上手く会話にならないことはいつものことにせよ、機嫌が少し良さそうな時雨さんは、俺のノートに描いた木を指でスーッとなぞる。
「ツィプレッセンはね、ドイツ語で、糸杉のことだよ。いとすぎくん!」
「……そういうとこ、不思議と物知りだよね」
つまり彼女は安直ながら、俺の苗字の木を描いてくれたということになる。
ついでに、ドイツ語まで添えて。
「私、文学少女ですし……ね!」
やはり、妙にテンションが高い。
「よだかちゃんも、糸杉くんも、宮沢賢治なの……っ!」
宮沢賢治が『よだかの星』の著者なのは、俺も授業で習ったから知っている。
だけれど、それに俺も含まれるということは、『つぃぷれっせん、はるのいちれつ』という言葉もまた、彼の著作からの引用なのかもしれない。
「でもね、糸杉くんは黒だけじゃ寂しいから、今度は太陽もグルグル描いちゃうね……!」
よく見ると、開かれっぱなしの時雨さんのノートのよだかには、色がついていた。
彼女の中での文章や絵への完成は分からない。
だけれど、イタズラ書きと呼ぶには勿体ないような代物に見えた。
きっと、彼女自身、そんなことをしていることを気にはしていないのだろう。
だけれど、自分が描きたいモチーフは、どうにも気にしてしまうみたいだった。




