30話 薔薇の館
特別に大きいわけでもなく、派手な装飾がなされているわけでもない邸宅。同じ規模の建物が間隔を置いて点在しているので、それほど目立ってはいない。
しいて特徴らしいものをあげるとすれば、低い生垣の向こうに覗いている庭の薔薇だろうか。淡いピンクや赤、黄色や白の点在する花壇は、隅々まで手入れが行き届いていて清廉なイメージを与えている。枝の広げ方や種類のバランスなど、決して出しゃばらない程度に家を彩っていて、その家の住人が造園に精通しているのを示唆しているかのようだ。
「…うわぁ…」
フィストが感嘆の声をあげる。
同様の建物が連立しているとはいえ、これから自身がお世話になる家の規模の大きさは相当なものだ。フィストの持つそこの住人の情報とそれは大きなイメージの差があるのだが、フィストはすでに予知していたようで、その豪華さに感動しつつもそこに銃火器のエキスパートが住んでいるということを全く疑っていない。
「すげーだろ?ここがファルの住んでる家だ」
「…フォルクコートってだけで何となく予想はしてたけど…」
もう一度その屋敷を見上げた。数多の花壇に彩られたそこは、まさしく『薔薇の館』と呼ぶにふさわしい出で立ちだった。
「おお、ダルタ様ではありませんか」
花壇の中から細身の老人が顔を出していた。ダルタの姿を確認するなり、老人は花壇から這い出て門まで足早に出てきた。それでようやく確認できたのは、その老人は上半身が執事らしい服装をしていること、先ほどまで土をいじっていたということ。
上半身はそれらしい黒のスーツに身を包んではいるが、下半身は園芸作業をこなすのに適していそうな白いズボンと長靴を履いている。そのズボンも、ついさっきまで作業をしていたらしく下の方が土色に変色してしまっていた。
「ファル様からお聞きしました。本当にお久しぶりです」
「まあな。来る途中にラックヤードさんにもあったが、アンタはそれ以上に昔と変わってないみたいで安心したよ」
老人はすでに髪も髭も一本残らず白く染まっていて、顔のしわも数が多く、かつ深い。おそらくダルタが最後にあったという二年前もこのような容姿でいたのだろう。長い奉公期間があるようで、老人にはその手の貫録が備わっている。
「あ、ダルタ様。いらっしゃったばかりで申し訳ないのですが、薔薇について少しお聞きしたい点がございまして…」
老人が言葉を濁す。
「ん?なんだ?」
「詳しく説明しますので、こちらへいらしていただけませんか?」
言うが早いか、老人は薔薇の中に身を埋めて見えなくなってしまった。
「…フィストが見えてなかったのか?まさかそんな訳ないよな…」
「…ダルタ、あの人は?」
「ああ…あの人はドルイズ。ここで長年ファルに仕えてる熱心な執事だよ。前に俺がガーデニングを教えたらハマっちゃってさ…ここに来るたびに質問されんだよ。まあ、これだけ手入れしてあるなら殆どのことは問題なくこなしてるみたいだけど」
ダルタを呼び出したわけを簡潔に説明し、ダルタもドルイズの消えた辺りにかがんで株の間に身を滑り込ませた。
「フィスト、お前は先に入っててくれ、俺もすぐ行くから。大丈夫、ファルにはもうアーミルから連絡が来てるだろうからお前のことも知ってるはずだ」
「でも、いきなり僕だけで行ったら…」
フィストの意見はまるっきり無視され、ダルタは花壇の中に消えてしまった。
呆気にとられていたが、まずは呼び鈴を鳴らそうと門の外側に出た。呼び鈴なら相手の顔が分からないので少しは気が楽だろうと考えたのだ。
が、その考えはもろくも崩れ去ることになる。
アーチを確認する。白い石で形作られ、金網のような門と相まってどこかの城の入り口を連想させる。だがその白い石垣がどこまでも続いていることはなく、門以外は低めの背の針葉樹からなる生垣が伸びている。他に入り口は無いようだ。
押せそうなものを探すが、アーチにはそんな機械的なものは見当たらない。横に紙が貼ってあって、何か書いてある。
「…故障中、って」
インターホンらしいものが見当たらない。
外観を損ねるのであえてつけない家が多いらしいのだが、ここはただ壊れただけらしい。用事のある人間は玄関まで直接行ってノックをする必要がある、ということのようだ。現に、その紙にはその旨を知らせる内容が記されてあった。
初見の人間にとってここまで厳しいシステムは無い。知らない人の家のドアをノックする、それはなかなか勇気のいる行動だった。張り紙に書いてあるにしても、どんな人間が顔を出すのか全く分からないのだ。
庭に他の人間の姿はない。遠くで男が二人話し合う声が聞こえるが、それは助けにならない。一歩一歩を踏みしめ、玄関に近づく。
扉は木製のようだが、通常よりも色が黒に近い。はめ込まれているガラスには植物のツルのような曲線が彫られていて、扉全体に荘厳な雰囲気を持たせている。扉に近づくことすら躊躇ってしまいそうになるが、フィストは決して後ろを向かない。
彼の覚悟は、この程度で諦めるものではない。
守ることのできる強さを。その誓いの大きさは、たかが雰囲気程度で防げるものではない。
ユリスの顔を思い出し、フィストは扉の前で足を止めた。
大きく、深呼吸をする。
ファルがどんな人間か、最悪の場合まで想定しておく。
なんとなく、結婚相手の人が出てくれることに期待しながら。
左手を握りしめ、それで扉を二回、軽くノックした。
数秒ののち、扉が開いた。
ドアノブを掴んでいたのは、巨大としか言いようのない男。太っているわけでも痩せているわけでもなく、平均的な体形をしている。まっ黒な髪の毛は短く適当に切りそろえられていて、紳士という雰囲気は持ち合わせていない。服装こそこの家の主らしい身なりをしているが、見た目とのギャップはこの屋敷自体よりも数倍大きい。
「…君は…」
地の底から響いてくるような重圧感。
ただ固まるのではなく、完全な硬直。呼吸一つするだけでも恐怖を感じさせる。
「あの…ダルタの連れの者です」
上手く舌が回らなかったが、ダルタの名前をかろうじて出すことに成功した。それを伝えなければ、自分が不審者でないことを証明できないのだ。
「…ああ、話は聞いているが…彼もドルイズも、今は庭か…」
男は数秒考えた後、扉を更に大きく開いた。
「先に入って待っていなさい。お茶でも出そう」
家には入れてもらえるようだ。僅かながらフィストの緊張がほぐれ、体が自由を取り戻した。
おそらくは、彼がファルなのだろう。途中まで組みあがっていた人物像とあまりにも酷似しているので、フィストは逆に安心していた。頭の中で想定していた『彼のような人』との会話の構成が通用する、と考えているからだ。
一瞬の隙も見せないように用心しつつも、その家の中に足を踏み入れた。
彼の背中を追いかけていくと、やや大きめな部屋に通された。床全体が絨毯のような紅蓮の毛に覆われていて、その上に客用のソファとテーブルが並んでいる。ソファの皮の色もテーブルクロスの色も床と同じ紅蓮に統一されていて、部屋としてはなかなかまとまっている。赤い色ばかりであまり落ち着けないだろうが。
どうやらそこは客間のようだ。赤色の中には不釣り合いな森の自然を描いた絵が一枚、申し訳なさそうに飾られている。
勧められるがままソファに腰を下ろすと、ほどなくして目の前に紅茶が準備された。リメールの淹れたものとはまた違う、やや酸味の強そうな香りがしている。
「ドルイズもすぐに来るだろう。ここで待っていなさい」
「…はい」
ドアノブが回ると、彼の姿はドアの向こうに消えた。
静かになる客間。視界が赤色に覆われていて精神が少々高ぶってしまうが、それほど居心地も悪くない。
紅茶を口に運ぶと、葡萄に似た酸味が舌を流れていく。リメールのものと茶葉が違うのもあるだろうが、それは今まで飲んでいたものと似た味の中に大きな差が生まれている。慣れた味のはずなのにフィストは新鮮に感じていた。同じ紅茶でここまで差が生まれるものか、と一口飲むたびにフィストの感心を誘う。
気がついた時には、カップは空になっていた。それほどおいしかったということなのか、空になった事に気づくと、フィストは残念そうに溜息をついた。
ソファから立ち上がり、部屋の中を見まわし始めた。その部屋に置いてある調度品は、フィストにはどれも物珍しく映ったのだ。壁に掛けてある絵にまずは目が行く。
描かれている森の中にはちらほらと家の姿が確認できる。よく茂った緑の中に建物の赤い屋根が点在し、単調な緑だけの絵ではない。しかし、赤の割合が少なすぎるために緑だけとさして変わりはない。
しかしその森は、絵とは思えないほど繊細に描かれていた。日の光を受けて輝く部分と影になって暗い部分。そのコントラストは全体を引き締め、見ていて飽きさせないメリハリを生んでいる。葉っぱの一つ一つは丁寧に描写され、そこを吹き抜けていく風までもがその絵に切り取られて収まっている。
その森の中に一人で立っているような錯覚を見ている者に与える、不思議な絵だった。
しばらく見とれていたフィストだが、ふと部屋を見回してみる。この絵以外にも置物や壺が棚の上に置いてあったりするのだが、絵と比べるとそれらはひどく味気ないものにしか映らない。わざわざ近寄ってまで見ようとは、フィストは考えなかった。
することも無くなったフィストはソファに座り、背もたれにもたれかかって天を仰いだ。
秒針の時を刻む音が時間の経過を確かめさせる。
気がつくと、目を閉じていた。瞑想に近い状態で自然と聴覚が研ぎ澄まされる。
遠くで騒ぐ声―――おそらく庭にいる二人のもの―――が聞こえる。何を話しているかまでは聞き取れないが、珍しいものを見つけたようにはしゃいでいる様子が見ている時と大差無く目に浮かぶ。
フィストの頭の中に、先刻見た森の風景がよみがえる。
木々のざわめく音がフィストの耳に少しずつ流れてくる。静かであることを、この上なくフィストはありがたく感じていた。
フィストは今まさに、その森の中に立っているのだ。
ドアノブの回る音が森の景色をかき消した。彼か、もしくはダルタだろうかとフィストは顔を上げる。
「…あれ?ダルタさんはまだですか」
それは女性だった。
雪色の髪を肩辺りで切りそろえ、金色の瞳をその中に覗かせている。黒を基調にしたジャンパースカートに袖の広がっている白のブラウスを着て、レースやフリルのような飾りがその袖を始め服の要所に施されている。そのせいか、一般的なものとは違う不思議な幼さを感じさせた。
アンティークドールが歩き出したと比喩できる、そんな容姿。
「てっきりもう済ませたと思ったのですけど…あ、はじめまして」
「あ…どうも」
慌てて立ち上がり、フィストは深々と頭を下げた。
「僕、フィストです。ファルさんに鍛えてもらうために来ました」
「ふふ、話は聞かせていただきましたわ」
女性は楽しそうに笑う。
「あなたは、ファルさんの奥さんですか?」
何の気なしに聞いた。左手の薬指に指輪が見えたので、そう判断したのだ。
が、女性は呆けたように固まってしまった。
「…あの?」
「…なんと言いますか」
次第に苦笑いがにじみ始める。
「自己紹介がまだでしたね。私はファル。ファル・レッドルートと申します」
女性―――ファルは、フィストよりも深く頭を下げた。