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番外編⑤:ユリシーズ

「ユリシーズという名前は、何か由来があるのですか?」


 不意にヴァイオレットがそんな疑問を口にしたのは、二人で一般公開されている王室の植物園を散策していたタイミングだった。

 ユリシーズがヴァイオレットの視線を辿ると、彼女の瞳と同じ色の可憐な花が咲いている。


「す、すみません、急に脈絡のない話をしてしまって。わたしの瞳の色が名前の由来になったのは知っているでしょう? じゃあユリシーズってどういう意味があるのかしらって思ったんです」


 ヴァイオレットは気まずそうに肩をすくめている。おそらく、ユリシーズの母が産後間もなく儚くなったこと、そして父親と目されている人物はそれより前に亡くなっていることを思い出したからなのだろう。


「ただの思いつきなので、気にしないでください」


 そう恐縮するヴァイオレットに、ユリシーズは軽く首を横に振って口を開いた。


「ユリシーズは『困難な長旅』という意味だったはずだ。この国が成立するよりずっと昔、古代の国で使われていた古語を、現代風に読むとユリシーズとなる。……なぜこの名前にしたのかといえば、俺の体質のせいではないだろうか」


 ユリシーズは魔力が強すぎる体質に生まれ、今は亡き前の王妃などわずかな人物を除き、触れることができなかったのだ。

 そんなユリシーズを憐れんで名付けたのだとすれば納得いく。ユリシーズ本人はそう思っていた。


「そんな……」


 ヴァイオレットは顔を伏せ、スミレ色の瞳を曇らせる。


「す、すみません。おかしなことを聞いてしまって……」

「気にすることはない。事実、俺は君に会うまで困難な長い旅のような日々を続けていた。名前の通りだろう」


 ユリシーズは不器用ながらも顔を伏せてしまったヴァイオレットを慰めたつもりだった。だが彼女はパッと顔を上げた。眉を寄せて首を横に振る。


「でも、私、やっぱり納得できません。ユリシーズの名前をつけたのはそもそも誰なのでしょう。ユリシーズのお母様や前の王妃様が、いい意味のない名前を大切な子につけるでしょうか」


 ユリシーズをまっすぐに見つめるスミレ色の瞳には強い光を湛えている。

 打たれ弱い可憐な花のように見えて、決してそうではない。その芯の強さを、ユリシーズは眩しくすら感じていた。


(君は俺を母たちの『大切な子』だったと思ってくれているのだな)


 そして、彼女がユリシーズが赤子だった頃にまで思いを馳せてくれていることが喜ばしくもある。


「あの……本当に余計なお世話かもしれません。でも、私がどうしても知りたいんです。だから、由来を知っていそうな方に聞きに行ってもいいでしょうか!」

「だが聞くと言っても、誰に……」


 ユリシーズの名付けについて、当時を知っていそうなのは伯父である国王陛下だろうか。だが多忙なので甥であるユリシーズも、会おうと思ってすぐに会えるわけではない。しかも、ユリシーズの母は妊娠する前、他国へ嫁ぐ予定まであったそうだ。それを厭って未婚で産んだ妹の遺児に困り果てたはず。そう考えると、名付けに関わっているとは考え難い。

 そう告げたユリシーズに、ヴァイオレットはニコッと微笑む。


「とっておきの方がいます。仲良し三人組の一人、マイエール侯爵夫人です!」


 ヴァイオレットは、マイエール夫人はユリシーズの実母や前の王妃と親しくしていたのだと教えてくれた。





 ユリシーズたちはマイエール侯爵家を訪ねた。

 とはいえ貴族は屋敷に出向いても、その日に会ってもらえるとは限らない。せめて後日の約束ができないかと思ってのことだったが、たまたま在宅していたマイエール侯爵夫人に歓迎され、そのまま屋敷に上げてもらえたのだった。


「突然の訪問にもかかわらず、ご対応いただき誠にありがとうございます」

「いいえ、パロウ筆頭魔術師とヴァイオレットさんはわたくしの恩人ですもの。改めてお礼をしたいと思っておりましたから、お会いできて嬉しゅうございます」


 マイエール侯爵夫人はふっくらした頬にえくぼを作って微笑む。彼女の誕生日会で多数出てしまった怪我人の治癒をしたからだろう。


「それで聞きたいことがあるとのことですが、何かしら?」

「突然で不躾な質問となってしまい申し訳ないのですが、ユリシーズの名付けをしたのがどなたか、マイエール侯爵夫人はご存知ありませんか?」


 ヴァイオレットはユリシーズの名前について説明した。

 マイエール侯爵夫人は、まあ、と小さく声を上げ、上品に口元を押さえた。何事か思案している様子だ。


「あらあらまあまあ……困難な長旅、ですか。確かにそういう意味もありますわね。そうねえ……確かまだあそこにあるはずだけれど……」


 マイエール侯爵夫人は頬に手を当て、独り言を呟く。


「少しお待ちいただけるかしら。お二人に見せたいものがあります」


 そのまま離席した彼女を、ユリシーズたちは出されたお茶を飲みながら待っていた。

 しばらくして戻ってきた彼女が引き連れている従僕の手に、古い皮表紙の本が握られていた。

 本の角は擦り切れているが、タイトルはまだ確認できる。ユリシーズの名前の元になった古語だ。


「この本は?」

「大昔、わたくしがヴァイオレットさんよりもっと若い、それこそほんの小娘だった頃に読んだ古典です。かつては淑女の教養として必修でしたの。この本は、古代の国々で広く使われていた古語で書かれています。わたくしだけでなく、前の王妃クリスタに、王妹アンヌ=マリーも読んでいました。古語の勉強は退屈でしたけれど、この本はとても面白くて三人ともお気に入りでしたわ。パロウ筆頭魔術師は古語はおわかりになるわよね」


 ユリシーズは頷く。


「魔術書の中には古語で記されていることもある。だが、あくまで魔術書を読むためで、物語を楽しんだことはない」

「ヴァイオレットさんは?」

「わかるというほどではなくて、いくつか拾い読みできる単語がある程度です……」


 ヴァイオレットは恥じいったように俯くが、マイエール侯爵夫人は、まあ、と感嘆の声を上げた。


「今はもう必修ではないのですもの。単語だけでも読めるのはすごいことですよ。わたくしの子は誰も読めないし、興味すら持ちませんでしたわ。血が繋がっている子も、繋がっていない子もね」


 マイエール侯爵夫人には十人の実子がいる。上の子はユリシーズより年上で、下の子はまだ十にも満たなかったはずだ。それだけでなく、孤児や親が没落した貴族の子などを引き取り、教育を施しているとも聞いていた。その子たちも含めての話のようだ。


「……申し訳ありません。不出来な子供なもので」


 そう苦笑しながら言ったのは、彼女の背後に控えていた若い従僕の青年だ。


「不出来とは思いませんけれど、もう少しわたくしの趣味に付き合ってくれてもいいじゃないの」

「ご遠慮申し上げます」


 そんな会話をして二人は笑う。この従僕もまた、マイエール夫人の育てた子ということなのだろう。


「ですからね、わたくしはこの本を読んでくれる方をいつでも募集していますの。とても面白いんですよ」


 マイエール侯爵夫人は微笑みながら古い本をパラパラとめくる。年相応の穏やかな微笑みだったが、瞳はキラキラ輝き、あどけない少女の面影を感じさせた。きっと、この本で勉強した時もこんな瞳をしていたのだろう。


「そして、この本の主人公の名前を、現在使われている大陸語風にすると『ユリシーズ』になるのです。主人公は、愛する妻と生まれたばかりの子供を置いて戦争に行かなければなりませんでした。しかも戦争は長く続き、十年かかってようやく勝利を得たのです。この本は、戦争を終え、愛する妻子の待つ故郷に帰る道中の冒険譚なのですが、なんと主人公が故郷に戻るまで、また十年もの歳月がかかってしまったのです」

「ということは、二十年も……ですか……」


 ヴァイオレットはスミレ色の瞳を大きく見開いて呟く。


「ええ。道中、たくさんの仲間が亡くなり、主人公も多くの逆境に立たされますが、その度にその知恵と力で乗り切っていく……そういうお話です」

「なるほど、だから困難な長旅というのだな」


 マイエール侯爵夫人は頷く。けれど笑顔のまま、ユリシーズをまっすぐに見つめていた。


「あなたは確かに困難な長旅のような人生を強いられて来たでしょう。けれど、この本の主人公は最終的に愛する家族のもとに帰れたのです。困難ではありましたが、確かに希望は叶った――そういう話です。受け取り方は様々でしょうが、わたくしだけでなく、クリスタもアンヌ=マリーも同じように考えていたはずです。あなたの名前は、どれほど困難であろうと必ず夢を叶えられる。そして、愛する人の元に戻れる……そんな希望と祝福を込められているのですよ」


 マイエール侯爵夫人は微笑みながらも、まっすぐな視線でそう言い切った。本気でそう考えているのだと、ユリシーズに知らしめるように。


「想像ですが、きっとこの名前をつけたのはアンヌ=マリーでしょう。あの子はこの本が特別にお気に入りでしたから」

「……母が」

「ええ。そもそもあの子はあなたと良く似た面差しで、精霊姫と呼ばれるほど可憐で浮世離れした外見でしたけれど、仲良しの中で一番高くまで木に登れたし、馬に乗るのも上手でした。中身ははねっかえりのお転婆でしたのよ」


 そう楽しげに語るマイエール侯爵夫人の言葉は意外で、絵で見た儚げなユリシーズの母の姿と結びつかない。けれど、話を聞いているうちにいつのまにかユリシーズの口の両端が笑みの形を作っていた。


「アンヌ=マリーは逆境にも負けない強さもありました。ただ……運だけがなかったの。けれど、あなたには両方あるはずですよ。ほら、素敵な婚約者を得られたんだもの」

「それは確かに。俺はヴァイオレットという素晴らしい女性に出会えて世界で一番運がいいかもしれない」

「あらあらまあまあ、お熱いこと。ヴァイオレットさん、よかったわね」


 そう水を向けられて、ヴァイオレットは頬を赤く染めた。


「わ、私もユリシーズに出会えたことは幸運だって思ってます!」


 そう一生懸命に言うヴァイオレットが可愛らしくて、人前なので抱きしめたくなる気持ちを堪えた。


「若者の恋愛って素敵ですわね。はあ、若返るわあ」


 マイエール侯爵夫人は赤らんだ頬を押さえたのだった。


「パロウ筆頭魔術師……いえ、ユリシーズさん。わたくしはあなたが赤子の時、何もお役に立てませんでした。クリスタたちほど魔力がなかったのもその理由ですけれど、あの頃は時間も余裕もなかったの。ごめんなさいね。わたくしが味方してあげられればと思ったことは何度もあるのだけれど」


 そう謝罪するマイエール侯爵夫人に、ユリシーズは首を横に振る。


「いや、そう言ってもらえるだけでじゅうぶんだ。俺はヴァイオレットに出会えて全てがよくなったと考えている。今、幸せだと、胸を張って言える」

「そう。それはよかったこと。いつか、天国のクリスタやアンヌ=マリーと会えたらあの子は幸せだと言っていたと伝えたいですわ。もちろん、何十年か後に、ですけれどね」


 彼女はそう言い、茶目っ気を込めて片目を閉じてみせたのだった。


「……あの、マイエール侯爵夫人、私もその本が読んでみたくて。もしよろしければ古語の勉強の仕方を教えていただけませんか?」

「まあ、嬉しい! 古語でしたらわたくしが教えられます。勉強会を開きましょう!」

「よ、よろしいのですか?」

「ええ、もちろん。わたくしの好きな本を読んでくれる方が増えるなら喜んで!」


 それから二人はすっかり意気投合し、会話に花が咲いている。


「そういえばヴァイオレットさんの弟さん、そろそろお年頃よね。ご婚約は?」

「まだなんです。実は弟は私の友人に恋をしているみたいなんですが、年下だからか遠慮してしまって、兄にも言い出せないんです。兄の方も本人が言い出さないのに、婚約の打診を先回ってやるわけにもいかないって言って。頭が硬いんです……」

「あら、ご友人ってコーネリア・デネットさんかしら。あの方、可愛らしいし頭ももいいですものね。弟さん、お目が高いわ」

「そうなんです! 私としては大切な友人と弟なので、上手くいってくれたら嬉しいんですが」

「もしよろしければわたくしが仲人しましょうか? 婚約話をまとめるのは得意ですの」

「ぜ、ぜひお願いします! 兄にもそう伝えます!」


 本当に楽しそうだ。ユリシーズは表情がコロコロ変わるヴァイオレットを見ているだけで楽しいので、ひたすら見守っていた。


「そうそう、ヒューバード殿下の側近のライオネル様も婚約が決まったそうですよ。お相手はモニカ様の大ファンの方ですって」

「そ、それはお似合い……ですね」

「ええ、本当に。ヒューバード殿下とモニカ様の第二子か第三子の乳母になりたいそうですの。夢とやる気がある若者は素晴らしいわね」


 と、まあ、話は尽きることなく、気がつけば外は真っ暗になり、夕食までご一緒させてもらうことになった。


「レディはお話が好きですからね」


 困ったように微笑む従僕の顔にも疲労が見える。ユリシーズはそこまで疲れてはいなかったが、ヴァイオレットは喋り通しで喉が枯れないか心配になっていた。


 食事が終わり、ようやくお開きになった。

 ユリシーズは従僕とお疲れ様と視線を交わしてから屋敷を辞したのだった。





 外は完全に日が落ちて真っ暗だ。

 ユリシーズはヴァイオレットの許可を得てからヴァイオレットの屋敷の庭に転移した。


「すっかり暗くなってしまいましたね。長々と付き合わせてしまってすみません。マイエール侯爵夫人とのお話が楽しくて」

「それは何よりだ。俺のことは気にしなくていい。母の話も聞けたし、ヴァイオレットが楽しそうなのを見ていて俺も楽しかった」


 そういうと、月明かりの下でもわかるほどヴァイオレットは頬を赤く染めた。


「あ、月が……」


 眩しい月明かりにヴァイオレットも気づいたようだ。


「私、月が好きです。ユリシーズの瞳みたいで。色もですが、静かで、優しく照らしてくれるあなたの瞳が大好き」


 ユリシーズはヴァイオレットをそっと抱き寄せる。胸元にもたれかかるヴァイオレットの重みまで愛しい。


「ねえ、ユリシーズ。もしもの話ですけど。……もしも、私たちがどこか遠いところではなればなれになってしまったら、私、月を見て必ずあなたを思い出します。ほら、遠くにいても空を見上げたらこうして月が見えるでしょう」


 ユリシーズは頷く。


「ああ。俺も君を思い出そう。月だけじゃなく、暖かな太陽の日差しを見て、可憐な花を見て、澄んだ青空を見て、可愛い小鳥を見て君を連想する。遠くにいてもヴァイオレットを想い続けるよ」

「え、ちょっと多いですね。……でも、私もそうします」


 ヴァイオレットは微笑み、小指を差し出した。


「……約束」


 そう呟き、ユリシーズの手を取って小指同士で絡めた。


 静かな月の光が降り注ぐ。

 全ての音が消えたように錯覚する。


 ユリシーズは目を閉じたヴァイオレットに、そっと唇を重ねたのだった。



 おしまい


負け組令嬢のコミックス4巻が刊行となりました。

最終巻でございます!

素晴らしい漫画を描いてくださった嶌咲先生には感謝しきりです。ほんとにほんとにありがとうございました!!

嶌咲先生によってすごく面白い作品になっていますので、読んだことない方はぜひ読んでください!読んでいる方はぜひ再読を!!


また、番外編含め、ここまでお読みくださいましてありがとうございました。

今回も恒例の番外編ですが、これで一旦の区切りにさせていただきたいと思います。

でも何か書きたいことが浮かんだら書くかもです。

また短編で他にもループ作品を書いていますし、商業の書き下ろし作品もちょこちょこ出ていますので、今後もシアノの作品を読んでいただけると嬉しいです。

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