第十五話 四度目の門出
◇
「ただいまー」
疲労が滲み出るような声で帰宅を告げる。靴を脱ぐのも、いちいち玄関の式台に座らないとままならない体たらく。
「おかえりなさい!」
「あれ?」
玄関に放り出した荷物がすっと拾われる。俺の荷物をこうしてわざわざ拾い上げてくれる人間は一人しかいない。
勿論親ではない。そんな事をするような優しさは、微塵も持ち合わせていない。
「こんな時間にまた来てたのか」
こんな時間というのも無理は無いことだ。俺が帰宅した時間は終電ぎりぎり、時計の針が天辺を指そうとするぐらいの時間だ。
なぜ俺がこんなに遅かったのかと言えば、学校の課題がなかなか終わらなかったからという、自己責任なのだが。
「明日は休みだからお泊りしにきたの」
絶対語尾に音符が付いてるな。しかし、そうかもう今週も終わったのか…。毎日同じ事の繰り返しで曜日感覚が無くなっていた。
「それじゃあ疲れを癒してもらおうか」
そう言って俺は座り込んでいる自分の、背後にしゃがんで居る彼女を抱き寄せた。
「わっ」
「ただいま夕紀」
デザインの専門学校へ入ってもうすぐ二年。日々忙しいのも、もうすぐ行われる卒業制作発表会のせいだ。何度も繰り返している行事だが、毎回ギリギリまで掛かり余裕が無いのは、もはや自分でも苦笑いが出る。
夕紀は俺とは違い、三年制の専門学校に通っているため、卒業制作の辛さを味わうまで余裕がある。来年はヒイヒイ言えば良い。
あれ?でもその頃俺は社会人としてヒイヒイ言ってるのか…?
◇
ふと目の痛みを覚え、集中してた作業から一時目を離す。
目を休めようと周囲を見回すが、教室も蛍光灯の明かりで眩しかった。
窓の外を見ようとしたが、映るのはPCの並んだ教室だった。窓が鏡のように室内を反射しているようだ。それほどまでに外は暗かった。
「そうか、またこんな時間か」
窓から時計に目を向けると、そろそろ学校から出ないと、終電を逃してオールするはめになりそうだ。
「あら?まだ居たの?」
「あ、清水さん。もう帰りますよ」
PCの電源を落としている最中に声を掛けられた。どうやら清水さんは、講師補助員としての業務として見回りもしているようだ。
講師補助員というのは、非常勤講師が多い我が校独自のシステムらしく、日々忙しい講師の様々な作業をサポートする為にOBやOGを雇っているらしい。
まあ、俺達生徒から見たら年の近い姉や兄のような存在である。まあ、実習室などは先輩も後輩も入り混じって作業していたりするので、学年の垣根は飛び越えるのが容易だ。そのお陰で俺には、兄や姉のような存在はいくらでも居たが。
「隣の部屋にも何人か残ってたけど、終わりそう?」
「ああ、武藤とかですか?多分平気じゃないですかね。進み始めたらあいつは早いですし」
机の上に散らばっていたノートや筆記用具を手早く片付けながら、少々早口気味に答える。
隣にいる武藤や高木はいつもつるんでいるメンバーだ。学校の内外でも一緒にいる時間が多いので、専門で出来た新しい親友候補だとも言える。法律的に飲酒が出来るようになったら、朝まで外で飲むようになるだろう。
いつか、幸宏なんかと会わせてみるのも楽しそうだ。
「何か見えたみたいで、明日から漸くスタートだって言ってたわ」
その姿がすぐ浮かぶ。清水さんも思い出したのか、くすくすと笑っている。
「それじゃあ藤田君も早く帰りなさいね」
そう言ってPC教室の照明を落とされる。真っ暗な中廊下だけが光っている。
あまりの頭脳疲労に、一瞬自分が水槽に入った魚の気分になった。
廊下に出ると窓が開いているのか、外の音が聞こえる。やや繁華街に近い立地条件の為、この時間にも多くの人が居るのが分かる。
学生通りにごく自然と、恋人同士の休憩所があるぐらいだと考えてくれて良い。当然治安は少し悪い。悪いと言っても日本基準での悪さなので、運が悪ければ絡まれる程度だが。
言うなればクラスでの飲みか…もといお疲れ様会や新年会の帰りなどでたまに絡まれる事があるぐらいだ。
ふと外に飛んでいた意識を元に戻すと、急いで帰らないといけないことを思い出した。
まだ実習室に残っているだろう武藤は捨ておいて廊下を走ることにした。
走っている最中も頭の中では卒業制作の構想を描いていた。
◇
結局卒業制作が完成したのは、提出一日前だった。詰められる所はギリギリまで詰め込んでいたら提出ギリギリになってしまった。
高木や武藤など、俺の友人勢はキリが良い所で提出したようで、密かに俺の手伝いをしてくれていた。と言ってもデザイン内容に手を出すのではなく、模型写真の撮影や資料集めなど任せていた。
「ホントお疲れ様ー」
「あー疲れたよ…」
側でずっと見守ってくれた夕紀が労いの言葉を掛けてくれる。ついでに膝枕も追加で。
「あのさ…」
「ん?」
「久しぶりに顔を出せって言っていきなりイチャつくの止めてくれない?」
おでこに青筋ができそうだったので普通に座る。
「クールビューティーが台無しだぞ理恵」
「誰のせいよ!あとクールビューティーとか言うな!」
俺の忙しい時期が終わったので、久しぶりに友人を何人か呼んで遊ぼうかと企画したのだ。
「幸宏はコンパで遅くなるってさ」
携帯をパタンと閉じながら祐也が言う。大学に入ってあいつは本当に自由になったなとここにいる皆思ったことだろう。
「まだ午後になったばかりなのに、こんな時間からコンパって…」
「まあコンパとか言ってるけどただのグループデートなんじゃない?」
「もしくはサークルのイベントを強がってコンパとか言ってたり」
無言。数秒だがしんとなった。
「まあ来たら暖かく出迎えてやろう」
「それより、これから何するのよ」
今いる場所は駅の近くにある自然公園だ。時期が来れば薔薇などが咲き香り豊かになる公園だ。薔薇がいつ咲くかなんて知らないが(気が付いたら咲いていて、気が付いたら散っているぐらいの印象しかないダメな奴)
「とりあえずお昼食べない?」
そう言って理恵は何処からか弁当箱を出す。
何をするのか聞いておいて自分が選択肢を選ぶ。その姿まさに女帝の如く。
なんて言ったらきっとあの弁当箱が飛んでくるだろうな。
「幸宏がいなくて良かったね」
にこやかな顔で人の心を読む祐也。本当に末恐ろしい男だ。
「何よ…あたしが弁当作っちゃいけないの!?」
「いやいやそんな事誰も言ってないからな」
俺と祐也が苦笑していたことを誤解したようで、違う地雷に火がついたようだ。いつまで経ってもこの誤解癖というか自信の無さというか、悪癖は治らないようだ。
「二人共、理恵も女の子なんだなーって思ってただけだよ。ね?」
赤面している理恵をフォローするつもりの夕紀だが、それはフォローになっているのか怪しい所だ。
「まあ昼食ってから考えるか」
昼食を食べた後も近くの大型アミューズメント施設内にあるゲーセンやら、女子二人の買い物に付き合ったりするだけで、代わり映えしない時間だった。
「悪い悪い遅くなったぜ」
夕方になり、やや日も傾き始めた頃になり漸く幸宏も合流した。
が、すでにそれなりに遊び疲れている俺達の反応は適当だった。
「ああ」
「お疲れ様ー」
「あー今頃来たの?」
「(ニコニコ)」
祐也はあまり表情に出ていないが、女子二人の買い物に付き合うのは、思っていた以上に疲労があった。その分二人の機嫌と満足度は上がったようだが、逆に満足してしまったことで、もう今日はこれ以上何かをしようというモチベーションは無いようだ。
「さて、解散するか」
「私は智くんのおうちに寄っていくね?」
「あたしはちょっと夕飯の買い物していくわ」
「僕はフットサル場でも寄って行こうかな」
「え!?」
俺の言葉を皮切りに、みんなそれぞれ用事を思い出し解散していく。理恵は駅の方へ、祐也は大型アミューズメント施設の方へ、俺と夕紀は駅と反対側にある俺の家へ。
そして、取り残された幸宏のその後は誰も知らない。
家についた時に、携帯がメール着信を知らせていたがきっと迷惑メールだろう。
◇
卒業制作の発表会は二段階のステージがある。
まずは学年発表会。デザイン科と称される俺の居る科は、進路指導を考慮して高校のように担任が居る。三十人一クラスで二つクラスがある。
要するに学年で六十人、それにプラスして講師(常勤、非常勤、補助員)合わせて八十人の前でプレゼンするのが第一ステージ。
さらにそこで投票をして成績優秀者が決まり、次のステージへと上がるわけだ。
第二ステージは学内発表会。
学科の後輩や、学校長、理事長その他企業の人事部らしき人達、その他に違う学科からも見学者が来たりする。
階段上の講堂で発表する学内発表は、一種の就職活動である。自分の作品を学外の人間に見てもらうには、こういった機会やコンペに提出するしかない。
コンペにしても入賞しなければどこにも出まわらないので、学内発表会はプロを目指す人には絶好のチャンスなのだ。(勿論みんな少なからずプロを意識しているはずだが)
専門学校二年間の集大成を発表する日は近い。
◇
「で、自信のほどは?」
「勿論俺が最優秀だろ」
「寝言は以下略」
「言ってろ」
皆表情は笑っているが心が笑っていない。そんな殺伐とした雰囲気が、発表を控えた生徒の中に生まれていた。皆自分の作品に並々ならぬ自信を持っているのが伺える。
「まあ有力候補はあいつだけどな」
「中間プレゼンでも、結構感触良さそうだったしな…」
聞き耳を立てているわけじゃないが、そんなに広くない教室程度のオリエンテーションルームじゃ、自然と聞こえてしまう。
「だとさ?」
「まあうちらの中じゃ一番時間掛かってるだろうしなー」
「先を見越して動いていただけだ」
高木と武藤は卒制データの入ったUSBメモリーを、クルクルと手の中で弄びながら俺にもたれ掛かって来た。両肩が重い。
「普通高校出身の癖に、一年の頃から色々ずば抜けてたからなーこいつ」
「工業高校出身なのに製図で負けたのは嫌な思い出だな」
高木と武藤は共に工業高校出身で、一年の後期から始まった製図の授業でも頭一つ抜けていた。
「普通高校出身が居るからって、授業で手抜きしてたお前らが悪いだけだろ?」
「それにしても三時間ある授業の一コマ目で課題終わらせるとか、講師に喧嘩売ってるとしか思えないだろ」
笑いながら、その時を思い出して行くようだった。
「まあそのお陰で、お前たちと仲良く慣れたんだし結果オーライだろ」
「ちげーねーな」
普通科高校からの生徒が多い専門学校は、本当に基礎の基礎から授業が始まる。それでも大学と同じように知識が得られる理由は、その分野の勉強からしないからだと俺は思っているし、実際にそうなんだろう。
その為柔軟性に欠けるのが専門学校の欠点だ。この二年でリタイアした同級生も少なくはない。それだけシビアであり、目指す職へのモチベーション維持が重要だった。
「でも今回は負けられないな」
「勿論俺も会心の一作だ」
「三人とも学内発表いければいいな」
そんな話をしながら学年発表の時間まで過ごした。
「それにしても前々から動いてた割には完成するの遅かったよな」
「うるさい」
「…このように、利便性とデザイン性の両立を維持することが出来ると思われます。次に…」
プレゼンの肝は、観客の中でも特に注目してくれている相手を見つけ、その人を中心に自分のコンセプトに自信を持って発表することだと思っている。
声の抑揚や、分かりやすい発声は勿論気をつけなければいけないが、質疑応答などで際どいものを投げかけられたり、前もって予想出来ていた質問以外の視点で質問された時、怯まず多少こじつけでも詭弁を持って説得力を持たせるのも大事だと思う。
などと色々考えてみるが、結局は経験が物を言うのだと思う。人前に立つ事に慣れなければ始まらないのがプレゼンだ。
「…以上で私のプレゼンは終わります。質疑応答に入らせていただきますが、何かご質問ありますか?」
予想していた通り、卒業制作を担当していた非常勤講師の方が、何人か手を上げて質問をしてきた。
その質問に適宜答えると、講師もにこやかに笑いながら頷いてくれる。満足の行く回答だったようで少し安心する。
「それではご静聴ありがとうございました」
頭を下げると、パチパチと拍手が鳴り、皆手元にある評価シートに点数を書いていく姿が見えた。
高木と武藤は、こちらに拳を向け友人らしく称賛してくれた。
◇
後日通達された成績表によると、どうやら俺達三人は第二ステージへ登ることが出来たようだった。
晴れて企業にアピール出来るチャンスを手に入れたのだ。専門学校とはいえ、就職活動は大手企業の狭き門は勿論、個人経営の少数精鋭企業を目指せばそれだけ努力と運が必要になる。
そういう面で学内の賞とはいえ、優秀作品として選ばれる事には大きなアドバンテージが出てくるのだ。これは今までの経験上間違いないと言える。
特にデザインなどの分野は作品集の出来が採用の成否を左右する。
「ま、俺は行く企業決まってるから大して意味ないんだけどな」
「なら棄権しろ」
「棄権してくれ」
二年次ももう終わりに近付いている事もあり、未だに内定が決まっていない連中は大抵が選り好みしているか、この二人のように複数内定を貰いそれでもより良い企業へと望みを欠ける失礼な奴だろう。自分を安く売らないと言えばとても良い表現だが。
俺はと言われれば、すでに非常勤講師にスカウトされ内定も決まっている。授業などで気心も知れているし、何よりどんなデザインをするのかなど、事前に会社の概要を事細かく知れたのが大きい。
勿論オープンデスクなど会社のお手伝い兼見学もして社員さんの覚えも良くしてもらっている。
「内定と最優秀賞を狙うのは別だ」
「余裕ぶりやがって」
「ひっくり返されても文句言うなよ?」
二人が憎まれ口を叩くのはプレゼン前の恒例行事なので、俺もついつい調子に乗って煽ってしまう。
この二年間こうして互いに影響しあい、切磋琢磨を絵に描いたような関係で居られたことを幸運だと思う。
今までの繰り返しでは失敗や挫折もして、この二人とも疎遠になったことが無いわけではなかった。
夕紀との関係も良好で、なおかつ良き友人とも巡り会えたこの事にこれまでにない幸福感を得ている。同時に、酷い不安も抱えているのも自覚していた。
「さて、学内発表もサクッと終わらせて、残りの学生生活も満喫しましょうかね!」
「バイクで事故ったりしなければな」
「入院生活は退屈だぞ?」
茶化される武藤を尻目に、俺はそんな事を考えていた。
こうして日々が過ぎ専門学校最大のイベントも終わりを迎えようとしていた。
◇
「ハイチーズ!」
市のランドマークを兼ねている高層ホテルの会場を貸し切った卒業式は、それほど長い時間を掛けずに終わった。人によってはここに来る移動時間のほうが長いのではないのかと思うぐらいだ。(専門学校ということもあり、通学時間片道2時間ぐらいなら実家から通って居る学生も、少なからず居た)
「さて、もう粗方挨拶は済んだか?」
「そうだなー流石にもう誰も来ないんじゃないか?」
「他学科からも挨拶されるとは思ってなかったけどな~」
卒業式も終わり、三人で帰ろうかという時に数人の元学生に声を掛けられた。三年制の看護学科卒というその人達は、年齢だけで言ったら俺達の一つ以上先輩だった。
その為、無碍にして帰るわけにもいかず、話し込んでしまったのが運の尽きだった。
あれよあれよと言う流れで周囲に何人も集まり、誰がどの学科だとか把握することも出来ないまま、写真を撮ったり卒業証書の裏に寄せ書きのようなものを書かされたりと、大忙しだった。
「お前のせいだ」
「お前が元凶だ」
「お前らも同罪だ」
これも以前発表した三人の卒業制作が原因だ。最優秀が三点も出てしまっては嫌でも注目されるだろう…。
更にそれが、毎年市の文化ホールで行われる卒業制作展覧会で並んでしまったから事が大きくなった。例年ならホールの一ブースに各学科一作品なのだが、学科長が張り切って三点展示を理事長に提案。そのせいで他の学科よりもブースが大きくなり嫌でも目立つ運命となった。
「まあそのお陰で大手ゼネコンの設計デザイン部門に入れたんだけどなー」
「なら文句言うなよな」
そういつも通り馬鹿なやり取りをしつつ、会場の出口へと足を向ける。
程よい疲労で視線を下げつつ、だらしなくも踵を絨毯に掠らせながら歩くと、視線の先にヒールを履いた足が見えた。
徐々に近付いて来るその相手に視線を上げると、そこには補助員の清水さんが居た。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「ありがとう清水ちゃん」
「ありがとさん」
短かった卒業式のせいか、卒業したという実感が持てないままだった俺達は、その一言で漸く自分が新しいスタートを切ったのだと実感した。誰かが言ったわけではないが、自然とそんな気がした。
その証拠に、会場を後にする俺達は今までとは違い馬鹿な笑い声を上げたりせずそれぞれ何かを思い浮かべていた。
駅に着き、それぞれ別々のホームへ向かう時も、やはり二人の背中は今までとは違い少し背筋が伸びていた。
不幸と幸福は実はバランスよく訪れる
それに気がつけないのは誰もが不幸に縛られているから