トマス=アクイナクスの覚醒
ローマヴィア皇国は大陸最強の魔法立国である。
俺はその皇国の三大公爵家が一家門、アクイナクス家の長男として権勢を振るってきた。
己の欲するものはすべて力づくで奪い取り、邪魔者には容赦しない。
この生き方が当然で、もちろん最善だと思ってきた。
そういうことを考えながら、俺は一人広いベッドの上で天井を見上げていた。
暗い部屋をランタンの揺らめく炎だけが照らし出している。
呼吸が苦しい。頭が酷く熱く、ぼーっとして使えない。
額に置かれた袋が温くなっている。
それを誰かの手がぬっと現れて退かした。風が額に当たる。
「氷をお換えします」
重い視線を向けると、いつも通りの無愛想な茶髪の男がいた。
召使いのリヴ。俺の乳兄弟にあたる。錬金術師の家系から来たらしく、貧しい奴だ。
言葉より早く行動するなと何度も言っているのに聞きやしない。
鈍間で無礼。
文句を言って蹴飛ばしてやりたいのに、喉から出るのは掠れた隙間風の音だけだった。足なんか動きもしなかった。感覚もない。
大体、この無礼な召使以外の人間は誰一人として俺の部屋に来ないのだ。病を恐れ、死の淵に立っている主人を見舞いにも来ない。俺はこうなってから三日目の夜、奴隷も召使も神も全員殺してやると心に決めた。
リヴは軽い氷魔法で水袋を凍らせると、また俺の額に載せてきた。シャーベット状になった氷の感触が心地よい。
だが楽にはならない。
ぜえぜえとただ息をしていると、リヴは少し俺を見ているようだった。茶髪の前髪がかかった緑色の目は爬虫類みたいな温度をしていて、
「ご主人様」
コトリ。サイドテーブルに瓶のぶつかる硬い音。それにすら耳がキンと痛む。
「わたくし、薬を入手いたしました」
そういうことは早く言え。薬を入手したならすぐに渡せ。お前には俺が苦しんでいるのが見えないのか?
怒号は細い呻き声になるばかりだったが「承知しました」と召使は頷いた。
「お飲みくださいませ」
リヴが口元に薬瓶の口を添えてくる。金色に淡く発光する液体だった。魔法薬の類だろう。
舌に強い甘みが落ちる。飲み込む行為すら困難になった喉の激痛を押し殺して、俺はそれを飲み下した。
その瞬間、全身の毛穴が開くような衝撃とともに、意識を失ったのだ。
ハッキリしていることがある。
これは『異世界転生』だ。
俺は西暦二〇二六年、新宿の集団交通事故に巻き込まれて死んだ一般人の一人だった。
現代日本には科学があって、身分に左右されない基本的人権があって、科学好きだった俺は平民ながら平穏を享受して幸せに暮らしていた。
俺はそこで死に、『トマス=アクイナクス』として新たな命を手に入れたのだ。
そこまではいい。問題はここからだ。
『恋きゅん♡皇都シンデレラ物語』(以下『恋デレ』)を知っているだろうか?
知る人ぞ知るフリーゲームで、いわゆる乙女ゲームにあたる。
皇都学園に入学した主人公が、皇子や貴族令息を恋愛的に攻略していき、幸せになるまでを描いた物語。
『トマス=アクイナクス』はそのゲームの序盤で退場する悪役キャラクターだ。
漆黒の髪に輝くほど赤い瞳。イラストやスチルこそ美しかったが、内面が問題だった。
素行も悪く、成績も悪ければ性能も悪い。才能ある主人公に嫉妬して返り討ちに遭う、ただの咬ませ犬。チュートリアル。悪役令嬢の前座。
俺はそういうことを思い出した。
このままでは俺は死ぬ。
因果応報、天網恢恢疎にして漏らさず。
これは神のお導きだ。
バチリと目を覚ます。
仄暗い部屋には、レースカーテン越しに白い陽光が差し込みつつあった。全身を襲っていた痛みも倦怠感も熱も、嘘のように引いていた。
「ご主人様、お加減は」
リヴが薬瓶を片手に伺いを立てる。俺は半身を起こして告げた。
「リヴ。その薬は何だ」
召使は目を伏せて答えた。
「エリクサーでございます」
「エリクサーだと?」
俺はクッと片眉を上げる。リヴは頷いた。間違いないらしい。
エリクサーというのは伝説上の薬だ。大陸では厳格な管理下にある薬で、なかなか持ち出せるものではない。今回手に入ったのだとすれば、リヴが錬金術師の家系の出だとしても、奇跡的な話だろう。
俺はリヴを指さす。
「よくやった。残ったのもお前だけだな」
「左様でございます」
リヴは頭を垂れた。
「奴隷と他の召使共はどうした」
「妹御と弟御にそれぞれ預かられてございます」
つまり、もうすでに俺の手駒ではないということだ。父も母も俺を見放した。
「錬金術の準備をさせろ、リヴ」
薬瓶を取り、朝陽に透かす。
「始めるぞ」
黄金の輝きが瓶の底で煌めいた。
至急、必要なのは金策だ。
ここまでお目を通してくださりありがとうございます。




